妙高山・その2の1

そろそろ、妙高山の続きにとりかからねば・・・。
妙高山って何時頃から妙高山・・・? と呼ばれたんでしょう。

仏教からの呼ばれ方と地域的は呼ばれ方などいろいろ考えられます。
仏教からの考えは、・・・とっても長くなります。
それでなくても、おらっちの話の長いのはご存知の所ですが・・・・

そもそも、日本に仏教が伝わったのは何時のことなんでしょう。
いまさらの事ではありませんが、昔からこれには多々説があったようです。日本史上において最も古い議論は、約1200年ほど前の弘仁年間(810~824)だったらしい。
最澄の552年説と護命の538年説とであります。
いずれも、「日本書紀」(日本最古の歴史書、神代から第41代持統天皇(女性天皇)までの出来事を漢文でまとめ720年に完成)の内容やその他の書物の中に書き留められている事柄によってであるんですが、第29代天皇「欽明天皇」の時代です。
百済(くだら)の国(朝鮮の古代の国で新羅(しらぎ)・唐の連合軍に攻められ660年に滅んだ。仏教がさかんで多くの僧や技術者が日本に渡来し住み着いた)の聖明王が、仏教・経典・僧などを欽明天皇年間に遣わしたと記されていることによるものです。
双方が唱える説の要因から見ると538年が信憑性が高いとされているが、「日本書紀」は欽明元年を540年としているんです。
「元興寺縁起」や「法王帝説」を基にしている信憑性のある説とすれば、538年に欽明天皇の代が始まってなければいけないことになるんです。

仏教、いわゆるお釈迦さまの教えの中に宇宙に関する考え方があり、直径が太陽系程の大きさの円盤が3枚重なった上に、高さ約132万kmの山が乗っていてこれが一つの世界としています。
この山を「須弥山・しゅみせん」と呼んでます。須弥山はサンスクリット語のスメールの音写であり、三蔵法師「玄奘」はこれを「妙高山」と漢訳したんです。

「玄奘」三蔵法師(600?~664)はインドの旅から戻ったのは、645年の1月です。約20年を持ち帰った経巻657部1335巻の漢訳に捧げ、旅の様子を弟子に口述筆記させ「大唐西域記」としてまとめたものが、後に「西遊記」となったんです。

と、いうことで妙高山として日本に入ったのは、664年以降、遣唐使が仏教の漢訳を持ち帰り、何らかの容にて誰かがこの地を修行中に、その容姿から須弥山「妙高山」と名付けたのでは・・・・・。

インドの須弥山とされる「カイラス山」は西チベットにそびえる標高6714mの独立峰で、外輪1周53kmが巡礼の路となっている。平均4000m~5000mくらいの非常に厳しい条件の路のようです。カイラス山の容姿・地域の地形はまさに妙高山にそっくりです。白山から火打山・妙高山までの修行の路も似ている部分です。黒姫山・飯綱山・戸隠山と続いていたのかも・・・・。

日本に妙高山ってもう一つあるんです。 知っていましたかぁ~。
兵庫県丹波市春日町市島町にあるんです。標高は564,8mでやはり山頂にはお寺があり、修験道の霊地として開かれたとあります。

ちょっと長くなってきたぞ~
細かいことを書いていくと今夜中には終わらないかも・・・・
地域的は説は・・・・明日かな?

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