斑尾高原の植物・・・あるじのガイド

 

斑尾山を頂点とし、東南の山麓が豊田村、東側が秋津、飯山、大川地区となり、飯山盆地の海抜は平均320メートルとすれば山頂は1381,8メートル、その中間900メートルから1000メートルが高原地帯で最も開発が進んだ所となっています。

斑尾山の植物は、低山帯(標高500m~1500m)の植物で占められていて、代表的なものはブナで、ミズナラ、カエデ、シラカンバ、クリ、サクラ、などが混じっています。

斑尾山の木は伐採が繰り返され結果、ブナの大樹はほとんど見られないが、ブナの幼木は山麓から山頂まで見られています。

現在も山頂から高原地帯にかけブナ林の他、周辺の林がコシノカンアオイを育てギフチョウの生息を可能にしています。

ブナの他、ミズナラが多くその中にイタヤカエデ、ウリハダカエデ、ホウノキ、サワグルミなどが大樹に成長しています。

伐採の後に植林も盛んで、中腹から山麓にかけてはカラマツにより大部分が占められ斑尾本来の植生ではないように思われ、植林の多くはカラマツで、次いでスギが多く、山麓にはアカマツも見られます。

伐採後、植林されず放置された所には、陽地植物であるシラカンバの侵入が見られ各地にシラカンバが多く、春や秋にその白さが良く目立ちます。

斑尾山系での植物の特徴は、亜高山帯(海抜1500~2500m)植物とされている種類が多く見られること。植林地以外に針葉樹林帯が無いのに、ゴゼンタチバナのような林床植物があること。標高800m付近に数は少ないがダケカンバがありシラカンバ、ウダイカンバ、ヤエガワカンバが混生している。また、ユキツバキが北と北東斜面を中心に、林床に多く見られるのも多雪地帯の裏日本型の植生を物語っていると思われます。

斑尾山腹の湿原や湿性草原にはカキツバタ、ノハナショウブの群生も見られます。

 

斑尾山麓がリゾート開発されるにあたり、開発による植生の変化や自然破壊が懸念され現状を詳細に調査し今後に備え比較する基準や郷土の自然を後世に伝える目的で、1971年から3年をかけ、飯水教育委員会創立90周年の記念事業の一つとして、自然調査特別委員会の方々が貴重な調査結果をまとめています。

この時の調査では、シダ植物 7科。裸子植物 5科。双子葉植物、古生花被植物 62科。後生花被植物 24科。単子葉植物 12科。の110科506種の植物が確認されていて、中ではキク科の植物(ヒメジョオン・フキ・ヨモギ・ハンゴンソウ・ノアザミ・サワヒヨドリ・ヨメナ・ヤナギタンポポなど)が最も多く、次にバラ科(ワレモコウ・ヘビイチゴ・ナナカマド・シモツケソウ・ウワミズザクラ・アズキナシ・エゾヤマザクラなど)次にシソ科(ウツボグサ・ジャコウソウ・ツル二ガグサ・ハッカなど)となって平地の植物と同じような傾向であり、又この中には、11科24種の帰化植物が含まれていました。リゾートである斑尾高原ではガーデニング行為は重要な要素でありますが、しかし、これにより外来、または観賞用の花が高原に帰化していくことが問題でもあります。

この調査以降、斑尾山麓での本格的自然調査は行われておらず、植生の変化や絶滅に近い植物、多くの帰化植物が入り込んでいると思われます。2005年春、関田山脈をつなぐ「信越トレイル」がオープンしますが、これにおいて植物の調査も行われるので植生の変化が解明されるのを期待したいところです

 

八坊塚在住の小澤 氏の調査によれば、2003年7月現在として、被子植物・双子葉植物 72科、単子葉植物 11科、裸子植物 1科で84科、322種が確認されています。

 

ブナ林について ( ブナ=別名 シロブナ・ソバグリ)

斑尾山では600m前後より、刈り払った後よりの幼木が多く、スキー場には切り残されたブナの大木も見られます。山頂付近のブナは30~40cmくらいが主で見事なブナ林になっているが、ブナの寿命は400~500年といわれています。6~7年に一度雪が花粉で黄色くなるほどの花を咲かせ、大量の実を落とし、翌年の春には地面を埋め尽くすほどの芽を出します。何万と出る芽の中で巨木として残るのは数本といわれています。開花するほどの木になるまで最低でも40~50年、結実するには最低60~80年かかります。

ブナ林を始めとする落葉広葉樹林は、山の貯水池とも呼ばれ、針葉樹林の5倍にも及ぶ水資源を涵養するといわれ、「ブナの大木は、水田1反歩(約1000平米)8~10表のコメ生産の水を養う」ともされています。

 

ブナの繁殖・・・ブナは同じ固体が雌花と雄花を同時に咲かせる「雌雄同株」で健全な種子を付けるには、異なる個体から受粉する「他家受粉」が必要で、花を咲かせても、他家受粉出来ず自家受粉してしまったり、虫による害に遭うなどして健全に結実出来ない場合が多い。開花した雌花の総数に対して健全な種子の割合が30~40%を超えると、その年は豊作とされていて、ブナは数年のサイクルで種子の豊作と凶作を繰り返す(マスティング現象)が、その仕組みは解明されていないようです。

 

ブナの実は、タンパク質や脂質を豊富に含み栄養が豊富な香実です。タンニンなど

の有害物質を含まないので人間もそのまま食べられる物だから、動物、昆虫にとっては重要な食料です。特にネズミ類は、ブナの豊作年に大量の実を食べ、冬を乗り越え

春の繁殖期を迎えます。このため、豊作年の翌年ネズミが大発生します。ブナは自分たちを増やす為に、実をつけずネズミを減らす為にマスティングを行っているともいわれています。

実は甘く、刺のある小さな「いが」の中に、栗色の三角錐の形をしたそばの実に似た種があることから、「ソバグリ」とも呼ばれています。

ブナ・・・・水分が多く腐りやすく役に立たない木ということから木へんに無と書きブナと読む。

ブナ・山毛欅・・・ケヤキに幹が似ているが葉に毛があるのがブナであることからブナと読む。

 

ホオノキについて

 ホオノキは成長すると高さ20メートル、葉の長さは30センチ、花は花径15センチ程になり何もかも大柄です。かってはホオカシワと呼ばれていたもので、カシワとは食べ物を盛る意味であるので、食器として使われていたことが解ります。

木材部は質が軟らかく細やかなことから、昔は刀の鞘や下駄の歯、鉛筆材やマッチの軸などに利用されています。

薬用には、夏の土用の頃、幹の皮を剥いで日干しにしたものを、腹痛、吐き気、下痢などに1日10~20グラムを煎じて服用する。解熱には成熟した果実を日干しし、1日10~20グラム煎じて服用する他、夏に採取し日干しした葉を粉末にし酢で練ったものをリュウマチ患部に貼る利用法もあります。

