「烏踊り(からすおどり)」について・・・あるじのガイド

烏踊りは、長野県北部から新潟県南部一帯に広く分布する民族芸能の一つです。

中世長野県北部の戸隠山で発達した戸隠山修験道の先達、宣澄法印(1468年没)を供養して踊る、宣澄踊りが元になっていると伝わっています。

天台宗大先達、宣澄阿闇梨は、戸隠出身で戸隠顕光寺の天台派、真言派との間の法論の最中、応仁2年(1468年)に暗殺されています。13年後文明13年(1481年)に、「宣澄祠」が建立され、現在も戸隠村の神社内に同村の史跡として守られています。

 

天台派 (本山派)

熊野本宮、新宮、那智の熊野三所権現を中心に発達し、寛冶4年(1090年)の白河院の熊野行幸の際、三井寺(園白寺)の増誉(ぞうよ・1032~1116年)が先達を務めた功により、聖護院を賜り、室町時代以降、聖護院は天台修験の本寺として「本山派」として成立。本山派の本山とは熊野を意味している。

天台宗は、鑑真(688~763年)に影響を受けた最澄(さいちょう・767~822年)が開祖。805年、後の延暦寺を本拠としている。

天台宗の教え=「一切皆成仏」すべての人が仏になれる。

 

真言派 (当山派)

熊野から大峯の本山派に対して、大和側の吉野から金峰山(きんぷせん)を拠点とする修験が中心となり形成された。当山派の開祖は、真言宗醍醐寺の聖宝(しょうぽう・平安時代初期)とされており、戦国時代の永禄年間(1558年)頃から金峰山を当山と呼んだことから当山派と称した。

真言宗は、空海(くうかい・774~835年)が開祖。809年高雄山寺を拠点に真言密教を広める。

真言宗の教え=「即身成仏」体、言葉、心すべてにおいて、大日如来と一体化することで、現世において仏になれる。

最澄は、比叡山を拠点に、空海は、京都の高雄山寺を拠点に密教を広め、互いに親しく交わり、804年には、二人共に中国の唐にわたっている。空海は812年、最澄に灌頂(かんじょう・真言宗で修行者が一定の地位に上がる時、頭上に香水を注ぐ儀式)をさずけたが、4年後には教義上の対立を理由に交友を断っている。

 

烏踊りの成立は、16世紀(1501~1600年の100年間、室町時代・安土桃山時代)中ごろではないかとみられています。その後、約100年程して北信濃(飯山・木島平・野沢温泉・栄・等)から南越後(津南・中里・松之山・新井・妙高・等)一帯に広まっていったのは今から、250~300年前のことであり、宣澄踊りの成立からは約450年の歴史をもつ伝統的民族芸能であるといえます。

この踊りの名称については、元来山岳信仰に源をもつ修験道では、カラスを神の使いとしてきたことから、それに因んでこの名前がついたのではないかと見られています。

戸隠山修験道の行者(山伏)たちは、自分たちの宗教活動の方法として、各地に戸隠講を組織し、その中で、この踊りを歌い踊ってきたと考えられます。

それは、この踊りの中に修験道の考え方や習慣が垣間見られることにあり、たとえば、踊りの足さばきに、ワンパターンの9つからなりたっているが、これは山伏が手で行う「九字の修法」(臨兵闘者皆陣烈在前)を足で行ったものとみられています。

 

「九字の修法」

伝統的な、古い魔除けで、「臨兵闘者皆陣烈在前」あるいは、道教系のより古くは「臨兵闘者皆陣烈前行」の九文字を唱えると共に、空中に縦四本、横五本の篭目を描く。魔物は篭目などの目があるものを見ると、その数を数えるまでは動けなくなると言われ、魔物が数を数えるまでの間に何らかの手段を講ずればよいわけである。

元々は、単なる魔除けの方法であったが、日本に入り複雑化し、特に修験道では、特に複雑な作法がある。九字を行うことを、「九字を切る」という。

 

野良着姿に手ぬぐいで頬かぶりをした男性が、酒を酌み交わしながら「踏む」「蹴る」の動作が中心の素朴な踊りで、前唄、中唄、後唄からなっているので、七五三踊りともいわれています。

手を叩き、地を踏む動作は、修験道における善霊を目覚めさせ、悪霊を踏み鎮めるとする「反閉」(へんばい)の考え方にあるようです。

 

「反閉」(へんばい)

支那の夏の始祖、兎が行ったとされている歩き方で「兎歩」(うほ)。呪術的歩行法で道教が起源といわれている。日本では「反閉」として伝えられ、神道、仏教、陰陽道、修験道などに取り入られている。基本は、後ろの足が前の足を追い越さない足運びで、また足を地から離さない、すり足のような歩みであり、力士が踏む四股などもこの流れにあるといわれている。

この民族芸能の歌詞を含めた音楽的特徴は下記の通り。

  1. 歌詞の形は、五七五、あるいは五七七と3つの音節を一まとまりにした一句からなり、それが連歌のように3句、4句、5句と連続して歌われている。
  2. 歌詞の内容は、娯楽的のものが多いが、その中に僅かではあるが修験道の密教的な思想(大日如来や即身成仏論 等)や倫理的、道徳的な事柄の歌詞がある。

 

戸隠山に修験道が入ってきたのは嘉祥2年(849年)とされています。

修験道は日本固有の宗教で、山を聖域、あるいは他界と見なす山岳宗教に、陰陽道、道教、仏教などが合わさって形成されています。開祖は役小角(えんのおずぬ・634~701年)後の役行者(えんのぎょうじゃ)であるとも役行者の弟子「学問行者」であるともいわれ、「学問行者が、まず飯縄に来り而して後戸隠を開く」ともある。学問行者が嘉祥3年(850年)飯綱山に登った際、つえを投げると宝窟山(戸隠山)にとまり光を放っているので、行者が光をたずねていくと9頭1尾の大竜が現れ、「早く大伽藍を建て、この山を守れ」と命じた。これが開山の伝説です。

