烏踊りは、長野県北部から新潟県南部一帯に広く分布する民族芸能の一つです。
中世長野県北部の戸隠山で発達した戸隠山修験道の先達、宣澄法印(1468年没)を供養して踊る、宣澄踊りが元になっていると伝わっています。
天台宗大先達、宣澄阿闇梨は、戸隠出身で戸隠顕光寺の天台派、真言派との間の法論の最中、応仁2年(1468年)に暗殺されています。13年後文明13年(1481年)に、「宣澄祠」が建立され、現在も戸隠村の神社内に同村の史跡として守られています。
天台派 (本山派)
熊野本宮、新宮、那智の熊野三所権現を中心に発達し、寛冶4年(1090年)の白河院の熊野行幸の際、三井寺(園白寺)の増誉(ぞうよ・1032~1116年)が先達を務めた功により、聖護院を賜り、室町時代以降、聖護院は天台修験の本寺として「本山派」として成立。本山派の本山とは熊野を意味している。
天台宗は、鑑真(688~763年)に影響を受けた最澄(さいちょう・767~822年)が開祖。805年、後の延暦寺を本拠としている。
天台宗の教え=「一切皆成仏」すべての人が仏になれる。
真言派 (当山派)
熊野から大峯の本山派に対して、大和側の吉野から金峰山(きんぷせん)を拠点とする修験が中心となり形成された。当山派の開祖は、真言宗醍醐寺の聖宝(しょうぽう・平安時代初期)とされており、戦国時代の永禄年間(1558年)頃から金峰山を当山と呼んだことから当山派と称した。
真言宗は、空海(くうかい・774~835年)が開祖。809年高雄山寺を拠点に真言密教を広める。
真言宗の教え=「即身成仏」体、言葉、心すべてにおいて、大日如来と一体化することで、現世において仏になれる。
最澄は、比叡山を拠点に、空海は、京都の高雄山寺を拠点に密教を広め、互いに親しく交わり、804年には、二人共に中国の唐にわたっている。空海は812年、最澄に灌頂(かんじょう・真言宗で修行者が一定の地位に上がる時、頭上に香水を注ぐ儀式)をさずけたが、4年後には教義上の対立を理由に交友を断っている。
烏踊りの成立は、16世紀(1501~1600年の100年間、室町時代・安土桃山時代)中ごろではないかとみられています。その後、約100年程して北信濃(飯山・木島平・野沢温泉・栄・等)から南越後(津南・中里・松之山・新井・妙高・等)一帯に広まっていったのは今から、250~300年前のことであり、宣澄踊りの成立からは約450年の歴史をもつ伝統的民族芸能であるといえます。
この踊りの名称については、元来山岳信仰に源をもつ修験道では、カラスを神の使いとしてきたことから、それに因んでこの名前がついたのではないかと見られています。
戸隠山修験道の行者(山伏)たちは、自分たちの宗教活動の方法として、各地に戸隠講を組織し、その中で、この踊りを歌い踊ってきたと考えられます。
それは、この踊りの中に修験道の考え方や習慣が垣間見られることにあり、たとえば、踊りの足さばきに、ワンパターンの9つからなりたっているが、これは山伏が手で行う「九字の修法」(臨兵闘者皆陣烈在前)を足で行ったものとみられています。
「九字の修法」
伝統的な、古い魔除けで、「臨兵闘者皆陣烈在前」あるいは、道教系のより古くは「臨兵闘者皆陣烈前行」の九文字を唱えると共に、空中に縦四本、横五本の篭目を描く。魔物は篭目などの目があるものを見ると、その数を数えるまでは動けなくなると言われ、魔物が数を数えるまでの間に何らかの手段を講ずればよいわけである。
元々は、単なる魔除けの方法であったが、日本に入り複雑化し、特に修験道では、特に複雑な作法がある。九字を行うことを、「九字を切る」という。
野良着姿に手ぬぐいで頬かぶりをした男性が、酒を酌み交わしながら「踏む」「蹴る」の動作が中心の素朴な踊りで、前唄、中唄、後唄からなっているので、七五三踊りともいわれています。
手を叩き、地を踏む動作は、修験道における善霊を目覚めさせ、悪霊を踏み鎮めるとする「反閉」(へんばい)の考え方にあるようです。
「反閉」(へんばい)
支那の夏の始祖、兎が行ったとされている歩き方で「兎歩」(うほ)。呪術的歩行法で道教が起源といわれている。日本では「反閉」として伝えられ、神道、仏教、陰陽道、修験道などに取り入られている。基本は、後ろの足が前の足を追い越さない足運びで、また足を地から離さない、すり足のような歩みであり、力士が踏む四股などもこの流れにあるといわれている。
この民族芸能の歌詞を含めた音楽的特徴は下記の通り。
- 歌詞の形は、五七五、あるいは五七七と3つの音節を一まとまりにした一句からなり、それが連歌のように3句、4句、5句と連続して歌われている。
- 歌詞の内容は、娯楽的のものが多いが、その中に僅かではあるが修験道の密教的な思想(大日如来や即身成仏論 等)や倫理的、道徳的な事柄の歌詞がある。
