斑尾高原の八坊巡拝(はちぼうめぐり)・・・あるじのガイド

斑尾山の山麓には古道があり、この道は、古代の律令による官道のひとつで、延喜式に依れば近江国勢多駅(滋賀県)を起点とし、美濃国(岐阜県)、信濃国(長野県)、上野国(群馬県)、下野国(栃木県)、を経て陸奥国(青森、岩手県)に通じる東山道(あずまやまみち)からの幹線路で信濃から越後国府に至る北陸路である。そして、「遊歩百選」に選ばれた斑尾高原のトレッキングトレイルの一部はこの道を歩きます。

信濃と越後の境に位置する斑尾山の東山麓には、平安時代から鎌倉時代、その道の重要性から多くの集落が形成されていったと思われます。往来の多さや、当時の仏教布教などにて多くの寺院が建てられたことも記録に残されています。
親鸞(1173~1262平安時代終期)が1207年(承元1年2月30日)専修念仏の禁止により越後に配流された後、越後から常陸へ、関東方面への布教の旅の途中、この地を旅したのは建保2年(1214年・鎌倉時代初期)のことであります。
しかし、繁栄と共に山の木を切りつくし、また鎌倉時代に入り戦国の世の流れなどから街道がさびれたこと、3年続きの凶作等により、この地域の八人の僧が経文、仏像などをこの地に埋め永日の供養をして何処へ退散したのです。時に永仁元年(1293年)4月28日のことです。現在この地が八坊塚という地名で残っています。

永仁元年からおおよそ500年くらいが経過したころ飯山本町の忠右衛門(資料によっては七朗右衛門)なる者がこの地を訪れると霧の中に五輪の鐘の音が聞こえ、感じるままにこの地より八人坊が埋めた写経と如来仏像を掘り出し、飯山忠恩寺へ納めたという記録があります。
忠恩寺には、この記録と一致する曼陀羅佛というものが現存しています。
又、来迎三尊画像が現存していると言われています。

本願寺8世蓮如(1415~1499)は宝徳元年(1449年)に北陸、越後方面の布教に訪れ、その後、応仁2年(1468)に越後に入り親鸞配流の遺跡を訪ねて現在の妙高村の大鹿から豊葦、奥沼を通り信濃の国へ行ったといわれており妙高村大鹿の浄土真宗逢龍寺に蓮如筆と伝えられる6字名号があり、伝説も残されています。
奥沼部落にも寺があり、空海の弟子、慶順(1486~1592)が開山したとも伝えられています。

斑尾高原のホテル、ペンションが立ち並んでいる場所の地名は長野県側に飯山市字八坊塚、新潟県側に妙高村大字樽本字八坊主となっています。
このような歴史の記録から八人のお坊さんを偲び、707年を経過した西暦2000年の春、4月8日斑尾高原の中に8人のお坊さんを顕賞して石像が建てられました。
その石像には、青連坊 林西坊 専念坊 大林坊 佛道寺 西念坊 有曽坊
堂尊院と名づけられています。
この八体の石像は、仏教の正しい悟りへの道である「八正道」の正見(しょうけん)正思(しょうし)正語(しょうご)正行(しょうぎょう)正命(しょうみょう)正精進(しょうしょうじん)正念(しょうねん)正定(しょうじょう)を表していて、それが刻まれています。これらを拓本しながらの八坊巡拝(はちぼうめぐり)がひとあじ違った旅の記念になります。