この寺を戸隠山顕光寺といい、50年ほどして下方に光を発する所があり、それが宝光院となり、200年ほどして中院が出来たとされています。

奥社には、天岩戸を投げ捨て、その戸を隠した山ことから戸隠山と言われる神話にもとづく話の中の、手力雄命と摂社にはく九頭竜権現を祀ってあります。

天台、真言両宗の山伏は、「九頭竜神」を祀る戸隠にいつとはなしに住み着き、天台宗は、現在奥社のある顕光寺の谷に、真言宗は西岳直下の西光寺の谷に陣を構え、鎌倉、室町時代には、俗に「戸隠三千坊」といわれるほどの修行道のメッカでした。

役小角は鬼神を使い、「孔雀明王の呪}をよく行ったと言われています。

 

「孔雀明王呪」

孔雀明王は、文字通り孔雀が神格化されたもので、インドでは孔雀は毒蛇を食らい、恵みの雨を呼ぶ吉鳥とされている。そのため、孔雀明王は、息災(延命)と、祈雨にさいし招請される。

 

人々の生活に欠かせない水を与えてくれるのは川や湖であるが、一番の元は山であり修験道に関係する戸隠山は古くから現在も雨乞い祈願が絶えない所となっています。

 

飯縄権現

飯縄(飯綱)は、戸隠山と連なる修験道屈指の名山です。

保食神(うけもちのかみ・食べ物の神)の降臨地とされ、飯縄とは「命の綱」ともいわれていて、飯縄権現に祈念すれば、権現が変幻自在に身を転じて、様々な術が振るまうことができるといわれています。

平安時代、飯綱山上に奉祀された飯縄権現を原点とし、全国に分祀され飯縄信仰として定着したとみられています。

また、飯縄権現は、神仏習合の色合いが強い地域の山、戸隠山と同じ孔雀明王と同一視されているが、修験道での飯縄法では、修法者は「飯縄使い」又は「狐使い」と呼ばれ、この使役する「狐」は術者を妨害し、あるいは攻撃する者を、微塵に砕くといわれています。仏教での飯縄権現は、真言宗の教主「大日如来」の使者である不動明王が姿を変え修正生を救済するとも言われ、軍神として戦国期の武将たちに受けいられ、鎌倉時代のはじめ、信濃の国萩野(上水内郡信州新町)の地頭伊藤忠縄、盛縄父子が飯綱山にこもって編み出した小動物を使った妖術「飯縄法」であり、飯縄権現同様上杉謙信、武田信玄、北条の武将のなかに広く信仰されていたようです。

蔵王権現も不動明王の化身であるといわれています。

 

「仏様のランク」

大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来といった如来は真理の世界から来た者という意味があり、悟りの境地に至って真の仏となった者を言い、如来だけが仏であるともいえる。

大日如来は、宇宙の中心にいる根本仏とされ、曼陀羅においても中央に位置し、「大いなる日輪の如来」としている。

次に観音菩薩、地雷菩薩、日光菩薩、月光菩薩といった菩薩がいるが、これは修行者でいずれ如来になるであろうものである。阿弥陀如来も仏になる前は、法蔵菩薩という名前であった。

その他に、明王、とか天といった仏で、不動明王、帝釈天などであり、いわば仏教の守護者である。

修験道は、「役行者」(えんのぎょうじゃ・634~701年)が、大峯山中、地上で苦しむ人達を救う神を顕現するために一心に経を唱え、荒々しい神をと祈り現れたのが蔵王権現である。仏典には出てこない日本固有の神であり修験道のシンボルとなっている。日本古来の山岳宗教(自然崇拝)に、仏教、神道、道教などが結合され成立したものとされている。基本は、教理を探究するのではなく大自然の霊気の中で修行を積むことで、人間の本能的欲望を断ち切り、「即身即仏」の境地に達しようとする宗教であり、その歴史は常に庶民の歴史であったともいえる。

日本の仏教の基層には、豊な大自然に育まれてきた日本人が、山を拝み、火を拝み、水や風、人間をとりまくものを拝みながら行じていく修験道的な宗教観が生まれできて来たたものと思われる。

 

修験道の行者は、山中にこもり苦行を重ね、神仏との交流を図り、あるいは経文(呪分)を学び、また山中にて生きる知識を持って薬の調合や、様々な呪術を行使して民衆に知られていきました。

平安時代ではたびたび弾圧され、禁令も出されたが、平安末期には、天台、真言の密教道場が山中に多くあったために、山岳修行者が激増しました。

鎌倉時代には、密教の理論と行法を中核とした修験道独自の教派として、原始の山岳信仰から修験道へと発展していったようです。

江戸時代には、徳川幕府から「山伏法度」が定められ、定住が義務づけられ、そのため山伏たちはより世俗化がすすみ、教義が整備され、教団として拡大していきました。

 

「山伏」

山伏あるいは山臥ともいい、文字通り「山に伏せる者」の意味で修験者が山中に伏して、様々な力を獲得することからこの名がある。山は日本では「他界」であって、そこに暮らし、修行を行う山伏は異人であり、そのため、山伏が「天狗」などと混同された。

 

明治2年(1869年)には、神仏分離の政令が発せられ、修験道自体が廃止されている。そのため、戸隠山も神社となり、小菅も同様に明治33年より小菅神社として今日に至っています。

 

「戸隠講」

戸隠講は戸隠山という「霊山」と九頭龍権現に対する民間習俗的信仰をもとに組み建てられている。室町時代の頃から、その兆候は見られたものの組織自体はまだ発達していなかったといわれる。しかし、戸隠周辺の北信州や南越後では講の前身の兆候が始まり、その中で「烏踊り」は伝えられたとおもわれる。江戸時代の早い時期から講の組織化が進んだと、檀家の数から考えられる。天保12年(1841年)における戸隠山顕光寺の檀家数は、一万六千九百二十、宝光院関係が四万二千百二十、中院関係二万二千百二十、全体の数は、八万二千余りと記録されている。