戸隠山に修験道が入ってきたのは嘉祥2年(849年)とされています。
修験道は日本固有の宗教で、山を聖域、あるいは他界と見なす山岳宗教に、陰陽道、道教、仏教などが合わさって形成されています。開祖は役小角(えんのおずぬ・634~701年)後の役行者(えんのぎょうじゃ)であるとも役行者の弟子「学問行者」であるともいわれ、「学問行者が、まず飯縄に来り而して後戸隠を開く」ともある。学問行者が嘉祥3年(850年)飯綱山に登った際、つえを投げると宝窟山(戸隠山)にとまり光を放っているので、行者が光をたずねていくと9頭1尾の大竜が現れ、「早く大伽藍を建て、この山を守れ」と命じた。これが開山の伝説です。
この寺を戸隠山顕光寺といい、50年ほどして下方に光を発する所があり、それが宝光院となり、200年ほどして中院が出来たとされています。
奥社には、天岩戸を投げ捨て、その戸を隠した山ことから戸隠山と言われる神話にもとづく話の中の、手力雄命と摂社にはく九頭竜権現を祀ってあります。
天台、真言両宗の山伏は、「九頭竜神」を祀る戸隠にいつとはなしに住み着き、天台宗は、現在奥社のある顕光寺の谷に、真言宗は西岳直下の西光寺の谷に陣を構え、鎌倉、室町時代には、俗に「戸隠三千坊」といわれるほどの修行道のメッカでした。
役小角は鬼神を使い、「孔雀明王の呪}をよく行ったと言われています。
「孔雀明王呪」
孔雀明王は、文字通り孔雀が神格化されたもので、インドでは孔雀は毒蛇を食らい、恵みの雨を呼ぶ吉鳥とされている。そのため、孔雀明王は、息災(延命)と、祈雨にさいし招請される。
人々の生活に欠かせない水を与えてくれるのは川や湖であるが、一番の元は山であり修験道に関係する戸隠山は古くから現在も雨乞い祈願が絶えない所となっています。
飯縄権現
飯縄(飯綱)は、戸隠山と連なる修験道屈指の名山です。
保食神(うけもちのかみ・食べ物の神)の降臨地とされ、飯縄とは「命の綱」ともいわれていて、飯縄権現に祈念すれば、権現が変幻自在に身を転じて、様々な術が振るまうことができるといわれています。
平安時代、飯綱山上に奉祀された飯縄権現を原点とし、全国に分祀され飯縄信仰として定着したとみられています。
また、飯縄権現は、神仏習合の色合いが強い地域の山、戸隠山と同じ孔雀明王と同一視されているが、修験道での飯縄法では、修法者は「飯縄使い」又は「狐使い」と呼ばれ、この使役する「狐」は術者を妨害し、あるいは攻撃する者を、微塵に砕くといわれています。仏教での飯縄権現は、真言宗の教主「大日如来」の使者である不動明王が姿を変え修正生を救済するとも言われ、軍神として戦国期の武将たちに受けいられ、鎌倉時代のはじめ、信濃の国萩野(上水内郡信州新町)の地頭伊藤忠縄、盛縄父子が飯綱山にこもって編み出した小動物を使った妖術「飯縄法」であり、飯縄権現同様上杉謙信、武田信玄、北条の武将のなかに広く信仰されていたようです。
蔵王権現も不動明王の化身であるといわれています。
「仏様のランク」
大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来といった如来は真理の世界から来た者という意味があり、悟りの境地に至って真の仏となった者を言い、如来だけが仏であるともいえる。
大日如来は、宇宙の中心にいる根本仏とされ、曼陀羅においても中央に位置し、「大いなる日輪の如来」としている。
次に観音菩薩、地雷菩薩、日光菩薩、月光菩薩といった菩薩がいるが、これは修行者でいずれ如来になるであろうものである。阿弥陀如来も仏になる前は、法蔵菩薩という名前であった。
その他に、明王、とか天といった仏で、不動明王、帝釈天などであり、いわば仏教の守護者である。
修験道は、「役行者」(えんのぎょうじゃ・634~701年)が、大峯山中、地上で苦しむ人達を救う神を顕現するために一心に経を唱え、荒々しい神をと祈り現れたのが蔵王権現である。仏典には出てこない日本固有の神であり修験道のシンボルとなっている。日本古来の山岳宗教(自然崇拝)に、仏教、神道、道教などが結合され成立したものとされている。基本は、教理を探究するのではなく大自然の霊気の中で修行を積むことで、人間の本能的欲望を断ち切り、「即身即仏」の境地に達しようとする宗教であり、その歴史は常に庶民の歴史であったともいえる。
日本の仏教の基層には、豊な大自然に育まれてきた日本人が、山を拝み、火を拝み、水や風、人間をとりまくものを拝みながら行じていく修験道的な宗教観が生まれできて来たたものと思われる。
修験道の行者は、山中にこもり苦行を重ね、神仏との交流を図り、あるいは経文(呪分)を学び、また山中にて生きる知識を持って薬の調合や、様々な呪術を行使して民衆に知られていきました。
