MRI

定期検診で病院へ行ってきました。
膝を念のため細かく見ておこうというものです。
工事現場のような音の中と、狭いトンネルの中で約30分ほど
思わず気持ちよく寝てしまいました。技師の人に笑われてしまいました。

結果は、まず心配なし・・・・骨折と骨打撲の中間。いわゆる骨挫傷というんだそうです。
骨に若干の内出血があるのと、内側の半月版がちょっと傷ついてるのと、全体にちょっと水がたまってる程度です。

まだ、2ヶ月だもんな~。入院してた時の看護師、リハビリの療法士さんたちにあったら、回復の速さに驚いてました。日頃の鍛え方がよかったんでしょうか・・・
でも、本人はあせりますな~・・・。

「風林火山」

来年の、NHK大河ドラマが「風林火山」と決まり何かと話題になっていますが・・・
関係する地域では、これらの話題を様々なところで取り上げ、特に観光の面では自治体・観光協会などがそれなりの予算計上をして誘客に役立てようとしています。

おらっちも役目上いろいろな会議に出席していますが、過去の会議の席でこれに関しての話が話題になったことがありました。現在は特に目立った動きにはなっていません。
歴史に夢を馳せるおらっちとしては、何か誘客の商品が・・・と思いつつ武田信玄・上杉謙信が飯山に関係する話題を見つける作業をし始めましたが・・・

まず今回の大河ドラマの「風林火山」は井上靖の小説を原作とするということで、さっそく一晩で読みふけってしまいました。
そして、まいったな~・・・・。奥信濃はひとつも出てこないジャン。
飯山という語句は、十二章の始めのほうに

「海津城の守将高坂昌信に、謙信出馬の情報がはいったのは、八月十四日の夜であった。兵数凡そ一万三千、富倉峠を越えて、飯山にはいり、川中島方面へ向けて進撃中という報せであった。」

という文章のなかに、一箇所あるだけです。

上杉謙信個人としても小説の中に細かく人物像が書かれてるわけでもありません。
斑尾高原・飯山市・妙高市この周辺、どんな所に関係付けて観光に役立てるか・・・・どうしましょう。

原作は・・・原作。 脚本家がどんなふうに台本を造るかが重要。
脚本担当の、大森 寿美男 さんは若手の脚本家です。

そこで斑尾山です。
武田・上杉双方の北信地方の攻防戦は飯山城をはじめ、上倉・奈良澤・沓津・替佐・壁田・野尻・関山の各城で行なわれました。
これらは、城が築かれた山と同様に歴史に残されていますが斑尾山は歴史上に出てきません。
関田峠や富倉峠は上杉の軍用道として有名ですが、万坂峠や樽本越はいっさい歴史上に表れていません。樽本集落には上杉の軍勢が通り抜けた記録があるように、少なからず関田を越える峠は利用されていたに違いありません。
相手方に気づかれず、川中島に行くためには樽本越・万坂峠は重要です。

ましてや斑尾山は、頂上からの眺望は北に上杉謙信の春日山までを見渡せ、南には千曲川の流れと遠く海津城(松代方面)まで見渡せる絶好の山です。
敵の動きを知る為には、これよりほか最高の物見山はありません、なぜこの山の頂上からそれぞれの軍は事あるときに通信手段の狼煙を上げなかったんでしょう。
おらっちの推測だけど、きっと密かに斑尾山の攻防があったんではないか・・・と思うんです。

長野高専教授の小林計一郎氏の「奥信濃の戦国」は、栄村箕作の常慶院の住職の語り風に書かれた文章ですが、1553年の頃のことが興味深く書かれています。
その中に、マタギの姿で秋山周りで武田の使者が来た、その人は山本勘助と名のりましたとあります。

もしも山本勘助が秋山周りで、密かに飯山を偵察し、武田山城替佐城からの斑尾山を経由し様々な策を講じていたと考えると・・・・

脚本家の大森さんにお手紙でも出したくなりますね・・・。

原作に沿ったものになるのなら、やはり山本勘助と由布姫中心(山梨甲府と諏訪)になってしまうんでしょうか。

ちなみに、栄村箕作の常慶院の山門(幕末の嘉永3年(1850)に上棟、同7年に完成、総けやき入母屋造りの三間楼門。特色は彫刻など過飾的な建物で、柱は全て2階まで通し柱になっていること。日光東照宮の陽明門を模して作られ、新潟県の大工棟梁菊池茂助のほか腕利きの配下28人衆によって建築されたと棟札に残されている)は見事なものです。(前にブログに書きましたが<寺瀬のルーツ>)山門の前に仁王門がありますが、中の仁王像、これは,おらっち寺瀬の祖先13代目半六・14代目善助の合作であり、愛宕町から荷車で2日間をかけての搬送であったといいます。

