斑尾山の山名起源と薬師伝説・・・あるじのガイド

斑尾山は、「マダラオサン、マダラオヤマ、マダラサン」と呼ばれたり、単に「マドロオ」とも呼ばれ、奥信濃の人々には古くから親しまれています。
また、四季おりおりに、変化する山容の美しさ、人々の心に安らぎを与え、唱歌「ふるさと」に唄われているようにその広大な山麓の山なみは、ふるさとの山としての性質をも持ち、ゆったりとしたあたたかみを与えてくれる山です。

標高 1381,8mの薬師岳を主峰とした斑尾山は、第三紀から第四紀(170万年前)という遠い地質時代に出来た火山を中心とした斑尾火山群であり、西方には、妙高山(2446m)、火打山(2462m)などからなる妙高火山群、鍋倉山(1289m)、黒倉山(1242m)などからなる関田山脈が、長野県と新潟県の県境にまたがっています。
主峰が薬師岳と呼ばれているように、これにまつわるいくつかの伝説や山名起源説があり、山麓の人達には、ある種信仰の山の性格も持ち合わせていると言えます。
薬師岳の伝説は、和銅5年(713年 飛鳥時代の終期)泰澄法師(たいちょうほうし 白鳳11年(682年)、飛鳥時代中期、福井県生まれ、養老元年717年霊夢によって白山登拝を決意し、開山。人形、仏像彫刻では日本最初の達人ともいわれています。役小角(えんのおづぬ634年~)後の役行者(えんのぎょうじゃ)とならび修験道の二派とされていますが、泰澄は白山を道場とし、役行者は大峰山を道場とした。)が、越前より越後に赴く際、五輪山(米山 993m)の麓の大樹の下にて仮眠した時、神の夢告に五輪山の西南斑尾山に至る間、濁水奔流して人々大いに苦しみ、これを防ぐことも出来ず困難しているが、薬師如来を安置し、崇敬するならば濁水は清流となるであろうと告げられた、夢覚めて、一本の香木から二体の薬師如来を刻み、一体を五輪山に、一体を斑尾山に安置し奉仕すると、濁流は清く澄んだと言い伝えられています。

また、泰澄法師ではなく行基(ぎょうき・668~749飛鳥~奈良時代・民衆に仏教を広める傍ら、灌漑用水、橋の工事など交通の便を良くするなどの活動で民衆から”菩薩”と敬われる。743年聖武天皇に協力し東大寺大仏造立の必要性を説いた。国で最初の僧として最高の位である”大僧正”を受ける。又野沢温泉の湯を発見したとの一説もある。)とされてもいて、斑尾山の頂上近くの平らな石に座り栴檀の木(せんだんの木・ビャクダンの異称)で二体の薬師如来像を刻み、一体は里人たちが寺を造立し安置、真言宗堀能寺と名づけた。もう一体は、お告げを受けた五輪山の頂上にまつったとの説もあります。

米山(五輪山)の米山薬師(よねやまやくし)は、泰澄が開山したと伝えられ、米山薬師を護るのは、柏崎の別当寺密蔵院です。正式名称は「日本三薬師・別当密蔵院」と呼ばれており、神奈川県伊勢原にある宝城坊の日向薬師(ひなたやくし)、高知県大豊町にある豊楽寺の柴折薬師(しばおりやくし)とならび日本三大薬師の一つとされています。宝城坊は716年、豊楽寺は724年に、ともに行基が開山したと言われている。三河の鳳来寺薬師(役行者の兄弟といわれる利修仙人作)、日向の法華岳薬師(養老2年718年行基作)、越後の米山薬師を三大薬師と呼んでいるものもあります。725年には泰澄法師と行基は会っており親交を深めたと記録されています。

堀能寺はその後、荒れかけたが康平6年(1063年平安時代中期)に、源 頼義(みなもとのよりよし988~1082・鶴岡八幡宮を創建)が陸奥を平定し奥羽から凱旋の途中、薬師の霊験なるを聞き多くの寄進をして坊舎を修造し「荒千坊」と名づけた。地名の荒瀬原は、これに由来するとされています。

現在、山頂に祭られている小さな石の祠は、下荒瀬原即心院の奥の院にあたり、高さ約60センチ、横約45センチで中には13体の石仏がはいっていて、12薬師とされといることから一体は別の物なのか、又は、薬師如来と12神将(十二支にもたとえられている)であろうとも考えられます。
この石仏を、祠より出して、また元のように入れようとしても最後の一体はうまく収まらないと言い、出したまま下山し過日行くと、元のように自然と収まっていると言う伝説があます。また、この薬師にいたずらをすると天気が悪くなると伝えられ、雨が降ると里のお年寄りは、「だれかまた薬師様をいびったな。」といったものだとも言い伝えられています。

天長8年(831年平安初期)斑尾山が崩れ多くの岩石が麓まで落ちてきた。行基が薬師如来像を刻む為に座った石の一部も崩れたが、12薬師はその石を使い彫ったとも伝えられていて、斑尾山でも特に岩石が露出していて崩れた様な場所として、山頂より西に300m程に大明神岳(1350m)という峰があるが、ここが山頂近くの平らな石の場所ではあるまいか・・?眺望もすばらしい場所であり、しかし現在は、この場所から五輪山(米山)を見ることは出来ません。崩れる前は薬師岳山頂と同じような高さの峰であったろうか。