平安時代ではたびたび弾圧され、禁令も出されたが、平安末期には、天台、真言の密教道場が山中に多くあったために、山岳修行者が激増しました。
鎌倉時代には、密教の理論と行法を中核とした修験道独自の教派として、原始の山岳信仰から修験道へと発展していったようです。
江戸時代には、徳川幕府から「山伏法度」が定められ、定住が義務づけられ、そのため山伏たちはより世俗化がすすみ、教義が整備され、教団として拡大していきました。
「山伏」
山伏あるいは山臥ともいい、文字通り「山に伏せる者」の意味で修験者が山中に伏して、様々な力を獲得することからこの名がある。山は日本では「他界」であって、そこに暮らし、修行を行う山伏は異人であり、そのため、山伏が「天狗」などと混同された。
明治2年(1869年)には、神仏分離の政令が発せられ、修験道自体が廃止されている。そのため、戸隠山も神社となり、小菅も同様に明治33年より小菅神社として今日に至っています。
「戸隠講」
戸隠講は戸隠山という「霊山」と九頭龍権現に対する民間習俗的信仰をもとに組み建てられている。室町時代の頃から、その兆候は見られたものの組織自体はまだ発達していなかったといわれる。しかし、戸隠周辺の北信州や南越後では講の前身の兆候が始まり、その中で「烏踊り」は伝えられたとおもわれる。江戸時代の早い時期から講の組織化が進んだと、檀家の数から考えられる。天保12年(1841年)における戸隠山顕光寺の檀家数は、一万六千九百二十、宝光院関係が四万二千百二十、中院関係二万二千百二十、全体の数は、八万二千余りと記録されている。
戸隠講の特徴は、戸隠で修行を終えた山伏を使って、布教活動をしたり、信者の組織化を行わせている。また、衆徒自身や代人を使い、お札等の配布や初穂料の徴収をしていることである。お札には色々な種類があり、庶民が戸隠山に期待した広範囲なご利益に応える性格のお札であり、講者の人達へのお土産は、煙草、や各種の薬類など、人々に喜ばれる物を持って行ったと記録されている。
講社を回る衆徒や手師たちは、「戸隠さん」、と親しく迎えられ、「旦那」、「ごっしゃん」(御師匠さん、御師さん)とよばれ、各地で大事にされ、待たれていた。
講中の人達がそれほど待っていた「戸隠さん」は何だったんだろうか。
それは、戸隠の衆徒や山伏たちが伝えた技術、知識であった。修行より得た知恵、戸隠山に回遊して来る多くの参拝者や修験者を通じた知恵や情報、それらを総合した特別な技術、知識を伝えてくれるのを待っていたのではないか。
特に、九頭龍権現の秘法として、呪術や祈祷などによるのではなく、衆徒、修験者、手師が行った治水技術、知識があったと思われる。それらの技術が新田開発や水害に悩む川沿いの庶民を助け、治水に貢献していたのではないか。
また、多くの薬草による、庶民を病気から救うなどの働きもあったと思われる。
戸隠の信者は、信州が中心で、続いて越後方面が多く、北は北海道松前、奥州、西は京、大阪まで広がり、江戸にはかなりの信者がいた、武士、大名、公家までが信者に加わっていた記録も残っている。
「戸隠そば」も、始めは修行者の食べ物であったものが、宿坊で講の人々に振るまわれ、それが地方へと広まり全国ブランドとなった。
九頭龍権現(くずりゅうごんげん)
平安時代以降、戸隠山は修験の霊場として全国に知られていた。この地には九頭一尾の竜神がいた、その大きさは戸隠山から新潟県妙高村関山を回り、能生町までしっぽが届いたほどであった。関山神社には胴中権現、能生の白山神社には尾先権現が祀られた。九頭龍権現は水の神様で、昔から干ばつの時は全国から雨乞いの祈願に参拝する信者が多く、九頭龍伝説は語り伝えられ、信越地方一帯の水を司る神様として、水神信仰は現在も人々の生活の中に生きている。
戸隠流(とがくれりゅう) 忍術
修験道における山中での修験による身のこなし、山中での生活の知恵、薬草からの薬類、兎歩などに見られる歩行術、講を介しての戸隠に集まる情報、各地を回って得る情報 等これらが戦国の時代には幕府の、地方の藩の隠密としてその技が利用されたのではないか。戸隠流は、甲賀や伊賀など様々な忍法の基でもあり、多くの流派に影響を与えている。
また。この様な動きを制限したのが、徳川幕府の「山伏法度」でもあったと思われる。
修行で得た、走力、跳躍力、夜間の行動などが誇張され、忍術と評価された。
戸隠そばも、素のそば粉は信者回りをする時の、携帯、非常の食料でもあったのでは。
大日如来がむすんでいる「智拳印」という印契(手の握り方)が忍者が姿を消したり、変身するときの印の結び方であるかどうかは疑問であるが、大日如来の「智拳印」から来ていることは確かなところである。
忍術の真髄は、「物の認識や人としての武徳が必要で、神の意識に同化できるように捨身慈悲の覚悟で一貫すること」と伝えられている。