ユキツバキについて

飯山市の花として又新潟では県花として知られています。飯水地方では、瑞穂、木島地区には見られないが全地区に見られ特に関田山脈側に多く見られます。斑尾では希望湖周辺や大平峰北側に多く、南にいくほど少なくなり山頂を境として南側にはほとんど見られない。ツバキは本来暖地の植物で寒い冬の越し方に関係があると思われます。ユキツバキのユキは深雪地帯に自生することを意味し、深い雪に適応した植物あることが判ります。低木で弾力性に富み、雪の中で伏せるようになり雪の中の暖かさで冬を越すのが特徴であり、したがって、雪が無かったり少なくて、寒風にさらされる場所には見られなくなっています。

斑尾山は希望湖方向から山頂に近づくほど雪が少なくなる現象があります。これは関田山脈の北側には山が無いことや、西側の妙高山など高い山などによる風の方向などによるものと思われ、ユキツバキの分布も雪の積雪量に関係があると思われます。

薬用には、半開きの花を採って陰干しにしたものをよく刻んで保存しておく。吐血に1日4グラムを煎じ食前に服用したり。滋養強壮や便通を整えるのに、茶さじ1杯に熱湯を注ぎ砂糖を適量加え飲むと良い。また、火傷には粉末をごま油やツバキ油で練って患部に貼る利用法もあります。

 

カンバの類について

カンバの仲間は、寒地性の植物でほとんどが本州中部以北に見られます。シラカンバ(白樺・別名 シラカバ)、ウダイカンバ(鵜松明樺・別名 サイハダカンバ マカバ・マカンバ)、ダケカンバ(岳樺・別名 ソウシカンバ)、ヤエガワカンバ(八重皮樺・別命 コオノオレ)の4種とも斑尾では見られます。ダケカンバは本来、亜高山帯に生育する植物であり、希望湖南側のヤエガワカンバは大きさと共に希少価値の高いものです。現在スキー場の近くに、太さ約30cm 高さ約15mのものが5本確認されています。斑尾山東側1000m付近と希望湖周辺でダケカンバとシラカンバが混生しているが珍しい現象であり、ウダイカンバはスキー場の東中腹と北中腹に多く見られます。

 

ササ タケ類について

万葉文献に「雪国の山に生ずる小竹にして信濃に多し」と記述されているのは、スズタケであり、信濃の枕詞「みすずかる」の語源ともなっているように長野県を代表するササです。しかし、スズタケは県南地方に多く、奥信濃ではほとんど見ることはなく、ほとんどが、チシマザサとクマイザサです。

標高500~600m以下にあり笹もちや笹寿司に使われるのはクマイザサであり、標高600m以上にあり、ネマガリダケと呼ばれているのがチシマザサであります。冬の豪雪で茎の下のほうが曲がっているのでこの様に呼ばれているのでしょう。本来、根曲がり竹と呼ばれているが本来は笹であり、たけの子ではなく「笹の子」であります。斑尾山東側斜面やスキー場内にも多く見られます。5月から6月にかけ目を出すタケノコはアクがなく、山菜の王様とされ、茎は竹細工としてカゴやザルなどにりようされます。クマイザサは葉が出揃うと9枚になる事から名づけられ、葉が広く大きいので、昔から食べ物を包むのに利用されています。

薬用として、両者の葉を集め日干しにしたものを煎じるか、葉が出揃ったばかりの頃は、これをミキサーにかけ利用します。荒れた胃や胃もたれに1日20~30グラムを服用。またこの液でうがいをすれば口臭予防になり、湿疹や痔にはこの液で患部を洗浄すれば効き目があるとされています。

 

ナラの類について

コナラとミズナラがあり、コナラは主に標高700m以下に多く、ミズナラはそれ以上に多い。両種の違いはいろいろあるが、わかり易いのは、葉の表から見ると葉柄がほとんど無く見えるのがミズナラ、葉の表から見て1cm前後の葉柄が見えるのがコナラであります。斑尾一帯はミズナラがおおく、大木もありこの地の代表樹木のひとつであり、葉の上に肉質の赤い玉が着いているのを見かけるが、虫こぶといって虫の巣です。割って中を見ると中心部に小さな虫がいます。

トチノキについて

この種は、トチノキ科 トチノキ属 トチノキの1種1属1種であり、全国に見られるが斑尾山腹(スキー場トチノキコース沿いに大木が残っていて、ブナと並び代表樹木のひとつであったと思われます。

 

ウチダシミヤマシキミについて

ミカン科のミヤマシキミ属ミヤマシキミの型が違うもので、葉の表面の脈が打ち出されたようにへこんでいます。これはあまり見られないものだが、斑尾山中腹や希望湖周辺に多く見られます。

 

ゴゼンタチバナについて

専門書などによれば、本州中部以北の高山帯、亜高山帯の針葉樹林内等に植生とあるが斑尾山では、標高1200m付近のブナ帯に生育しているのが珍しいとされています。

 

アカミノイヌツゲについて

モチノキ科で本州中部以北の高山に植生するものであるが、斑尾山山頂北側に群生しています。高さ3m幹数十センチの大きいものも見られ、ハイイヌツゲとの違いは、実が赤いこと、葉が広くハイイヌツゲのように深緑色でなく鮮緑色で光沢があることであります。

 

希望湖(沼の池)には、1971年当時の調査では、食虫植物のタヌキモ、ヒツジグサも確認されたとありますが、現在は、幾多の改修工事により、水中に植物はほとんど見られなくなっています。

沼の原湿原・・・あるじのガイド

斑尾山の北約3キロメートル、標高870メートル、関川の支流土路川の源流部に位置する湿原が沼の原湿原と呼ばれています。

湿原は小丘陵によって東湿原と西湿原に分かれていて、東湿原が約4,5ヘクタール、西湿原が約14,5ヘクタールです。

二つの湿原は北方で一緒になり形のくずれた馬蹄形をしていて、東湿原の東縁と西湿原のほぼ中央に川が流れています。

東湿原が最も湿潤で西に向かうにつれ乾燥化が進んでいます。

南に斑尾山、西に寄生火山の袴岳、東には小丘陵をへだて沼の池があり、北へは土路川が下りそれに沿って、上樽本、中樽本、下樽本、土路の集落が点在しています。

年間降水量は、約2500ミリ、最深積雪量は3メートルを超え、日本海に近く裏日本型の気候で降雪量も多く、春遅くまで雪が残っていて湿原と川の水源は雨水と湧水によるもので、冬の豪雪が湧水をつくっていると思われます。

西湿原中央を流れる川の源流は、斑尾山北斜面の伏流水であり、年間を通し水量が変わらない湧水の場所が湿原西トレイル沿いに一ヶ所あります。万坂峠に近く300年を思わせるトチの木の根元から季節を問わず変わらぬ湧水量と水温5度程を保っています。

樽本の伝説に、蓮如が親鸞の遺跡を訪ね布教の途中、上樽本にさしかかったとき、目の病で困っているお婆さんに会った。蓮如は気の毒に思い「山の中腹に薬泉があるから、それで目を洗いなさい」と言った。さっそく山に行き薬泉を探し当て、目を洗うとたちまち傷みが取れ楽になったということです。

まさにこの薬泉の場所ではないかと思わせるような湧水の場所であります。

 