「東山道」・・・・古代の国の分け方の呼び名であり、この場合は「とうさんどう」といい国の国府を結ぶ幹線路を呼ぶ時は「あずまやまみち」となる。
東山道(あずまやまみち)は、古代の都と東国をむすぶ重要な道であった。
大宝律令(701年)によって定められた令制東山道に対し、それ以前の東
山道を古(こ)東山道という。
東山道は、
陸奥(むつ・青森、岩手) 羽前(うぜん・山形)
羽後(うご・秋田、山形) 陸中(りくちゅう・岩手、秋田)
陸前(りくぜん・宮城、岩手) 磐城(いわき・福島、みやぎ) 岩代(いわしろ・福島) 下野(しもつけ・栃木)
上野(こうずけ・群馬) 信濃(しなの・長野) 飛騨(ひだ・岐阜) 美濃(みの・岐阜) 近江(おうみ・滋賀)
の13国からなり「あずまやまみち」は近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の8ヶ国を結ぶ約1000キロの幹線路として整備され、15キロ程度ごとに駅家が設置された。各駅には馬10頭が置かれていた。幹線路は近江勢多駅から陸奥国府を通り、胆沢城に至るルートである。
信濃国の経路は、美濃国坂本駅から信濃坂(中央アルプスの最南端、恵那山北部の神坂(みさか)峠、東山道の最大の難所でもあった。峠の頂上にある「神坂峠遺跡」からは、全国でも例を見ない数千点もの「幣」が見つかっている。幣は旅の安全を祈願し、旅人がささげた石製の模造品で、多くが鏡、剣、玉の三種の神器をかたどったもので、三つを一組にして紐を通し、木などに結びつけていたとされている。難所だった神坂峠の前後、美濃国「坂本駅」と信濃国「阿智駅」(下伊那郡阿智村)の間は約40キロも離れていた為、通常の2、3倍の馬が置かれていたと言われている。
また、万葉集に、防人(さきもり)として九州に旅立った信濃の若者の、「ちはやぶる神の御坂(みさか)に幣(ぬさ)まつり いわふ命は母父(おもちち)がため」 と残されている。作者は、埴科郡の神人部子忍男(みわひとべのこおしお)である。はるばる九州に埴科郡からおもむく途中、無事に神坂峠の頂上に着いたことを神に感謝した。信濃に別れを告げる峠の頂上で、あわせて故郷に残してきた父母の無事も神に祈ったのである。
阿智駅から、伊那郡を天竜川沿いをさかのぼり、育良(いらか:飯田市)・賢錐(かたぎり:上伊那郡中川村)・宮田(みやだ:上伊那郡宮田村)・深沢(ふかさわ:上伊那郡箕輪町)の各駅を経て善知鳥峠(うとうとうげ:松本平と伊那谷の境界をなす峠、標高889m)を越えて筑摩郡に入り、覚志(かがし:松本市芳川村井町、平安時代から信濃国府が置かれた)を経て、錦織駅(にしごり:上水内郡四賀村、保福寺峠えの重要な駅、越後国への東山道北陸路の分岐点)へ。
また、信濃坂が難路であったため、和銅六年(713年奈良時代初期)、駅路でない直路の吉蘇路(きそじ)を通り覚志駅(松本市)で伊那からの道と結んでいる。
保福寺峠・・・筑摩郡と小県郡を結ぶ重要な峠、保福寺峠の北の尾根にあり標高1345m、東山道の難所で険しい道であった。明治になってイギリスの登山家ウエストンが、この峠で北アルプス連峰を望み、その荘厳さに感動し「日本アルプス」と命名した場所である。
錦織駅から本道は東に方向を変え、保福寺峠を越え、小県郡浦野駅(うらの:小県郡青木村又は上田市浦野)に出て、亘理駅(わたり:上田市西部、対岸は中之条、千曲川を渡る重要な駅)で千曲川を渡り、佐久郡清水駅(しみず:小諸市西部)、長倉駅(ながくら:軽井沢町か御代田町付近)経て、碓氷峠を越え、上野国坂本駅に至る。