戸隠講の特徴は、戸隠で修行を終えた山伏を使って、布教活動をしたり、信者の組織化を行わせている。また、衆徒自身や代人を使い、お札等の配布や初穂料の徴収をしていることである。お札には色々な種類があり、庶民が戸隠山に期待した広範囲なご利益に応える性格のお札であり、講者の人達へのお土産は、煙草、や各種の薬類など、人々に喜ばれる物を持って行ったと記録されている。

講社を回る衆徒や手師たちは、「戸隠さん」、と親しく迎えられ、「旦那」、「ごっしゃん」(御師匠さん、御師さん)とよばれ、各地で大事にされ、待たれていた。

講中の人達がそれほど待っていた「戸隠さん」は何だったんだろうか。

それは、戸隠の衆徒や山伏たちが伝えた技術、知識であった。修行より得た知恵、戸隠山に回遊して来る多くの参拝者や修験者を通じた知恵や情報、それらを総合した特別な技術、知識を伝えてくれるのを待っていたのではないか。

特に、九頭龍権現の秘法として、呪術や祈祷などによるのではなく、衆徒、修験者、手師が行った治水技術、知識があったと思われる。それらの技術が新田開発や水害に悩む川沿いの庶民を助け、治水に貢献していたのではないか。

また、多くの薬草による、庶民を病気から救うなどの働きもあったと思われる。

戸隠の信者は、信州が中心で、続いて越後方面が多く、北は北海道松前、奥州、西は京、大阪まで広がり、江戸にはかなりの信者がいた、武士、大名、公家までが信者に加わっていた記録も残っている。

「戸隠そば」も、始めは修行者の食べ物であったものが、宿坊で講の人々に振るまわれ、それが地方へと広まり全国ブランドとなった。

 

九頭龍権現(くずりゅうごんげん)

平安時代以降、戸隠山は修験の霊場として全国に知られていた。この地には九頭一尾の竜神がいた、その大きさは戸隠山から新潟県妙高村関山を回り、能生町までしっぽが届いたほどであった。関山神社には胴中権現、能生の白山神社には尾先権現が祀られた。九頭龍権現は水の神様で、昔から干ばつの時は全国から雨乞いの祈願に参拝する信者が多く、九頭龍伝説は語り伝えられ、信越地方一帯の水を司る神様として、水神信仰は現在も人々の生活の中に生きている。

 

戸隠流(とがくれりゅう) 忍術

修験道における山中での修験による身のこなし、山中での生活の知恵、薬草からの薬類、兎歩などに見られる歩行術、講を介しての戸隠に集まる情報、各地を回って得る情報 等これらが戦国の時代には幕府の、地方の藩の隠密としてその技が利用されたのではないか。戸隠流は、甲賀や伊賀など様々な忍法の基でもあり、多くの流派に影響を与えている。

また。この様な動きを制限したのが、徳川幕府の「山伏法度」でもあったと思われる。

修行で得た、走力、跳躍力、夜間の行動などが誇張され、忍術と評価された。

戸隠そばも、素のそば粉は信者回りをする時の、携帯、非常の食料でもあったのでは。

大日如来がむすんでいる「智拳印」という印契(手の握り方)が忍者が姿を消したり、変身するときの印の結び方であるかどうかは疑問であるが、大日如来の「智拳印」から来ていることは確かなところである。

忍術の真髄は、「物の認識や人としての武徳が必要で、神の意識に同化できるように捨身慈悲の覚悟で一貫すること」と伝えられている。

もぐさ観音について・・・あるじのガイド

妙高村には、もぐさ観音とよばれるものが二ヶ所あります。大鹿と上樽本にあり、大鹿のもぐさ観音は毎年5月18日に、もぐさ団子を供え、法逢寺の住職の読経により無病息災を祈念しています。上樽本のもぐさ観音は4月18日に、よもぎ餅や赤飯を食べながら、この地の開村に関係ある小出家と上樽本の人達が観音堂に集まりお参りをしています。守り本尊の観音像は信濃の国田上の分霊といわれており小出家三代目吉親が信濃守に国替えをした後、(1630年ごろ)この地に来る時に一緒に来たものではないだろうか。

「もぐさ」とは、ヨモギから作るお灸にはなくてはならないものである。ヨモギは畦や草地にある多年生でキク科の植物です。葉は大変よい匂いがして繊維の染色にも使われる。ひな祭りには草餅にして食べたり、端午の節句には軒先につるして病魔を払う。子供の健やかな成長を願う大切な節目に、ヨモギは古くから利用されてきました。茎や葉の裏には密に絹毛があり、白いこの毛を集め「もぐさ」を作る。このほかヨモギ酒やヨモギ風呂、煎じ薬などに利用され、健康維持や病気予防に重宝な有効成分をもっています。雪が解け最初に芽を出すのがヨモギであります。ヨモギには、ビタミンや蛋白質が多く含まれるので長い冬を過ごした人々には新鮮な栄養源となっていたのでしょう。ヨモギは日本的なものに思われるが、ヨーロッパからアジアにかけ広く見られ、ローマ時代の伝説の中に「ハーブの母」として出て来るくらい、薬草としても古くから親しまれて来ています。ヨモギという名称は、善燃草(よもぎ)「よく燃える草」という意味があるくらい、乾燥した葉は毛がたくさんあるので火付きがよく、昔は木をこすり合わせて火種を起こすのにも使われたのかもしれない。しかし名称の由来はわかっていないが源氏物語にも「蓬生」(よもぎ)と書かれている。

日本での端午の節句は、奈良時代から続く古い行事である。端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で5月に限ったものではなかった。午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになりそののち5月5日になったと伝えられています。

古くには季節の変わり目である端午の時期は病気にかかりやすく、亡くなる人が多かったこともあり5月を「毒月」と呼び、病気や災厄をさけるために様々な行事が宮廷で行われた。薬草摘みや蘭を入れた湯を浴び、菖蒲やヨモギを浸した酒を飲んだり、厄除けの菖蒲をかざり、ヨモギとともに軒にさし病魔を払うものとしたり、また皇族や臣下の人達には蓬(ヨモギ)などの薬草を配り、悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式も行われていたようです。