かって、湿原地域には沼部落、奥沼部落があり、奥沼部落は現在の湿原の位置とされ萩原宿と呼ばれ享保年間(1716~1735江戸時代中期)は最も栄え、75戸をかぞえた記録があります。沼部落は沼の池付近とされ、大正初期まで池の近くに峠の茶屋あったようです。この峠道を「樽本越」と呼び、上杉謙信の軍勢が川中島の戦いの為にこの峠を越えた記録もあり、信濃の国と越後の国との物資、文化の交流に大切な宿場として賑わいを見せ、様々な面で重要な街道の歴史があったと思われます。延喜式によるところの東山道・北陸路の駅家「沼辺」(ぬのへ)ではないかともいわれています。

しかし、時代の流れによって厳しい山道を越える必要がなくなると共に、街道がさびれ宿場として衰退や、江戸時代の天明(1782年天明2から6年間)・天保(1833年天保4から6年間)の大飢饉、特に天明3年(1783)7月の浅間山の大爆発はこの地方にも多大の影響があり、冷害による凶作と重なりこの頃より徐々に離村する人が出てきたと思われます。

 

現在湿原となっている所は、集落の耕作地跡であって、今でもヨシ群落の広がる湿原には昔の水溝の跡や、水田の畦と思われるものが残っていて、集落の位置は、標高850m 位の高冷地で、高冷地での米作が可能になったのはかなり後世であることを考えると、かっての住民は、作物として何を作り、何を主食としていたのだろう。

記録、文献を見ると、これより以前にもこの場所は、東山道の支路として幾多の繁栄と衰退を繰り返したものと思われます。

 

大正15年(1926)には3戸が残っていたが、中央電気会社(現 東北電力)が貯水池としての利用が計画され、土地買収が行われ離村しています。(計画は戦争により中断し現在に至り平成16年に妙高村が東北電力より買収している)

第二次大戦中に湿原の一部で水稲、大豆などが作られたことがあり、湿原の中に畦や水路の名残が見られます。

このように、古くから人的行為が加えられて来た為に、ブナ帯に属するが、大きなブナ林はみられず、湿原周辺にはミズナラの二次林が多く、東北側には広い範囲でカラマツが植林され、直径40センチを超えるものも見られる。ミズナラについては、その大きさから、山仕事にかなりの労働比重をかけ日々の生計を営んでいたのではないかと思われます。

約200年の湿原化によって、多くの植物が育ち、植生上からみても貴重な地域になっている。湿原内には、一部にイボミズゴケなどが分布するものの、ヌマガヤの少ない中間湿原とされていて、大部分は、ヤマアゼスゲを伴うヨシ群落で、典型的な火山山麓のヨシ湿原です。湿原南の万坂峠に近い部分は、湿生のノリウツギ、ハンノキ、メギ、キンキマメザクラなどの低木林が分布し、乾燥が進んでいる地域はレンゲツツジやツゲが林床となっているシラカンバ林になっています。

中央を流れる小川や周辺の流水部には、数十万株の水芭蕉をはじめリュウキンカの群落が分布し、滞留水域にはミツガシワが広がっています。これらの群落の間に、オオイヌノハナヒゲ、ミカヅキグサ、ミヤマシラスゲ、アイバソウ、カキツバタなどの群落が入り混じり、その中に、点々としてトキソウ、オオ二ガナ、などが散生していて、湿原内だけでも八十数種の植物が報告されています。ここ十数年のうちに特に乾燥化が進み、ハイイヌツゲ、ズミ、ノリウツギ、など雑木の増殖、ヨシ、ススキなども乾燥化に拍車をかけ本来の植生が変わりつつあり、又乾燥化による水路の変化も影響していると考えられています。

この湿原は、耕地跡に二次的に出来た湿原ではあるが、放置された期間が長く自然度が高い、湿生植物が多種類で、群落規模が大きいことがこの湿原の特徴とされています。

上越地方では珍しい、カラコギカエデやメギもこの湿原に自生していますすし、

野ウサギ、タヌキ、キツネ、リスなどの動物。最近ではツキノワグマやカモシカの出没もあります。トンボなどの昆虫類、野鳥(赤ゲラ、アオゲラ、ヒヨドリ、カッコウ、ホトトギス、ウグイス、セキレイなど豊富であります。

 

植生に悪影響が出ない程度の保全策も必要であるし、自然観察園としての構想を進める時期でもあると考えます。2004年には、湿原の乾燥化防止作業の一貫として、昔の水路を利用した水入れ及びハンノキの試験的伐採、ツゲ等雑木の除去の作業により、2005年の春には湿原化した場所に多くのミズバショウが復活しました。乾燥化から湿原化に戻すことにより植物の生態系がどのように変化していくのかも見守りたい所です。

 

 

マメ知識

ミズバショウとシーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 1796~1866)の関係。

シーボルトは1796年ドイツに生まれる。医師である両親の影響を受け医学を学ぶかたわら動物学、植物学、民俗学に興味をもち大学で学ぶ。1822年オランダ大使館の医師としてバタビア(現ジャカルタ)に務め、1823年に日本の長崎出島にオランダ商館の医師として来日、日本人に医学、植物学を教える。当時はオランダ人でなければ来日が無理の為オランダ人に成りすましていたらしい。江戸への4年に一度の旅の中で、植物採集や地理を調べ、1828には富士山の高さを測っており、その時は3794メートルと記されている。この年、日本地図等の持ち出しが発覚し1830年日本追放となる。1858年オランダとの間で通商条約が結ばれ、1859年に再来日、1862年に帰国している。長崎滞在時は、「おたき」(瀧1806~1859)という妻と「いね」(イネ1827~1903)という娘がいて、「いね」は日本最初の女医であり「オランダおイネ」として知られている。

シーボルトが出島に来る前に、出島にはケンベルやシュンベルクが来ていて植物の種を盛んに収集、東洋の珍しい香辛料を探していたらしい。ケンベル(1690年来日)は植物学に詳しくシーボルトも影響を受けている。ケンベルやシーボルトは日本の植物をオランダをはじめヨーロッパに紹介していて数々の植物に名前をつけている。

ケンベルはウメ、ヤマブキ、シュウカイドウ、サザンカをヨーロッパに紹介。

イロバモミジ、フジ、テッセン、ウツギ、アジサイはシーボルトが命名者である。

特にアジサイには、「おたきさん」学名ヒドランゲア・オタクサとなっている。

バショウ=学名「ムサ・バショウ」中国原産の多年草である。草といっても大型で幹の部分だけで2,5メートルにもなり全体では4メートルにもなりバナナの木に似ており小さなバナナができる。大きく目印にもなり木陰も提供する為に「旅人の木」とも呼ばれる。このバショウの学名もシーボルトが命名者である。成長した葉がバショウに良く似ており、水辺に咲くことからミズバショウ(水芭蕉)と呼ばれる。バショウは水芭蕉の名づけ親である