何かおもしろい話、あったら教えてください。・・・・・・よろしくです。

復帰・第1戦

飯山市一帯が森林セラピー基地に認定され、その取り組みの一つとして「健康への旅」のモニターツアーが行なわれています。斑尾高原では7月に2回、今月に入り18日から20日にかけ3回目のツアーが行なわれています。

ツアー日程の中に、到着日の14時から「斑尾高原”母の森”のご案内}があります。
赤池周辺のブナの森の中をトレッキングをしたり、また普段経験が出来ないようなゆったりとした時間をすごし、心穏やかな癒やしを森からの贈り物として感じていただこうと8名のお客様をご案内したんです。

復帰後の第1戦であります。
朝からのウォーミングアップはOK。膝の状態も心配なさそうです。心配なのはこの天候の暑さです。
ガイドの内容は、普段のトレッキングガイドと違い、歩くことは少なく森の中で30~40分心静かに過ごすことへのガイドです。
おしゃべりガイドで有名なおらっちとしては・・・・・それが一番つらい!!。

森へのトレイル・・・立ち上がりは順調であります。
いよいよ森への入り口から階段が・・・・・クリーンナップの登場といったところ。
なんとか緊張感をもちマイペースで勝利投手の権利をつかむ付近まで・・・

先をあせるわけではないが、時間がたたない!
何をしよう・・・・得意な話をしてもいいのか・・・セラピーって言うからにはそのようは話じゃなければまずいんかな~・・・

ブナの木はとっても強く過酷な自然条件のなかで生き残り私達人間にたくさんの恵みを与えてくれてるんです・・・・

自然からの気を体に取り込み、私達の体が本来持っている免疫力を高めることに効果があると言われる、大きくゆっくり複式で呼吸してみましょうか・・?

ゆったりと木になったつもりで、ヨガにある木のポーズしてみましょうか・・・

ここ斑尾高原て言う所は、歴史的にはこんなところなんです・・・。

斑尾山は・・・妙高山は・・・湿原は・・・ミズバショウは・・・

って、いつもの調子よりはゆったりと・・・声のトーンも落としめ・・・そして・・にこやかに。

てなわけで、なんとか完投。   完封とまではいかないが・・・反省点もいっぱい。

25日にはまたまた、登板予定。
相手打線は・・・・お互い気持ちの良い、心に残る・・試合に!
練習試合なんで、勉強・勉強・・・・です。

妙高山・その2の2

妙高山にまつわるお話は、あるようで無いし、無いようであるんじゃないかと思いいろいろ調べまくっていますが・・・・。
<タム>さまには、いろいろと情報ありがとうごじゃります。

さて、昔々能登半島から北陸地方の日本海側の地域を、越と呼んでいた時代があったんです。
大化の改新(645)の頃です。
越(高志・古志)と呼ばれ、7世紀末に北陸地方が高志の前(くち)越前・高志の中(なか)越中・高志の後(しり)越後の3つに分かれました。
大宝2年(702)には、頚城・魚沼・古志・蒲原の4郡が越中国から越後国に移されています。

その後、越中の国は能登半島が編入し天平18年(746)には、越中国守として万葉の歌人、大伴家持(大伴旅人の長男718~785)が就任しています。
万葉集の中で家持は、越中を「越中守」・「越中国守」・「越中風土」と漢字で表現しているが、万葉仮名で発音する場合は、すべて「コシ」であります。

この時代の越中(高志の中)を代表する山として妙高山は、高志(こし)の中山なかやま)と呼ばれたとありますが、万葉集の中では高志の中山とか妙高山とか名香山とかは一つも詠まれていません。越後の中で詠まれているのは弥彦です。2かしょで詠まれています。