 

 

古来行われていた宮廷での端午の節句の行事も、鎌倉時代からの武家政治へと移り変わるにつれ次第にその容は変わって行き、菖蒲が「尚武」と音が通じるために武士の間には、尚武(武を尊ぶ)の気風が強く、端午の節句を尚武の節目として祝うようになったのです。

ヨモギは薬草として、病魔の厄除けとして使われてきたことから樽本地区においても、小出家が入植した1600年代には、戸隠講の前身となる戸隠からの山伏、あるいは修験徒が薬草などの知識を持ち込んだとも考えられる。それは「烏おどり」が伝えられた年代でもあるからです。

では、「もぐさ」の意味はどこにあるのだろうか。

お灸で慢性疾患などの治療に利用したのは、古くからあったものなのか、修験道の修徒たち独自の知識として各地に伝えられたものか。薬草として呼ぶときに「もぐさ」と言ったのか。よもぎの若葉をもちにいれ「よもぎ餅」を作るため、別名「もちぐさ」とも言う。またよもぎは、地下茎などから他の植物の発芽を抑制する物質を分泌する。よもぎは地下茎で繁殖するので密生して繁殖し茂るようになる草「茂草」とも考えられています。

いずれにしても、「もぐさ」=「よもぎ」のもつ様々な薬効や厄除けと阿弥陀如来の化身と考えられている観音菩薩に対する信仰とがいつからか結びつき、無病息災、家内安全を願う「もぐさ観音」を作り出したのでは。またはもともとの観音菩薩への信仰の中に、農作業の始まりを祝い、端午の節句にまつわる行事の中の「もぐさ」を供えたことから、何時しか「もぐさ観音」と呼ばれたとも考えられます。

 

新井地区、下平丸西脇の諏訪神社「もぐさ観音堂」があります。

この「もぐさ観音」は高さ44センチで、戦国時代に作られたと推定されていて、御尊体がインドのもぐさという木で彫刻されているとも伝わっています。毎年雪解けが進み、新緑が芽吹く4月に春を呼び農作業の始まりを知らせる祭り「もぐさ観音まつり」が行われる。昔からお灸の原料で慢性疾患の治療に使われてきた「もぐさ」と人々を救う「観音菩薩」の信仰が結びつき「もぐさ観音」と呼ばれ、「もぐさ」の新芽を摘んで、だんごや餅を作って供え、お祝いをしています。

 

「もぐさ観音」は、三ヶ所とも同様な成り立ち、性格を持っているものと思われる。樽本地区と平丸地区は古代の街道でつながりがあり、また戸隠講でのつながりがある地域と思われます。

薬用には、6~7月ころ根元より刈り取るか、または、葉のみを採取し陰干しにしておく。お灸には葉の部分を手でよく揉み、粉となった部分を捨て、残った葉の毛だけを集め使う。腹痛、胃痛、貧血などには、葉の部分を、1日5=15グラム煎じて服用、また、全草500グラムを袋にいれ煮た後、その液を風呂に入れると腰痛、頭痛、痔などに効き目があります。

樽本地区について・・・あるじのガイド

斑尾山の北側、沼の原湿原から関川に流れ込む土路川に沿って、上流から上樽本、中樽本、下樽本と言う集落が続く、更にその下流に土路と言う集落があり、全体を豊葦地区と呼んでいる。

古代の官道「東山道」の支路として考えられる中で、現在の豊葦地区の歴史は平安時代にさかのぼると考えられます。

この地区の歴史的資料は少なく、どの位の資料があったかは不明であるが、明治35年の春の大火により、唯一歴史資料が集められていたとされる中樽本村の公民館が総戸数25軒中20軒と共に焼失し、更に解明は困難になっています。

周辺地域の歴史的資料から考えるに、起源は今から1000年前、「東山道」の支路が整備された頃と思われます。

「平家物語」に木曽義仲(1154~1184年)と不和になった源頼朝が義仲を討つために信濃に出陣すると、義仲は「依田」の城(長野県丸子町)を出て信濃と越後の境にある熊坂山に、寿永2年(1183年)陣を構えたとあり、又その前、1180年に依田城を本拠地にして、1181年(治承5年)6月14日横田河原(長野市)にて、越後の豪族「城助茂」(じょうすけもち)を討伐し、翌15日には関山を通り、越後国府(上越市)に入り、越後守となっている。この時妙高山に一光三尊阿弥陀如来を安置したと記録にあります。

越後国府に入った義仲は、北陸を固めるために各地の城を築かしています。

また、寛冶3年(1089年)に作られたとしている、「往昔越後之図」別名「寛冶之図」と呼ばれるものがあるが、この図によれば、妙光山(妙高山)、関川、大田切、小田切、松崎、大鹿の地名が記されていて、これらを見ても、これらの時代に先人が入植していたものと考えられます。

上樽本の集落成立は、同地区の小出家の過去帳に小出家の祖は源平時代の武将で一族を率いて、豊臣、徳川に仕え信濃守に従ったとあり、豊臣滅亡後は、戦乱の余波を受けて一族を率いて樽本に逃げ込み、焼畑農業を行い、開拓をして住みついたと伝えられています。