シーボルトは多くの江戸時代の生活用品や生物の標本をオランダに持ち帰っているトキ(朱鷺)や1905年に絶滅したニホンオオカミの剥製も含まれていて、シーボルトがオランダに送ったトキの標本に1871年学名が「ニッポニア・ニッポン」になった。ニホンオオカミは、1905年(明治38)が日本で最後の捕獲の記録であり、ニホンオオカミの剥製は現在、日本に3体、イギリスに1体、オランダに1体あるのみである。

 

松尾芭蕉

松尾芭蕉は1644年伊賀上野赤坂村(三重県上野市赤坂町)に生まれ、幼名は金作、のちに宗房と名乗り、俳句発表初期の頃(1675)の号は「桃青」であった。1681年春、38歳の時、門下の「李下」よりバショウを一株譲り受け庵に植え、その葉がみごとなことから評判になり「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、「ばせを植ゑてまづ憎む萩の二葉かな」と詠んでいる。1682年 39歳のとき初めて公に「芭蕉」号を使用している。1688年8月11日 45歳の時、美濃の国から信濃の国更科に、仲秋の名月を見るために訪れ、長野善光寺に立ち寄り浅間山の麓を抜け、江戸に戻っている。このときの旅を「更科紀行」として残している。

更科の姨捨山にかかる月は平安時代から多くのものに詠まれており、芭蕉が訪れた後もその評判は各方面に知れ渡り、この月を見るのが風流とされ多くの旅人が訪れるようになる。

沼の池(希望湖 のぞみこ)・・・あるじのガイド

斑尾火山の流動性に富む溶岩流の末端のへこみに水をたたえたもので、西側は毛無山(大平峰)と溶岩の末端でさえぎられています。

池の東方に湧水がある他、川と言えるほどの流れ込む川はなく、ほとんどが雪解け又は雨水による伏流水からの湧水であり、透明度は4~5mくらいあります。周りは

大部分が国有林で、スギ、ミズナラ、カラマツなど様々な樹木に覆われ斑尾山を映し出す神秘的な湖であり、斑尾高原を訪れる人々には人気のスポットの一つでもあります。

記録には、約430年前の天正時代(安土桃山1573~1591)に初めて壕を開き、文化2年(1806江戸時代中期)堤防にて水面を広げ、天保6年(1836)改築、安政2年(1856江戸時代終期)に大修築とあり、近年になっても幾たびかの修築があり、昭和28年に設立された下水内中部土地改良区が、昭和28年から36年の8年間に1678万円の費用にて総延長365メートルの堰堤工事が完成し、現在に至っています。南北740メートル、東西380メートル、周囲2440メートル、最深部11メートル、平均5メートル、最大貯水量48万5900トンであり、沼の池の水は、飯山市柳原、外様両地区の農家約400戸、約200ヘクタールの水田で稲作が出来、地域にとっては重要な水であります。湖北側の島の様な場所に弁財天が祭られていて、その石碑には、文化2年、天保10年の文字が刻まれているのが確認でき、古くから「命の泉」としての関わりがしのばれます。

享保年間(1716~1735江戸時代 将軍吉宗の時代)は、飯山にて水田耕作が盛んであり、皿川下流では沼池からの水量では足りず、また、飯山全体でも水不足であり用水問題は深刻であったようです。

飯山の中でも沼の池から流れる皿川の水は、大川、山口、藤ノ木等の村々と愛宕、伊勢町、有尾、市ノ口、小佐原の五ヶ所との間で争論が絶えなかったとあり、飯山町、奈良沢、愛宕町、小佐原等において用水不足のため溜池を築きたいが用地が無く、越後樽本村地籍の内前坂に溜池を築こうと、同村と交渉、越後国頚城郡樽本村庄屋又兵衛と信州水内郡飯山町の奈良沢、愛宕町、小佐原、上町の各組頭との間にて、年十両にて承認、契約の記録が残っています。

 

いずれにしても、飯山は水不足の問題を抱えていました、その為に山間の湧水、自然の小さな沼から流れる水を利用し稲作をしたものと思われ、分道、堂平、牛ヶ首等は山間の傾斜地を広げて耕作を行ったと思われます。

 

観光協会として中部土地改良区の旭用水委員会より借り受け、ボートやフィッシング、周遊トレッキング等で観光に使用し、昭和56年(1981)には、沼の池から希望湖(のぞみこ)と改名し現在に至っています。

 

標高 約850メートル、雪解けから5月初め頃までは周辺に多くの水芭蕉が見られ、池の南側に飯山市の天然記念物にも指定され、北信地区では数箇所しか見られないと思われているヤエガワカンバの大木があります。胸高幹囲2,5メートル、樹高は約20メートルあります。カバノキ科で樹皮が重なってはがれる為に、八重皮樺(やえがわかんば)の名があり別名・コオノオレともいい環境省のレッドデータブックにも絶滅危惧種に指定されている貴重な木です。

半島の様に張り出した場所には、樹齢300年を思わせる,胸高幹囲3,8m 樹高約18m 直径1,3mブナの巨木もあります。またこの地域の特異性としては、シラカンバ林の中にダケカンバが混生していることとウチダシミヤマシキミが多いことなどがあります。

 

沼の池に関わる伝説

昔、柳原の南條部落に「こく衛門」という男がおり、この男乱暴者ではあったがなかなかえらい男でもありました。川中島の戦いの後、上杉謙信は武田信玄の軍勢に追われ安田の渡しまで逃げてきたが、その時、こく衛門が渡しの綱を切って信玄の追っ手を足止めし、謙信を越後に逃がしました。謙信は命の恩人である「こく衛門」を呼び、「望みの物はなんでも与えるから好きな物を言え」といったところ、こく衛門は柳原地域が水に不便をしているのを思い、「他になにも望みはありませんが、沼の池をいただきたい」と言いました。謙信は、こく衛門の望みを聞き入れ沼の池を彼に与えました。当時沼の池は、越後領であったが、水は信州側に流れ落ちるようにしたのです。

謙信にまつわる、安田の渡しでの綱きりについては、様々な説があります。安田の渡しは「綱きりの渡し」とよび、これに架かる橋は今も別名「綱きり橋」と呼ばれています。

斑尾高原の八坊巡拝(はちぼうめぐり)・・・あるじのガイド

斑尾山の山麓には古道があり、この道は、古代の律令による官道のひとつで、延喜式に依れば近江国勢多駅(滋賀県)を起点とし、美濃国(岐阜県)、信濃国(長野県)、上野国(群馬県)、下野国(栃木県)、を経て陸奥国(青森、岩手県)に通じる東山道(あずまやまみち)からの幹線路で信濃から越後国府に至る北陸路である。そして、「遊歩百選」に選ばれた斑尾高原のトレッキングトレイルの一部はこの道を歩きます。

信濃と越後の境に位置する斑尾山の東山麓には、平安時代から鎌倉時代、その道の重要性から多くの集落が形成されていったと思われます。往来の多さや、当時の仏教布教などにて多くの寺院が建てられたことも記録に残されています。
親鸞(1173~1262平安時代終期)が1207年(承元1年2月30日)専修念仏の禁止により越後に配流された後、越後から常陸へ、関東方面への布教の旅の途中、この地を旅したのは建保2年(1214年・鎌倉時代初期)のことであります。
しかし、繁栄と共に山の木を切りつくし、また鎌倉時代に入り戦国の世の流れなどから街道がさびれたこと、3年続きの凶作等により、この地域の八人の僧が経文、仏像などをこの地に埋め永日の供養をして何処へ退散したのです。時に永仁元年(1293年)4月28日のことです。現在この地が八坊塚という地名で残っています。

