来年の、NHK大河ドラマが「風林火山」と決まり何かと話題になっていますが・・・
関係する地域では、これらの話題を様々なところで取り上げ、特に観光の面では自治体・観光協会などがそれなりの予算計上をして誘客に役立てようとしています。
おらっちも役目上いろいろな会議に出席していますが、過去の会議の席でこれに関しての話が話題になったことがありました。現在は特に目立った動きにはなっていません。
歴史に夢を馳せるおらっちとしては、何か誘客の商品が・・・と思いつつ武田信玄・上杉謙信が飯山に関係する話題を見つける作業をし始めましたが・・・
まず今回の大河ドラマの「風林火山」は井上靖の小説を原作とするということで、さっそく一晩で読みふけってしまいました。
そして、まいったな~・・・・。奥信濃はひとつも出てこないジャン。
飯山という語句は、十二章の始めのほうに
「海津城の守将高坂昌信に、謙信出馬の情報がはいったのは、八月十四日の夜であった。兵数凡そ一万三千、富倉峠を越えて、飯山にはいり、川中島方面へ向けて進撃中という報せであった。」
という文章のなかに、一箇所あるだけです。
上杉謙信個人としても小説の中に細かく人物像が書かれてるわけでもありません。
斑尾高原・飯山市・妙高市この周辺、どんな所に関係付けて観光に役立てるか・・・・どうしましょう。
原作は・・・原作。 脚本家がどんなふうに台本を造るかが重要。
脚本担当の、大森 寿美男 さんは若手の脚本家です。
そこで斑尾山です。
武田・上杉双方の北信地方の攻防戦は飯山城をはじめ、上倉・奈良澤・沓津・替佐・壁田・野尻・関山の各城で行なわれました。
これらは、城が築かれた山と同様に歴史に残されていますが斑尾山は歴史上に出てきません。
関田峠や富倉峠は上杉の軍用道として有名ですが、万坂峠や樽本越はいっさい歴史上に表れていません。樽本集落には上杉の軍勢が通り抜けた記録があるように、少なからず関田を越える峠は利用されていたに違いありません。
相手方に気づかれず、川中島に行くためには樽本越・万坂峠は重要です。
ましてや斑尾山は、頂上からの眺望は北に上杉謙信の春日山までを見渡せ、南には千曲川の流れと遠く海津城(松代方面)まで見渡せる絶好の山です。
敵の動きを知る為には、これよりほか最高の物見山はありません、なぜこの山の頂上からそれぞれの軍は事あるときに通信手段の狼煙を上げなかったんでしょう。
おらっちの推測だけど、きっと密かに斑尾山の攻防があったんではないか・・・と思うんです。
長野高専教授の小林計一郎氏の「奥信濃の戦国」は、栄村箕作の常慶院の住職の語り風に書かれた文章ですが、1553年の頃のことが興味深く書かれています。
その中に、マタギの姿で秋山周りで武田の使者が来た、その人は山本勘助と名のりましたとあります。
もしも山本勘助が秋山周りで、密かに飯山を偵察し、武田山城替佐城からの斑尾山を経由し様々な策を講じていたと考えると・・・・
脚本家の大森さんにお手紙でも出したくなりますね・・・。
原作に沿ったものになるのなら、やはり山本勘助と由布姫中心(山梨甲府と諏訪)になってしまうんでしょうか。
ちなみに、栄村箕作の常慶院の山門(幕末の嘉永3年(1850)に上棟、同7年に完成、総けやき入母屋造りの三間楼門。特色は彫刻など過飾的な建物で、柱は全て2階まで通し柱になっていること。日光東照宮の陽明門を模して作られ、新潟県の大工棟梁菊池茂助のほか腕利きの配下28人衆によって建築されたと棟札に残されている)は見事なものです。(前にブログに書きましたが<寺瀬のルーツ>)山門の前に仁王門がありますが、中の仁王像、これは,おらっち寺瀬の祖先13代目半六・14代目善助の合作であり、愛宕町から荷車で2日間をかけての搬送であったといいます。
何かおもしろい話、あったら教えてください。・・・・・・よろしくです。