支路として
出羽路―陸奥柴田郡から分岐して出羽国府を通り秋田城に至るルート。
飛騨路―美濃から飛騨国府に至るルート。
北陸路―信濃から越後国府に至るルート。
斑尾山麓の西側を通る北陸路は「延喜式」によると四駅家が設定されたとある。錦織駅から分かれ北に向かい、更級郡麻績駅(おみ:上水内郡麻績村)を経て、犀川を亘理駅(わたり:長野市丹波島、塩崎付近)で渡り多古(たこ:長野市三才から田子付近)沼辺(ぬのへ:上水内郡信濃町野尻または古間)の四駅である。また「延喜式」によると和銅四年(711年)畿内にまとまって新駅が設置され養老三年(719年)に東北に十箇所の新駅が設置されていることから[東山道]もこの八年間に整備されたものではないでしょうか。
源平盛衰記によれば、寿永二年(1183年平安時代終期)に、木曽義仲が熊坂山(信越国境、妙高高原町東側)に陣をとった記録があることから、この頃から関川に沿った通路(現在の国道18号線)が開かれたと思われる。
古道は多くの山の尾根など、展望のきく所を選んでいることからみると、多古から牟礼をへて芋川に出て御所入から梨久保、親川を通り、堀越、踏津、堂平、分道をへて沼に至るか、あるいは、古間から、荒瀬原、涌井、を通って親川にでて沼までの二つのコースが利用され、沼から越後樽本をへて長沢を通ると越後国府に至ることができる。
沼辺が野尻または古間とすれば信濃国府から越後国府に至る道は関川沿いにあったことになる。難所の多いこの道より山の尾根を通る道ならば斑尾山の南東麓を通り奥沼部落(沼の原湿原)の萩原宿の辺が、別の資料によれば沼辺ではないかとも言われている。
当時、越後の国府は頚城郡にあったことが確実視されている。おそらく関川の本流に近い所に位置されていたと思われる。そうすれば沼辺から先は妙高村を通り、水門(みなと=現、直江津市)に通じていたのではないか。「延喜式」に越後国府を目指す東山道支路が沼辺までしか記載されなかったのは、越後国府を頸城郡に移した時期が、大宝2年(702)に越中国所属の四郡を越後国へ編入し、和銅5年(712)に越後国の出羽郡を越後より分け、出羽国とした直後で越後国府への官道の整備が遅れ、未完成の資料にて「延喜式」が編さんされたと考えられる。

このコースの一部が斑尾高原のトレッキングトレイルになっています。
この萩原宿は大変繁盛して、分道、堂平は萩原宿の新田として出来たとも言われている。江戸時代享保年間には七十五戸の家があったことも記録されている。関川沿いの道の往来が盛んになるにつれ、この山道が衰退し、堂平、分道、萩原宿の寺院も寂れ八人の僧侶が立ち去ることになった。関川沿いの道の整備からみると百年くらいの間に徐々に衰退をしたものと思われる。しかし、平安の時代から奥沼部落(萩原宿)が廃村(大正末期)になるまでの約1200年の間、繁栄と衰退を繰り返すも官道として重要だったことには違いないと思われます。

この駅路東山道の原初の道(古東山道)は、信濃坂を越えてから、天竜川沿いに北上して、宮田駅をすぎて北東に向かい、杖突峠(つえつきとうげ:伊那郡と諏訪郡の境をなす峠、標高1247m)を超えて山浦(やまうら:茅野市)へさらに東北に進み雨境峠(あまざかいとうげ:蓼科山西北麓、諏訪地方と佐久地方を結ぶ重要な峠)を超えて佐久郡に下り、佐久平を北東に進み碓氷坂に至ったと推定されています。

筑摩郡を経由する道は、大宝二年(702年、飛鳥時代終期)に開通の記録があり、東山道の最大の難所は、南の信濃坂峠、北の碓氷坂及びその中間にある保福寺峠であったが、東海道には幾つかの大きな川があったこともあって、大和朝廷における、陸奥、出羽の開発にあたって次第に重要な道となり、奈良時代の中ごろまでは主要道路とされていたに違いないと考えられます。