永仁元年からおおよそ500年くらいが経過したころ飯山本町の忠右衛門(資料によっては七朗右衛門)なる者がこの地を訪れると霧の中に五輪の鐘の音が聞こえ、感じるままにこの地より八人坊が埋めた写経と如来仏像を掘り出し、飯山忠恩寺へ納めたという記録があります。
忠恩寺には、この記録と一致する曼陀羅佛というものが現存しています。
又、来迎三尊画像が現存していると言われています。

本願寺8世蓮如(1415~1499)は宝徳元年(1449年)に北陸、越後方面の布教に訪れ、その後、応仁2年(1468)に越後に入り親鸞配流の遺跡を訪ねて現在の妙高村の大鹿から豊葦、奥沼を通り信濃の国へ行ったといわれており妙高村大鹿の浄土真宗逢龍寺に蓮如筆と伝えられる6字名号があり、伝説も残されています。
奥沼部落にも寺があり、空海の弟子、慶順(1486~1592)が開山したとも伝えられています。

斑尾高原のホテル、ペンションが立ち並んでいる場所の地名は長野県側に飯山市字八坊塚、新潟県側に妙高村大字樽本字八坊主となっています。
このような歴史の記録から八人のお坊さんを偲び、707年を経過した西暦2000年の春、4月8日斑尾高原の中に8人のお坊さんを顕賞して石像が建てられました。
その石像には、青連坊 林西坊 専念坊 大林坊 佛道寺 西念坊 有曽坊
堂尊院と名づけられています。
この八体の石像は、仏教の正しい悟りへの道である「八正道」の正見(しょうけん)正思(しょうし)正語(しょうご)正行(しょうぎょう)正命(しょうみょう)正精進(しょうしょうじん)正念(しょうねん)正定(しょうじょう)を表していて、それが刻まれています。これらを拓本しながらの八坊巡拝(はちぼうめぐり)がひとあじ違った旅の記念になります。

「東山道」・・・・古代の国の分け方の呼び名であり、この場合は「とうさんどう」といい国の国府を結ぶ幹線路を呼ぶ時は「あずまやまみち」となる。
東山道(あずまやまみち)は、古代の都と東国をむすぶ重要な道であった。
大宝律令(701年)によって定められた令制東山道に対し、それ以前の東
山道を古(こ)東山道という。
東山道は、
陸奥(むつ・青森、岩手) 羽前(うぜん・山形)
羽後(うご・秋田、山形) 陸中(りくちゅう・岩手、秋田)
陸前(りくぜん・宮城、岩手) 磐城(いわき・福島、みやぎ) 岩代(いわしろ・福島) 下野(しもつけ・栃木)
上野(こうずけ・群馬) 信濃(しなの・長野) 飛騨(ひだ・岐阜) 美濃(みの・岐阜) 近江(おうみ・滋賀)
の13国からなり「あずまやまみち」は近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の8ヶ国を結ぶ約1000キロの幹線路として整備され、15キロ程度ごとに駅家が設置された。各駅には馬10頭が置かれていた。幹線路は近江勢多駅から陸奥国府を通り、胆沢城に至るルートである。
信濃国の経路は、美濃国坂本駅から信濃坂(中央アルプスの最南端、恵那山北部の神坂(みさか)峠、東山道の最大の難所でもあった。峠の頂上にある「神坂峠遺跡」からは、全国でも例を見ない数千点もの「幣」が見つかっている。幣は旅の安全を祈願し、旅人がささげた石製の模造品で、多くが鏡、剣、玉の三種の神器をかたどったもので、三つを一組にして紐を通し、木などに結びつけていたとされている。難所だった神坂峠の前後、美濃国「坂本駅」と信濃国「阿智駅」(下伊那郡阿智村)の間は約40キロも離れていた為、通常の2、3倍の馬が置かれていたと言われている。
また、万葉集に、防人(さきもり)として九州に旅立った信濃の若者の、「ちはやぶる神の御坂(みさか)に幣(ぬさ)まつり いわふ命は母父(おもちち)がため」 と残されている。作者は、埴科郡の神人部子忍男(みわひとべのこおしお)である。はるばる九州に埴科郡からおもむく途中、無事に神坂峠の頂上に着いたことを神に感謝した。信濃に別れを告げる峠の頂上で、あわせて故郷に残してきた父母の無事も神に祈ったのである。
阿智駅から、伊那郡を天竜川沿いをさかのぼり、育良(いらか:飯田市)・賢錐(かたぎり:上伊那郡中川村)・宮田(みやだ:上伊那郡宮田村)・深沢(ふかさわ:上伊那郡箕輪町)の各駅を経て善知鳥峠(うとうとうげ:松本平と伊那谷の境界をなす峠、標高889m)を越えて筑摩郡に入り、覚志(かがし:松本市芳川村井町、平安時代から信濃国府が置かれた)を経て、錦織駅(にしごり:上水内郡四賀村、保福寺峠えの重要な駅、越後国への東山道北陸路の分岐点)へ。
また、信濃坂が難路であったため、和銅六年(713年奈良時代初期)、駅路でない直路の吉蘇路(きそじ)を通り覚志駅(松本市)で伊那からの道と結んでいる。
保福寺峠・・・筑摩郡と小県郡を結ぶ重要な峠、保福寺峠の北の尾根にあり標高1345m、東山道の難所で険しい道であった。明治になってイギリスの登山家ウエストンが、この峠で北アルプス連峰を望み、その荘厳さに感動し「日本アルプス」と命名した場所である。
錦織駅から本道は東に方向を変え、保福寺峠を越え、小県郡浦野駅(うらの:小県郡青木村又は上田市浦野)に出て、亘理駅(わたり:上田市西部、対岸は中之条、千曲川を渡る重要な駅)で千曲川を渡り、佐久郡清水駅(しみず:小諸市西部)、長倉駅(ながくら:軽井沢町か御代田町付近)経て、碓氷峠を越え、上野国坂本駅に至る。