小出家の祖である秀政は、秀吉と同じ尾張中村の生まれで、小出秀政と長男、吉政は慶長5年(1600年)の関が原の戦いでは西軍につくが、二男の小出秀家が東軍方として活躍し、その功にて秀政、吉政も許され、但馬出石藩6万石の旧領を任せられています。しかし、出石の小出宗家は世継ぎがなく断絶してしまい、その後徳川家康の勢力が強大となり、豊臣との対立抗争の時代になるが、どうした事情か大阪夏の陣 (慶長20年、1615年)には徳川勢についています。その後元和5年(1619年)秀政より三代目、吉政の二男吉親(よしちか)が初代、京都園部藩城主となり小出家は、その後10代にわたり園部藩を領しています。10代小出英尚(ふさなお)は、慶応3年(1867年)12月に入京して市中見廻り役を務め、鳥羽・伏見の戦いには参加せず、情勢によっては明治天皇を園部城に移すという新政府の戦略に応じ、翌年1月から城郭の緊急改造を行っています。その後吉親は信濃守に国替えをしたとあり、小出家一族もこの吉親に同行し樽本に居残ったと言われます。小出家の守り神である観音堂(もぐさ観音)は信濃国田上の分霊とされていて、小出家の過去帳最古の法名は寛永7年(1630年)で、小出吉親の時代と大体一致しています。

 

上樽本は、周りを山に囲まれ人目につかず、守るには容易な地であり、また土地が肥え、農作物が豊かで充分自活できる環境に着目したのではないでしょうか。

開拓当時、土路川の西側に小出家が、東側と下樽本に木賀家が番人として見張り、敵の侵入に備えたという記録があります。

 

木賀家の祖も、源平時代の武将であると思われます。源頼朝の家臣で木賀善司吉成という文武に優れた武士で、ある時病にかかり死期を迎えようとしている時、老僧に「西の方の温泉がある、それに浸かればきっと良くなる」と言われ、老僧と共に箱根の地まで来、老僧が「涌甘露消減除衆病悩」と唱えると温泉が湧き出し、建久4年(1193年・鎌倉時代の始まり)のことである。善司はありがたく温泉に浸かると病が治った。以来、この温泉を木賀と呼びこの地を木賀の里と呼ぶようになったと伝えられています。現在も箱根に木賀温泉はあり、木賀の里というバス亭もあります。

 

小出家、木賀家双方の祖が源平時代の武将であり、源頼朝の家臣とするならば、木曽義仲の討伐のためにこの地に来たものか、それとも義仲と共にこの地にきて、何らかの事情にて山深く移り住んだものとも考えるとしたとき、小出家の歴史のある戦乱を避けこの地に移り住んだとある時代より古い時代に、両家の祖はこの地に移り住んでいたことになります。

源平時代の武将として一族を率いてこの地に入植したとしたら1200年前後となり、1550年前後には樽本城等が出来、集落が形成し始めていたはずであります。小出家の祖吉親が信濃に国替えし、一族とこの地に来たとすれば1630年前後となり、小出家の祖政重(秀政の父)が尾張の国中村の出身と、どういうつながりがあるのだろう。当時越後を治めていた平氏の「城助茂」(じょうすけもち)と源氏との争いは、義仲が城助茂を討つ前からあり、この時越後に入った源氏の武将にも関係があるのかもしれません。

小出氏をさかのぼると、藤原為憲という人の周りからはじまる。桓武天皇(かんむてんのう・737~806年)の皇子「葛原親王」の孫に「平 高望」(たいらのたかもち・889年平の姓を賜る)の子「平良文」(たいらのよしふみ。平将門の叔父にあたる家柄)の娘と藤原椎幾との子が藤原為憲であります。

藤原為憲の7世「行政」(二階堂の姓を名のる)の9世の孫の「時氏」が信濃国伊那群に住むようになって「小出氏」を称した。その時氏の孫「祐重」が尾張国愛智群中村に住むようになったと記録にあります。

「多聞院日記」(たもんいんにっき・興福寺の学侶・多聞院英俊法印の日記)には、「小出播磨守は大政所の妹を妻にして、太閤一段の御意合なり」と記され、「寛政重修諸家譜」にも、秀政の室を「豊臣太閤秀吉の姑」としています。同じ尾張国中村の出身として早くから秀吉に仕えていたと思われ、岸和田城主になったのは、天正3年(1585年)である。秀吉の死のときは、片桐旦元と共に秀頼の補佐を依頼され、関が原の戦いの時は、秀頼の補佐として大阪城に居たらしく、秀吉の信頼も厚かったと思われます。

信濃国伊那郡に住むようになった「小出氏」が源平の時代の流れ、源氏・平氏の様々な経緯により、この地に来たのではないかと考えます。

 

木賀氏もさかのぼると、後醍醐天皇(ごだいごてんのう・1288~1339年・第96代天皇)の第8皇子「宗良親王」(むねながしんのう・1311~1385年)の子「タダナガ親王が至徳3年(1386年)源朝臣姓を賜ることにはじまり、それから4世貞安の時、祖父江氏・富田氏と共に、木賀氏を称しています。祖父江氏は尾州津島を中心に活躍し織田家に仕えています。

「宗良親王」も南朝勢力の挽回の為、全国を戦い歩き文和元・正平7年(1352)には南朝から征夷大将軍に任ぜられたともいい、越後を転戦して興国5年(1344)には信濃国大河原(長野県伊那大鹿村)に南朝武士「香坂高宗」を頼り、正平10年(1355)には越後から信濃諏訪に抜けています。「宗良親王」は30余年ここ信濃伊那群大河原を拠点にしていたために「信濃宮」と呼ばれています。

小出家・木賀家とも年代は違うが信濃国伊那に関係があり、これは東山道・古東山道において、伊那という地が関東・越後・関西など各方面に分かれる要所であり、信濃国府の近くでもあり、政治的、戦略的などに関係があったのではと考えられます。

 

両家の祖の言い伝えが1180年代(源平時代・平安時代終期)に始まり、次に歴史に出るのは1590年代(安土桃山時代)からであり、この間の、鎌倉時代、(1199~1335年)室町時代(1336~1570年)は戦国時代であります。越後の国上杉と信濃までを治める武田、の戦いの他、越後内での勢力争い等の中で慶長12年(1608年)に福島城(上越市港町)に移るまでの約250年間は動乱の時代でありました。

 