国の分け方は、蝦夷(えぞ)=北海道(ほっかいどう) 東海道(とうかいどう) 北陸道(ほくりくどう) 畿内(きない) 山陰道(さんいんどう) 山陽道(さんようどう) 南海道(なんかいどう) 西海道(さいかいどう)と呼んでいた。
「延喜式」・・・・飛鳥時代から奈良時代にかけ地方を含め国が出来初め、それらを治めるため広い分野で律令が行われる様になっていた。
「養老律令」の施行細則を集大成した古代の法典であり、「延喜五年」(905年)に藤原時平ほか11名の委員によって編集が開始されたのでこう呼ばれている。
その後も修訂が加えられ、40年後の康保4年(967年)に施行され、全50巻、条数は3000条、1~10巻(神祇官関係の式) 11~40巻(太政官八省関係の式)
41~49巻(その他の官司関係の式) 50巻(雑式)と律令官制に従い配列されている。

この様な正しい心にて人生を送りたい
・・・・・と思う・・・あるじの解釈

「八正道」・・・・釈迦は人生の様々な「苦」から抜け出す方法として八つの正しい道を解き明かしています。これが、正見、正思、正語、正行、正命、正精進、正念、正定という方法です。全てに「正」の字がついているのは「正しい」とし「真理に合った」・「調和のとれた」考えや見方、行動をさしています。

青連坊―正見― 自己中心的な見方や、偏見をせず正しい見方をする事。で多くの人と出会いいろいろな事を知ろう。
林西坊―正思― 自己本位に偏らず物事を考えること。例えば自分だけの為に意見を通したり、自分の意に添わないと怒ったり、不平、不満の気持で自分を通したりしないで、相手を大切に、本当の友達になろう。
専念坊―正語― 常に真理に合った言葉使いをする事。嘘や、悪口、口から出任せのいいかげんな言葉、都合や立場で使う二枚舌は止めて、心をこめて話し合い仲良くなろう。
大林坊―正行― 本能に任せる行動ではなく、正しい行いをする事。むやみに生き物の生命を絶ったり、盗みをしたりしない。悪いことは悪いと認められる素直な人になろう。
佛道寺―正命― 衣食住その他の生活財を正しく求める事。人の迷惑になる仕事や、世の中の為にならない職業によって生計を立ててはいけない。正しい生活にはやさしい心が必要、人の心を考える、やさしい心を大切にしよう。
西念坊―正精進― 自分に与えられた使命や目指す目的に対して正しく励み、努力する事。自分の目的を持って、がんばることの楽しさを知ろう。
有曽坊―正念― 正しい心を持ち、自己本位による区別をせず、真実の真相を見極め心を正しい方向に向ける事。自分が見たり、聞いたりしたことをしっかりと注意をして覚え、毎日の出来事、人との出会いを大事にしよう。
堂尊院―正定― 心の状態が正しい状態に定まり、決心が外的要因や変化に迷わされない事。定は心が落ち着いているという意味でしょう、穏やかな気持ちでいろいろな事を考えてみよう。
昔人に思いを馳せ、山郷の生活、時代の流れ、   仏教の諸行無常
斑尾高原では、歴史の浪漫と心のやすらぐひと時も体験できます。

あるじが、お勧めする八坊巡拝(はちぼうめぐり)の時間
1 朝食前の(6時~8時くらい)2時間
理由・・・時期にもよりますが雲海がすばらしいのと高原のすがすがしい空気に心が洗われる。適度な距離なので昨夜のアルコールが抜け、朝食が美味しく食べられる。
2 夕食前の(4時~6時くらい)2時間
理由・・・天候にもよりますが夕焼けがすばらしく、一日を振り返るのに雰囲気がある。適度な運動で、夕食が美味しく食べられ、アルコールがさらに進む。
拓本ができる斑尾高原 八坊巡拝の栞・・・・150円 で販売しています。

(2004年夏)

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