支路として
出羽路―陸奥柴田郡から分岐して出羽国府を通り秋田城に至るルート。
飛騨路―美濃から飛騨国府に至るルート。
北陸路―信濃から越後国府に至るルート。
斑尾山麓の西側を通る北陸路は「延喜式」によると四駅家が設定されたとある。錦織駅から分かれ北に向かい、更級郡麻績駅(おみ:上水内郡麻績村)を経て、犀川を亘理駅(わたり:長野市丹波島、塩崎付近)で渡り多古(たこ:長野市三才から田子付近)沼辺(ぬのへ:上水内郡信濃町野尻または古間)の四駅である。また「延喜式」によると和銅四年(711年)畿内にまとまって新駅が設置され養老三年(719年)に東北に十箇所の新駅が設置されていることから[東山道]もこの八年間に整備されたものではないでしょうか。
源平盛衰記によれば、寿永二年(1183年平安時代終期)に、木曽義仲が熊坂山(信越国境、妙高高原町東側)に陣をとった記録があることから、この頃から関川に沿った通路(現在の国道18号線)が開かれたと思われる。
古道は多くの山の尾根など、展望のきく所を選んでいることからみると、多古から牟礼をへて芋川に出て御所入から梨久保、親川を通り、堀越、踏津、堂平、分道をへて沼に至るか、あるいは、古間から、荒瀬原、涌井、を通って親川にでて沼までの二つのコースが利用され、沼から越後樽本をへて長沢を通ると越後国府に至ることができる。
沼辺が野尻または古間とすれば信濃国府から越後国府に至る道は関川沿いにあったことになる。難所の多いこの道より山の尾根を通る道ならば斑尾山の南東麓を通り奥沼部落(沼の原湿原)の萩原宿の辺が、別の資料によれば沼辺ではないかとも言われている。
当時、越後の国府は頚城郡にあったことが確実視されている。おそらく関川の本流に近い所に位置されていたと思われる。そうすれば沼辺から先は妙高村を通り、水門(みなと=現、直江津市)に通じていたのではないか。「延喜式」に越後国府を目指す東山道支路が沼辺までしか記載されなかったのは、越後国府を頸城郡に移した時期が、大宝2年(702)に越中国所属の四郡を越後国へ編入し、和銅5年(712)に越後国の出羽郡を越後より分け、出羽国とした直後で越後国府への官道の整備が遅れ、未完成の資料にて「延喜式」が編さんされたと考えられる。

このコースの一部が斑尾高原のトレッキングトレイルになっています。
この萩原宿は大変繁盛して、分道、堂平は萩原宿の新田として出来たとも言われている。江戸時代享保年間には七十五戸の家があったことも記録されている。関川沿いの道の往来が盛んになるにつれ、この山道が衰退し、堂平、分道、萩原宿の寺院も寂れ八人の僧侶が立ち去ることになった。関川沿いの道の整備からみると百年くらいの間に徐々に衰退をしたものと思われる。しかし、平安の時代から奥沼部落(萩原宿)が廃村(大正末期)になるまでの約1200年の間、繁栄と衰退を繰り返すも官道として重要だったことには違いないと思われます。

この駅路東山道の原初の道(古東山道)は、信濃坂を越えてから、天竜川沿いに北上して、宮田駅をすぎて北東に向かい、杖突峠(つえつきとうげ:伊那郡と諏訪郡の境をなす峠、標高1247m)を超えて山浦(やまうら:茅野市)へさらに東北に進み雨境峠(あまざかいとうげ:蓼科山西北麓、諏訪地方と佐久地方を結ぶ重要な峠)を超えて佐久郡に下り、佐久平を北東に進み碓氷坂に至ったと推定されています。

筑摩郡を経由する道は、大宝二年(702年、飛鳥時代終期)に開通の記録があり、東山道の最大の難所は、南の信濃坂峠、北の碓氷坂及びその中間にある保福寺峠であったが、東海道には幾つかの大きな川があったこともあって、大和朝廷における、陸奥、出羽の開発にあたって次第に重要な道となり、奈良時代の中ごろまでは主要道路とされていたに違いないと考えられます。

国の分け方は、蝦夷(えぞ)=北海道(ほっかいどう) 東海道(とうかいどう) 北陸道(ほくりくどう) 畿内(きない) 山陰道(さんいんどう) 山陽道(さんようどう) 南海道(なんかいどう) 西海道(さいかいどう)と呼んでいた。
「延喜式」・・・・飛鳥時代から奈良時代にかけ地方を含め国が出来初め、それらを治めるため広い分野で律令が行われる様になっていた。
「養老律令」の施行細則を集大成した古代の法典であり、「延喜五年」(905年)に藤原時平ほか11名の委員によって編集が開始されたのでこう呼ばれている。
その後も修訂が加えられ、40年後の康保4年(967年)に施行され、全50巻、条数は3000条、1~10巻(神祇官関係の式) 11~40巻(太政官八省関係の式)
41~49巻(その他の官司関係の式) 50巻(雑式)と律令官制に従い配列されている。

この様な正しい心にて人生を送りたい
・・・・・と思う・・・あるじの解釈

「八正道」・・・・釈迦は人生の様々な「苦」から抜け出す方法として八つの正しい道を解き明かしています。これが、正見、正思、正語、正行、正命、正精進、正念、正定という方法です。全てに「正」の字がついているのは「正しい」とし「真理に合った」・「調和のとれた」考えや見方、行動をさしています。

青連坊―正見― 自己中心的な見方や、偏見をせず正しい見方をする事。で多くの人と出会いいろいろな事を知ろう。
林西坊―正思― 自己本位に偏らず物事を考えること。例えば自分だけの為に意見を通したり、自分の意に添わないと怒ったり、不平、不満の気持で自分を通したりしないで、相手を大切に、本当の友達になろう。
専念坊―正語― 常に真理に合った言葉使いをする事。嘘や、悪口、口から出任せのいいかげんな言葉、都合や立場で使う二枚舌は止めて、心をこめて話し合い仲良くなろう。
大林坊―正行― 本能に任せる行動ではなく、正しい行いをする事。むやみに生き物の生命を絶ったり、盗みをしたりしない。悪いことは悪いと認められる素直な人になろう。
佛道寺―正命― 衣食住その他の生活財を正しく求める事。人の迷惑になる仕事や、世の中の為にならない職業によって生計を立ててはいけない。正しい生活にはやさしい心が必要、人の心を考える、やさしい心を大切にしよう。
西念坊―正精進― 自分に与えられた使命や目指す目的に対して正しく励み、努力する事。自分の目的を持って、がんばることの楽しさを知ろう。
有曽坊―正念― 正しい心を持ち、自己本位による区別をせず、真実の真相を見極め心を正しい方向に向ける事。自分が見たり、聞いたりしたことをしっかりと注意をして覚え、毎日の出来事、人との出会いを大事にしよう。
堂尊院―正定― 心の状態が正しい状態に定まり、決心が外的要因や変化に迷わされない事。定は心が落ち着いているという意味でしょう、穏やかな気持ちでいろいろな事を考えてみよう。
昔人に思いを馳せ、山郷の生活、時代の流れ、   仏教の諸行無常
斑尾高原では、歴史の浪漫と心のやすらぐひと時も体験できます。

あるじが、お勧めする八坊巡拝(はちぼうめぐり)の時間
1 朝食前の(6時~8時くらい)2時間
理由・・・時期にもよりますが雲海がすばらしいのと高原のすがすがしい空気に心が洗われる。適度な距離なので昨夜のアルコールが抜け、朝食が美味しく食べられる。
2 夕食前の(4時~6時くらい)2時間
理由・・・天候にもよりますが夕焼けがすばらしく、一日を振り返るのに雰囲気がある。適度な運動で、夕食が美味しく食べられ、アルコールがさらに進む。
拓本ができる斑尾高原 八坊巡拝の栞・・・・150円 で販売しています。