春日山に近い樽本城は、信越国境に近いことから重要な役割を果していたようです。城主は上杉謙信の臣下で「樽本 弾正」と伝えられ、大字樽本甲字城に所在した中世の山城であり、現在は城跡中央に薬師堂がまつられています。春日城を守るために頸南地域には、確認されているだけでも35の城館跡を数えています。

川中島の戦いの為、上杉の軍勢がこの地を通り信濃に向かった記録もあります。

しかし、樽本に住む、本来武士の系統の人々がどのように戦国の世に関わったかは不明であります。

 

この樽本地区が、忍びの者的性格をもつ里の可能性を想像します。古くから戸隠講がこの地区にも発達しており、九頭竜権現に対する信仰があったと思われ、戸隠の山伏や衆徒により情報の交換、様々な教えが伝えられたのではないか。その証としてこの地にも「烏踊り」が独特の歌詞にて伝えられています。時代により豊臣、徳川双方に仕えたこと、もう一つの地域名「豊葦村」の葦は、草にも例えられた忍びの者の例えに関係があるのでは、また、武士の系統である者が、重要な陸路の近くで農民に姿を変え、田畑を耕して信越国境の道筋警備をしていたことなど、戦乱時代、周辺の勢力争いの中に重要な役割を持ち影響を与えたのでは、また情報を元に一族を守るため戦乱の世の流れを読んで来たとも想像できます。

 

現在、樽本地区を守り、住む人々は70歳を超える高齢の人が多いが、言葉使い、気品の高さ、人への接し方などは、祖が武士であることを思わせるに疑いようのないところであります。

信濃の国の山を越え、そして奥沼部落跡(沼の原湿原周辺)を通り、樽本に入る所に越後方面を見渡せる高台がある、樽本地域、頚城平野、春日山、日本海、佐渡島、そして、入り組む山なみは、様々な歴史の移り変わりを想像できる絶景の場所であります。

 

豊葦村=伝説、口碑によると約1000年前とされ、正長年間(1428~1429年)に信濃の奈良沢村と樽本村の国境を両国の立会いで定めたとされている。

樽本村=古くから山を越え信濃との交通路があり交流も盛んであった。江戸期から明治22年(1889年)までの村の名である。江戸初期は上樽本村と別れていたが、のちに樽本村一村となる。天和4年(1684年)には、樽本と記されている。

 

この頃より国境の争いが活発になり、元禄15年(1703年)信濃の国水内郡、北条村、顔戸村、富倉村、奈良沢村と越後の国頚城郡、小沢村、平丸村、長沢村、樽本村とが山婆獄、経塚平、斑尾山にかけて、境界を争った。原因は、国境を越え、薪や材木をみだりに切り出した事にあったと記録にはあります。

元禄15年11月22日幕府の判決は越後の言い分となり、現在の県境とほぼ同じものであります。

豊葦の地名由来・・・あるじのガイド

豊葦という地の由来を探し、さかのぼると、舎人親王(とねりしんのう676~735年 天武天皇の皇子)がまとめた「日本書紀」(720年)や、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ 7~8世紀頃生没年不詳)によませた天皇家の歴史や神話を、奈良時代になって元明天皇の命令で、太安万侶(おおのやすまろ ?~723年)がまとめた現存する最古の歴史書「古事記」(712年)全3巻の内、上巻の神代の物語、日本神話から始まります。

宇宙ができはじめたころ、天上の高天原(たかまがはら)には様々な神が現れ、瞬時に姿を消していき、これらの神は単身で現れたが、やがて男女対になった神々が次々に出現し、最後に伊邪那岐命(いざなきのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の男女2神が現れたのです。
伊邪那岐命と伊邪那美命は、天津神(あまつかみ・高天原に生まれた神々)からさずかった天沼矛(あめのぬぼこ)を雲の上の天浮橋からさしおろして、海の水をかき混ぜた。引き上げた矛の先からしたたり落ちた子塩が固まり、オノゴロジマ(於能碁呂島)が出来ました。二人はこの島におり、男神の体の余分な部分と女神の体の不足している部分を合わせ、日本列島の形をなす大小8つの島が生まれたとされています。
天浮橋=(あめのうきはし)天に浮く橋であり高天原と葦原中国を繋ぐ空間的な接地であると考えられ、空にかかる「虹」の様なものとイメージされる。
天沼矛=(あめのぬぼこ) イザナギが海へと突き刺した矛。そこからオノゴロジマが生まれた。それは、性行為を暗示しているとも言われている。互いの体の余分なところ、不足しているところを合わせる部分も同様である。

国生みが済むと、様々な神を次々と生んでいき最後にヒノカグツチノカミを
生む時、イザナミは火傷を負い死んでしまいます。イザナギは、地底の「黄泉
国」(よみのくに=正しくは「よもつくに」と読む。日本神話の死の国でありイザナミ
が支配している。暗く邪霊などが住み「黄泉平坂」=よもつひらさか・で現世と分けら
れています。坂すなわち境でありイザナギにより道を塞がれ自由に行き来できなくなっ
たこの境を護るのが道祖神であるとも言われている)にイザナミを訪ねるが、その
醜さに逃げ出し黄泉国と現世の境、黄泉平坂を大岩で塞いでしまいます。イザ
ナギは身を清める為の禊(みそぎ)をすると、捨てた杖や衣服から次々と神々
が生まれ、最後に左目を洗うと、高天原を治める「天照大神」(あまてらすおお
みかみ)、右目を洗うと、夜の国を治める「月読命」(つきよみのみこと)、鼻を
洗うと、海原を治める「須佐之男命」(すさのおのみこと)が生まれました。
しかし、長女の「天照大神」は、2人の弟の狼藉(ろうぜき)や傍若無人さ
を怒り、事を起こしています。

「月読命」(ツキヨミノミコト)は、食物を管理する「保食」(ウケモチ)と
いう神を殺害する悪神として表されています。天照大神は弟の月読命の行為に
激怒し勘当してしまいます。以後太陽と月は昼と夜に分かれて住む様になった
と言う「日月離反」の発祥であります。殺害されたウケモチの体からは多くの
穀物が生まれ、それらは、アマテラスによって人間にもたらされています。そ
のためツキヨミは悪神とされながら人間に食をもたらした恩人でもあります。