妙高山は古くは「越(こし)の中山(なかやま)」と呼ばれた。その中山が名香(なか)山となり、名香山では漢詩などに詠み込むのに具合が悪いので、音読みして名香山(みょうこうざん)となり、さらに字を飾って妙高山となった。現にこの山の麓には、名香山(なかやま)村の名を存している。
「日本百名山」 深田 久弥薯より

とある。
名香山村と言うのは1955年4月10日に妙高高原村になり、1956年9月30日に杉野沢村が合併し、1969年10月1日妙高高原町になっています。
2005年4月1日新井市になっています。

古代には、高志の中山・越の名香山と呼ばれ、中世には木曽義仲、戦国時代には上杉謙信が仰ぎ見た妙光山、そして現在は越後富士と呼ばれている妙高山。
木曽義仲が、山頂に阿弥陀如来像を安置し、上杉謙信も信仰した山を「妙光山」としたのも、朝日に輝く妙高山(須弥山)を見れば解るような気がします。

妙高山・その2の1

そろそろ、妙高山の続きにとりかからねば・・・。
妙高山って何時頃から妙高山・・・? と呼ばれたんでしょう。

仏教からの呼ばれ方と地域的は呼ばれ方などいろいろ考えられます。
仏教からの考えは、・・・とっても長くなります。
それでなくても、おらっちの話の長いのはご存知の所ですが・・・・

そもそも、日本に仏教が伝わったのは何時のことなんでしょう。
いまさらの事ではありませんが、昔からこれには多々説があったようです。日本史上において最も古い議論は、約1200年ほど前の弘仁年間(810~824)だったらしい。
最澄の552年説と護命の538年説とであります。
いずれも、「日本書紀」(日本最古の歴史書、神代から第41代持統天皇(女性天皇)までの出来事を漢文でまとめ720年に完成)の内容やその他の書物の中に書き留められている事柄によってであるんですが、第29代天皇「欽明天皇」の時代です。
百済(くだら)の国(朝鮮の古代の国で新羅(しらぎ)・唐の連合軍に攻められ660年に滅んだ。仏教がさかんで多くの僧や技術者が日本に渡来し住み着いた)の聖明王が、仏教・経典・僧などを欽明天皇年間に遣わしたと記されていることによるものです。
双方が唱える説の要因から見ると538年が信憑性が高いとされているが、「日本書紀」は欽明元年を540年としているんです。
「元興寺縁起」や「法王帝説」を基にしている信憑性のある説とすれば、538年に欽明天皇の代が始まってなければいけないことになるんです。

仏教、いわゆるお釈迦さまの教えの中に宇宙に関する考え方があり、直径が太陽系程の大きさの円盤が3枚重なった上に、高さ約132万kmの山が乗っていてこれが一つの世界としています。
この山を「須弥山・しゅみせん」と呼んでます。須弥山はサンスクリット語のスメールの音写であり、三蔵法師「玄奘」はこれを「妙高山」と漢訳したんです。

「玄奘」三蔵法師(600?~664)はインドの旅から戻ったのは、645年の1月です。約20年を持ち帰った経巻657部1335巻の漢訳に捧げ、旅の様子を弟子に口述筆記させ「大唐西域記」としてまとめたものが、後に「西遊記」となったんです。

と、いうことで妙高山として日本に入ったのは、664年以降、遣唐使が仏教の漢訳を持ち帰り、何らかの容にて誰かがこの地を修行中に、その容姿から須弥山「妙高山」と名付けたのでは・・・・・。

インドの須弥山とされる「カイラス山」は西チベットにそびえる標高6714mの独立峰で、外輪1周53kmが巡礼の路となっている。平均4000m~5000mくらいの非常に厳しい条件の路のようです。カイラス山の容姿・地域の地形はまさに妙高山にそっくりです。白山から火打山・妙高山までの修行の路も似ている部分です。黒姫山・飯綱山・戸隠山と続いていたのかも・・・・。

日本に妙高山ってもう一つあるんです。 知っていましたかぁ~。
兵庫県丹波市春日町市島町にあるんです。標高は564,8mでやはり山頂にはお寺があり、修験道の霊地として開かれたとあります。

ちょっと長くなってきたぞ~
細かいことを書いていくと今夜中には終わらないかも・・・・
地域的は説は・・・・明日かな?