(2004年夏)

斑尾山の山名起源と薬師伝説・・・あるじのガイド

斑尾山は、「マダラオサン、マダラオヤマ、マダラサン」と呼ばれたり、単に「マドロオ」とも呼ばれ、奥信濃の人々には古くから親しまれています。
また、四季おりおりに、変化する山容の美しさ、人々の心に安らぎを与え、唱歌「ふるさと」に唄われているようにその広大な山麓の山なみは、ふるさとの山としての性質をも持ち、ゆったりとしたあたたかみを与えてくれる山です。

標高 1381,8mの薬師岳を主峰とした斑尾山は、第三紀から第四紀(170万年前)という遠い地質時代に出来た火山を中心とした斑尾火山群であり、西方には、妙高山(2446m)、火打山(2462m)などからなる妙高火山群、鍋倉山(1289m)、黒倉山(1242m)などからなる関田山脈が、長野県と新潟県の県境にまたがっています。
主峰が薬師岳と呼ばれているように、これにまつわるいくつかの伝説や山名起源説があり、山麓の人達には、ある種信仰の山の性格も持ち合わせていると言えます。
薬師岳の伝説は、和銅5年(713年 飛鳥時代の終期)泰澄法師(たいちょうほうし 白鳳11年(682年)、飛鳥時代中期、福井県生まれ、養老元年717年霊夢によって白山登拝を決意し、開山。人形、仏像彫刻では日本最初の達人ともいわれています。役小角(えんのおづぬ634年~)後の役行者(えんのぎょうじゃ)とならび修験道の二派とされていますが、泰澄は白山を道場とし、役行者は大峰山を道場とした。)が、越前より越後に赴く際、五輪山(米山 993m)の麓の大樹の下にて仮眠した時、神の夢告に五輪山の西南斑尾山に至る間、濁水奔流して人々大いに苦しみ、これを防ぐことも出来ず困難しているが、薬師如来を安置し、崇敬するならば濁水は清流となるであろうと告げられた、夢覚めて、一本の香木から二体の薬師如来を刻み、一体を五輪山に、一体を斑尾山に安置し奉仕すると、濁流は清く澄んだと言い伝えられています。

また、泰澄法師ではなく行基(ぎょうき・668~749飛鳥~奈良時代・民衆に仏教を広める傍ら、灌漑用水、橋の工事など交通の便を良くするなどの活動で民衆から”菩薩”と敬われる。743年聖武天皇に協力し東大寺大仏造立の必要性を説いた。国で最初の僧として最高の位である”大僧正”を受ける。又野沢温泉の湯を発見したとの一説もある。)とされてもいて、斑尾山の頂上近くの平らな石に座り栴檀の木(せんだんの木・ビャクダンの異称)で二体の薬師如来像を刻み、一体は里人たちが寺を造立し安置、真言宗堀能寺と名づけた。もう一体は、お告げを受けた五輪山の頂上にまつったとの説もあります。

米山(五輪山)の米山薬師(よねやまやくし)は、泰澄が開山したと伝えられ、米山薬師を護るのは、柏崎の別当寺密蔵院です。正式名称は「日本三薬師・別当密蔵院」と呼ばれており、神奈川県伊勢原にある宝城坊の日向薬師(ひなたやくし)、高知県大豊町にある豊楽寺の柴折薬師(しばおりやくし)とならび日本三大薬師の一つとされています。宝城坊は716年、豊楽寺は724年に、ともに行基が開山したと言われている。三河の鳳来寺薬師(役行者の兄弟といわれる利修仙人作)、日向の法華岳薬師(養老2年718年行基作)、越後の米山薬師を三大薬師と呼んでいるものもあります。725年には泰澄法師と行基は会っており親交を深めたと記録されています。

堀能寺はその後、荒れかけたが康平6年(1063年平安時代中期)に、源 頼義(みなもとのよりよし988~1082・鶴岡八幡宮を創建)が陸奥を平定し奥羽から凱旋の途中、薬師の霊験なるを聞き多くの寄進をして坊舎を修造し「荒千坊」と名づけた。地名の荒瀬原は、これに由来するとされています。

現在、山頂に祭られている小さな石の祠は、下荒瀬原即心院の奥の院にあたり、高さ約60センチ、横約45センチで中には13体の石仏がはいっていて、12薬師とされといることから一体は別の物なのか、又は、薬師如来と12神将(十二支にもたとえられている)であろうとも考えられます。
この石仏を、祠より出して、また元のように入れようとしても最後の一体はうまく収まらないと言い、出したまま下山し過日行くと、元のように自然と収まっていると言う伝説があます。また、この薬師にいたずらをすると天気が悪くなると伝えられ、雨が降ると里のお年寄りは、「だれかまた薬師様をいびったな。」といったものだとも言い伝えられています。

天長8年(831年平安初期)斑尾山が崩れ多くの岩石が麓まで落ちてきた。行基が薬師如来像を刻む為に座った石の一部も崩れたが、12薬師はその石を使い彫ったとも伝えられていて、斑尾山でも特に岩石が露出していて崩れた様な場所として、山頂より西に300m程に大明神岳(1350m)という峰があるが、ここが山頂近くの平らな石の場所ではあるまいか・・?眺望もすばらしい場所であり、しかし現在は、この場所から五輪山(米山)を見ることは出来ません。崩れる前は薬師岳山頂と同じような高さの峰であったろうか。

他に薬師像を納めた堀能寺が天授元年(1375年室町時代初期)火事にて消失し、幾多の歴史を経て元和元年(1615年)即心院と改められている。その後、慶安4年(1651年江戸時代初期)薬師仏像が焼失する事を懸念し、磐石の一片で石堂および石仏を造り、本像に換えて斑尾山頂上に安置したとも伝えられています。
山頂の祠の右側には”慶安四卯未四月”と刻まれており、左側には”享和元酉未六月”と刻まれているのが確認できます。
(慶安四年=1651年 江戸時代初期)
(享和元年=1801年 江戸時代中後期)

斑尾山の山名起原も様々なものがあり、その一つに空海(774~835年奈良時代終期~平安時代初期、没後921年に後醍醐天皇より弘法大師をおくられる)が全国布教の途中、観経の写経をこの山の峰に埋めたのが「曼陀羅の峰」まんだらほう=まだらほー=まだらお とも考えられ伝わっている。
その他、春雪の消え方が斑模様に残ることから斑山などと様々です。

江戸時代の古文書には、信州では斑山と呼び、越後では斑尾山と呼んでいたと記録されています。又袴岳(1135,3m)毛無山(1022,4m)も斑尾山の寄生火山であり、袴岳は、古文書に斑尾山袴峰と記録されています。
斑尾山周辺の地域には、この山に関係した言伝えや、伝説が数多く残されています。