「須佐之男命」(スサノオノミコト)の狼藉に怒ったアマテラスは天上の岩窟
天の岩屋戸に引きこもり「天の岩屋戸」事件となる。

この事件が収拾すると、スサノオはヒゲを切られ、爪を抜かれて天上を追放
され出雲(島根県)の国、肥河(ひのかわ)の上流、鳥髪(とりかみ)に降り
大蛇ヤマタノオロチの生贄にされそうになっていた「奇稲田姫」(クシナダヒメ)
を助け、ヤマタノオロチを退治することになります。その後、二人は一緒にな
り、須賀(島根県大原郡)に宮を造り平穏にくらします。スサノオの活躍は、
天界、地上界、冥界と広域にわたる。亡き母を恋い求めてやまない幼児性と傍
若無人な振る舞い、怪力と巧妙な知恵が混じり荒々しい姿を創り上げています。
日本武尊(やまとたけるのみこと)と共に、日本神話の代表的な英雄でありま
す。
スサノオの六代目の子孫に「大国主神」(おおくにぬしのかみ)がいるが、出雲
大社の祭神であります。

オオクニヌシ(大国主)は出雲に行く前、兄のヤソガミ(八十神)に連れ添
い因幡(いなば)国(鳥取県)にて、兄たちにいじめられたイナバのシロウサ
ギを救います。ウサギの予言に嫉妬した兄たちに、オオクニヌシは何度も殺さ
れかけ、祖先のスサノオがいる堅洲国(かたすくに)に逃げ、スサノオの娘ス
セリビメノミコト(須勢理毘売命)と出会いむすばれます。2人はスサノオか
ら授かった支配者の象徴となる太刀と弓を持って地上界に戻り、悪い兄弟たち
を追い払い出雲国を治めることになります。

しかし、高天原を統治するアマテラスオオミカミ(天照大神)は、下界も自
分の子供が治めるべきと考え、雷と剣の神タケミカヅチノカミ(建御雷神)と
船の神アメノトリフネノカミ(天鳥船神)を派遣し、オオクニヌシの息子のタ
ケミナカタノカミ(建御名方神)との力比べの勝ち、オオクニヌシノ一族は地
上の国を譲ることになります。この国譲りは、皇室が祖先神とあがめる天照大
神への出雲国の服従を意味しており、大和朝廷と地方豪族との関係を反映して
いると思われます。

大国主命(おおくにぬしのみこと)や須佐之男命(すさのおのみこと)等の
神々が高天原から降臨した出雲国の様な地、高天原と黄泉の国の間にある人間
が住む世界を「葦原中国」といい、四方を高い葦で囲まれた世界であると考え
られていて、高天原に対し豊葦原とされています。

高天原と豊葦原の関係

高天原には3つのイメージがあり、
第一は、天上界と地上界という抽象的区分での天上界という意味での「高天原」
で、対する地上界が「豊葦原の水穂の国」で、日本列島全体を意味する
第二は、高天原は、宇佐、中津地方を中心とする邪馬台国そのものである。
第三は、高天原が、卑弥呼を盟主とする九州北部から西中国にかけての九州王
朝(倭国)である。これと葦原中国と対比する場合が多く、この葦原中国
とは、出雲を中心として勢力があった出雲王朝を意味している。

葦原中国も、
第一、天上界(高天原)に対する地上界としての日本列島全体。
第二、出雲神話における、出雲を中心とする中国地方。
第三、三世紀邪馬台国時代における、中津、宇佐地方を中心とする豊の国を天下の中心とする北部九州

この様に、神々が降臨する地、日本列島を別の呼び方で、「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらみずほのくに)とか「蓬莱」(ほうらい)ともある。

天照大神が、他の神に降臨を命ずる場合、
「豊葦原之千秋長五百秋之水穂(とよあしはらのちあきのながいほあきのみずほの)国」、千秋長五百秋は千年も五百年もで、いつまでもという意味、水穂は瑞々しい稲穂。 豊葦原という長く久しく稲穂の実る国に行くこと。と命じている。

越後の南、周りを山で囲まれ人目につかない土地に入植した先人達が、これから住む場所の地名を考える時、神を尊び敬い、神の近くに居たいと思うのは当然のことで、自然条件の厳しい所ではなおのことである。皇室の歴史や神々の神話をまとめた「古事記」が編さんされ約300年を経過した中で、これらに通じた先人、または「天の岩屋戸」にまつわる戸隠の修験者によって伝えられた、歴史、神話の中より一族の住む場所を「豊葦」と位置づけ呼ぶようになったものと考えられます。

これらから、豊葦村は、伝説、口碑にあるように約1000年前(平安時代中頃)に始まっていると考えられ、樽本村が呼ばれるようになるのは、春日山代を守るため、謙信、景勝時代の天正12年(1584年)の書状に、「信州口や春日山城大手口の砦を厳重に警戒するよう」と命じている。しかし、天文22年(1553年)には川中島の戦いの為に豊葦村・樽本を抜ける街道が戦略目的路と利用されています。この時代に豊葦村に、山沿いにある信州口の砦として城が出来、謙信の家臣「樽本 弾正」(たるもとだんじょう)が城主となり城の周りを位置付ける為に、上・中・下と分けこの地を自分の性をとり樽本と呼び始めたのではないか。城主「樽本弾正」であるが、弾正とは本来、人名ではなく律令制度の役職の位で、正五位と言うのが弾正である。つまり上から五番目ということで「弾正大弼」(だんじょうだいひつ・正五位の上)と「弾正小弼」(だんじょうしょうひつ・正五位の下)という使われ方をしている。城主・樽本は、謙信の五番目くらいの家臣であったと推察できます。

斑尾高原とリュードルフィア線(Luehdolfia Line)・・・あるじのガイド

リュードルフィアとは、ギフチョウ属の学名です。

ギフチョウは明治16年、岐阜県益田郡金山町祖師野にて、名和昆虫博物館(岐阜市)の初代館長「名和 靖」氏によって発見された。岐阜県にちなみギフチョウ(岐阜蝶)と名付けられました。

220余りの種類が棲んでいる日本の蝶の中でも、ギフチョウはゼフィルスと並んで最も人気のある蝶であります。

(ゼフィルス=本州では6月から7月にかけて年に一度のみ出現し、卵で越冬するシジミチョウの1群の25種(日本国内では)を蝶の愛好家はゼフィルスまたは略してゼフと呼んでいる。年に一度しか会えないこと、緑色にメタリックに輝く種類が多いことから人気がある。また、高い所にととまる種類が多いため目にする事が少ない。)

ギフチョウ属の蝶は早春まだ残雪が残っている頃、人里近くの雑木林から飛び出す小型で可憐な美しいアゲハチョウ科の蝶であり、そのために春の女神とも呼ばれています。

ギフチョウ属で日本に生息するギフチョウは、ギフチョウとヒメギフチョウの二種で、この二種が日本列島のほぼ中央で住み分け、西日本にギフチョウ、(Luehdorfia japonica)東日本にヒメギフチョウ(Luehdorfia puziloi)が分布しています。

ヒメギフチョウは細かく分けると、北海道に棲むエゾヒメギフチョウ(Luehdorfia puziloi yessoensis)と信州を中心に棲むLuehdorhia puziloi inexpecta)とに分けることが出来る。幼虫の形態が多少違います。

その他に、中国にはシナギフチョウ(Luehdolfia chinensis)オナガギフチョウ(Luehdolfia lonngicaudata)などが棲息している。ロシアのウラジオストック近辺には、エゾヒメギフチョウのルーツではないかと思われるウスリーヒメギフチョウ(Luehdorfia .puziloi.puziloi 原名亜種)が棲息している。しかし、これらは日本のように調査が徹底されておらず、まだ生態など未知の部分が多く、その面での魅力もある蝶であります。

 

ギフチョウとヒメギフチョウの棲息の境界線をリュードルフィアライン(線)と呼んでいます。リュードルフィア線は、両種とも分布しない空白地帯とされているが、斑尾高原は、日本で四箇所しかない両種が混生する地域の一つとして注目されてきています。

ギフチョウ属は、日本に棲息するチョウの中で最も古い形質をもつとされており、交尾に際し雌の腹端に受胎嚢(じゅたいのう)を形成し、雄の腹端に似せることで再交尾を防ぐという特徴があります。

古い形質をもつことと美しいことなどから、詳しく研究、調査から大陸から北周りの経路で日本に侵入したヒメギフチョウからギフチョウが分化したことが解ってきた。そして、分化した原因の一つに食草にあることが言われています。

新潟県の混生地では、ギフチョウがコシノカンアオイを、ヒメギフチョウがウスバサイシンを食べて育つこと確認されているそうです。混生地の一つである姫川渓谷の大網や大所ではコシノカンアオイは生育せず、そのためギフチョウはウスバサイシンを食べ、時には同一の葉に両種の卵が産み付けられるのが確認されています。これは、ギフチョウがヒメギフチョウから分化した証拠の一つとされていて、ヒメギフチョウは成虫になると、約一週間しか生存できない為、見かける機会が少なくなっています。

ギフチョウは、レッドデーターブックにおいて、絶滅危惧Ⅱ類とされています。

 

斑尾高原では

北西斜面にコシノカンアオイが、南東斜面にウスバサイシンが多く生育しているが、ウスバサイシンが一部北西斜面のスキー場の中にも入り込んでいるのを見ます。

一般に後から分化した種の方が環境への適応があるとされていて分布を広げていて、ギフチョウの場合も、コシノカンアオイとの関係から生息域を広げたと考えられます。

斑尾高原での混生は、隔離され残ったヒメギフチョウの分布域にギフチョウが侵入してきたと考えられているようです。

開発によりコシノカンアオイもウスバサイシンも残っている所が限られているが、ここ数年ギフチョウを確認する事が多くなっています。斑尾高原ホテルの西側やペンションの近くのコシノカンアオイに卵が確認されており、高原中央の駐車場でもギフチョウが飛ぶのを確認しています。

こうした文章を載せると、とんでもない族(やから)がアミをもって山にはいってきます。 が斑尾高原では、数十人のレンジャーが巡回パトロールにより監視をし、チョウの生息域を守るための活動を行っています。

食草がある所の近くに、カタクリ、ショウジョウバカマ、スミレ類、ツツジなど紫系の花があるところでは見かけるチャンスがありますが、これは、紫系の花から好んで吸蜜するからであります。

 

また、土路川の下流域には、6月中旬から8月下旬まで「国蝶」として知られているオオムラサキが見られることがあります。標高が高くなると食樹のエノキ(榎=ニレ科)がなくなるため河畔に沿って生育していると考えられます。

斑尾高原で確認される蝶として、食肉蝶のゴイシジミがいます。ゴイシジミは幼虫時、アリマキ(アブラムシ)の幼虫のみつを吸い、成虫になるとアリマキ自体も食べます。これらを含めて、斑尾山周辺では、約80種におよぶ蝶が棲息しているとされています。

カンアオイ=カンアオイの名前の由来は、カンアオイの葉が厚いために寒い冬の間も枯れないことから、寒葵 と呼ばれた。日本には、50~60種類ものカンアオイ類があると言われている。その葉に出来る模様の美しさから、江戸時代には観賞用として盛んに栽培された。斑尾に見られるコシノカンアオイの、コシ は「越」で越後や北陸地方に分布するものである。

ウスバサイシン=「薄葉細辛」は、カンアオイの仲間で、カンアオイより葉がうすく、根茎が細く辛味が強いから名付けられたもので、カンアオイ、サイシン共に根茎は「せき、たん」の薬草としても用いられています。