小菅神社は役小角(えんのおづぬ)が飛鳥時代中頃、天武8年(679年)に来山したことから始まっています。
斑尾山麓の伝説に、北国街道を信濃に入った修行僧は、初め黒姫山麓に道場を構えたが、交通路に近く俗化したので、二派に別れ、一派は戸隠山に、一派は斑尾山に上がったともあります。
小菅神社はその後、行基が参詣し馬頭観世音を彫り、安置し、弘仁11年(820年平安時代初期)には弘法大師が東国への布教の際小菅山にて修行したとあります。
信濃と越後を隔てる関田山脈の中でも南端で独立した山として何らかの意味を持ち、又なだらかな山麓は交通路としても便利だったのではないかと思われます。

役行者、行基、泰澄、弘法大師の歴史からみると、日本仏教初期、山岳信仰の時代は薬師岳と呼ばれ、その後仏教が庶民化していく時代から斑峰、斑山、又は斑尾山と呼ばれて来たのでは と想像できます。いずれにしても、斑尾山の歴史は飛鳥の時代に始まっています。

 

斑尾山

斑尾山は、火山である。火山の最高点は1381,8mであり、火山としては、それほど高いものではない。侵食が非常に進んでいて、眺める方向からは、とても火山には見えない地形となっている。西側から見ると、火山斜面が残ってなく火山岩で構成される稜線は細く、シャープであり周辺の山地や丸みをおびた尾根とは異なる。
しかし、東側ではわずかに火山斜面が谷間にわずかに残り、北東側には、比較的火山斜面が残り、それに続く火砕流堆積面が広くは無いがあり、斑尾高原として地域が出来ているのがその場所である。
東側に残る火山斜面をもとに、接峰面図から等高線を西側に延長し、周辺の丘陵や山地の接峰面図の等高線と連続する方法で、斑尾火山の侵食される前の地形を復元してみると、侵食前は約1900mの高さがあったと考えられます。
しかし、斑尾火山の南西部の釜石山付近は、等高線が外に突出し同心円にならないことから、この地域は斑尾火山と別の火山があった可能性が考えられる。そして、寄生火山ではなく、斑尾火山より古い別の火山である可能性も、周辺の地層研究から考えられる。調査の方法、結果から斑尾火山は100万年前の火山であり、40~30万年前に周辺に火砕流を流下して活動を終えたと考えられる。
野尻湖周辺道路の樅が崎や松が崎などの岬で斑尾山の古い溶岩を見ることが出来る。

飯縄山

飯縄山は、二重式火山で現在の山頂になっている部分は外輪山にあたり、約25万年前から噴火を始めたと思われる。何回かの噴火を繰り返し、溶岩や火砕流が積み重なって富士山型の成層火山に成長し、最も高くなったときは標高2500メートルと推定される。その後、約20万年前、水蒸気爆発により山の西半分が崩れ、約15万年前から新しく噴火が始まり、怪無山、高デッキ、天狗山などの小さな火山が溶岩ドームを造りながら噴火した。飯縄山最後の噴火は約5万年前とされ、火山の噴火は黒姫山、妙高山の方に移動していったと推定されている。

黒姫山

黒姫山はやや丸みをおびた円錐型の火山であり、頂上は半円形の外輪山をつくっている。なだらかに見えるが約4万年前に水蒸気爆発をおこして出来た外壁の一部である。この時の爆発で山頂は大きく崩れ、北西方向に岩塊を押し出した、現在も北麓には数10メートルもある岩が多くある。黒姫山の東側山腹にやや小さく丸い小山、御鹿山がある、この山の溶岩の上には約7万年前の火山灰が堆積している。この様な古い火山が黒姫山の山麓をとりまいていて、約10万年前には標高の低い火山が活動していたと推定される。これらの古い火山を前黒姫山火山と呼んでいる。

妙高山

妙高山は、新しい火山の下には古い火山が隠されていて、その下にもっと古い火山が見つかっている。妙高山は三世代の火山が重なり合って出来た為に、複雑な地形を造っている。数千年前まで噴火を繰り返しており、今の地形が出来たのは約4千年前の大噴火で、火山灰は黒土の中でも黄色いゴマのような火山灰であることが特徴で、その時の火砕流の一部を関山の国道沿いの大きな崖に見ることが出来る。崖には大きな白っぽい岩石が多く混ざっている。この岩石を「関山石」と呼んでいる。

戸隠山

戸隠山は海底が隆起して出来た山である。戸隠山からはホタテガイをはじめ多くの貝の化石が見つかっている。また遠くから山を見ると、うっすらと縞模様が観察でき水中に堆積した地層で出来ていることもわかる。奥社周辺の岩に見られるように火山が噴火した時の溶岩の破片や火山灰などが固まった硬い岩で出来ていて、この岩の中に砂や泥の地層、貝の化石がみられ、海底火山の名残と考えられる。約500万年前、北信一帯は日本海につながる海であった。海底で火山が大規模に噴火し、その後約200万年前から大地の変動を受け盛り上がり続け成長していった。硬い岩であるために、岩の屏風のような山並みになり、崩れやすい岩の部分は洞窟となり、修験者の修行の場となった。

志賀高原の山々

志賀高原には、火山が多くあり新旧二つに分けられる。横手山・東館山・竜王山・焼額山・笠岳などは古い火山である。これらは長い間に自然の浸食を受け、火山体の一部は削り取られ不完全な火山体になっており、火口の跡もはっきりしなくなっている。
これに対し、志賀山や鉢山は侵食を受けてなく、火山体が噴出当時のまま残されている新しい火山である。
横手山は、約65万年前に活動し、火口は松川の源流部で硫黄鉱山の跡付近と推定されている。火口の西側にあった長野県側の外輪山はほとんど削られ残っていないが、山頂から群馬県側には火山体の一部が残っている。竜王山・焼額山・東館山は志賀高原の北側につながる火山で、いずれも約70~90万年前に活動していた。笠岳は、約170万年前に形成されたドーム状の火山で、この火山だけは溶岩を回りに流さず、地下から上がってきたマグマが地表近くで冷え固まって出来た「溶岩円頂丘」と呼ばれる火山である。
志賀山は、熊の湯と大沼池の中間にある火山で、志賀山と裏志賀山の二つの峰をもち、山頂付近の火口跡は池や湿原になっている。この火山の最初の活動は、約25万年前にはじまり、最後は約5万年前と推定されている。最初の活動は激しく、安山岩質の溶岩、火砕流、火山泥流を大量に流し、湯田中温泉の地下まで分布し、地表の分布は上林温泉付近で止まっている。噴出物の流れた跡には、凸凹の地形が出来、凹地には水がたまり湖沼が出来た。琵琶池・丸池・蓮池・木戸池・三角池などはこの様な池である。
志賀山の溶岩は、幕岩付近で角間川をせき止め湖が出来た。平床・出ノ原湿原などの平坦地は、この湖の湖底であり、石の湯周辺に分布する水平にたまった未固結の地層は、この湖に堆積したもので、その厚さは55メートルもある。
新期の活動は、大量の安山岩の溶岩で四方に流れ、四方とも当時と余り変わらない状態で残っている。西側に流れた溶岩流は、岩のしわが大きな渦巻状になっており、流れの方向をよく示している。信州大学自然教育園は、この渦巻状の溶岩がつくる台地の縁に当たり、その南に広がる「おたの申す平」は、この溶岩の中心部を占めている。
(2004年夏)