他に薬師像を納めた堀能寺が天授元年(1375年室町時代初期)火事にて消失し、幾多の歴史を経て元和元年(1615年)即心院と改められている。その後、慶安4年(1651年江戸時代初期)薬師仏像が焼失する事を懸念し、磐石の一片で石堂および石仏を造り、本像に換えて斑尾山頂上に安置したとも伝えられています。
山頂の祠の右側には”慶安四卯未四月”と刻まれており、左側には”享和元酉未六月”と刻まれているのが確認できます。
(慶安四年=1651年 江戸時代初期)
(享和元年=1801年 江戸時代中後期)

斑尾山の山名起原も様々なものがあり、その一つに空海(774~835年奈良時代終期~平安時代初期、没後921年に後醍醐天皇より弘法大師をおくられる)が全国布教の途中、観経の写経をこの山の峰に埋めたのが「曼陀羅の峰」まんだらほう=まだらほー=まだらお とも考えられ伝わっている。
その他、春雪の消え方が斑模様に残ることから斑山などと様々です。

江戸時代の古文書には、信州では斑山と呼び、越後では斑尾山と呼んでいたと記録されています。又袴岳(1135,3m)毛無山(1022,4m)も斑尾山の寄生火山であり、袴岳は、古文書に斑尾山袴峰と記録されています。
斑尾山周辺の地域には、この山に関係した言伝えや、伝説が数多く残されています。

小菅神社は役小角(えんのおづぬ)が飛鳥時代中頃、天武8年(679年)に来山したことから始まっています。
斑尾山麓の伝説に、北国街道を信濃に入った修行僧は、初め黒姫山麓に道場を構えたが、交通路に近く俗化したので、二派に別れ、一派は戸隠山に、一派は斑尾山に上がったともあります。
小菅神社はその後、行基が参詣し馬頭観世音を彫り、安置し、弘仁11年(820年平安時代初期)には弘法大師が東国への布教の際小菅山にて修行したとあります。
信濃と越後を隔てる関田山脈の中でも南端で独立した山として何らかの意味を持ち、又なだらかな山麓は交通路としても便利だったのではないかと思われます。

役行者、行基、泰澄、弘法大師の歴史からみると、日本仏教初期、山岳信仰の時代は薬師岳と呼ばれ、その後仏教が庶民化していく時代から斑峰、斑山、又は斑尾山と呼ばれて来たのでは と想像できます。いずれにしても、斑尾山の歴史は飛鳥の時代に始まっています。

 

斑尾山

斑尾山は、火山である。火山の最高点は1381,8mであり、火山としては、それほど高いものではない。侵食が非常に進んでいて、眺める方向からは、とても火山には見えない地形となっている。西側から見ると、火山斜面が残ってなく火山岩で構成される稜線は細く、シャープであり周辺の山地や丸みをおびた尾根とは異なる。
しかし、東側ではわずかに火山斜面が谷間にわずかに残り、北東側には、比較的火山斜面が残り、それに続く火砕流堆積面が広くは無いがあり、斑尾高原として地域が出来ているのがその場所である。
東側に残る火山斜面をもとに、接峰面図から等高線を西側に延長し、周辺の丘陵や山地の接峰面図の等高線と連続する方法で、斑尾火山の侵食される前の地形を復元してみると、侵食前は約1900mの高さがあったと考えられます。
しかし、斑尾火山の南西部の釜石山付近は、等高線が外に突出し同心円にならないことから、この地域は斑尾火山と別の火山があった可能性が考えられる。そして、寄生火山ではなく、斑尾火山より古い別の火山である可能性も、周辺の地層研究から考えられる。調査の方法、結果から斑尾火山は100万年前の火山であり、40~30万年前に周辺に火砕流を流下して活動を終えたと考えられる。
野尻湖周辺道路の樅が崎や松が崎などの岬で斑尾山の古い溶岩を見ることが出来る。

飯縄山

飯縄山は、二重式火山で現在の山頂になっている部分は外輪山にあたり、約25万年前から噴火を始めたと思われる。何回かの噴火を繰り返し、溶岩や火砕流が積み重なって富士山型の成層火山に成長し、最も高くなったときは標高2500メートルと推定される。その後、約20万年前、水蒸気爆発により山の西半分が崩れ、約15万年前から新しく噴火が始まり、怪無山、高デッキ、天狗山などの小さな火山が溶岩ドームを造りながら噴火した。飯縄山最後の噴火は約5万年前とされ、火山の噴火は黒姫山、妙高山の方に移動していったと推定されている。

黒姫山

黒姫山はやや丸みをおびた円錐型の火山であり、頂上は半円形の外輪山をつくっている。なだらかに見えるが約4万年前に水蒸気爆発をおこして出来た外壁の一部である。この時の爆発で山頂は大きく崩れ、北西方向に岩塊を押し出した、現在も北麓には数10メートルもある岩が多くある。黒姫山の東側山腹にやや小さく丸い小山、御鹿山がある、この山の溶岩の上には約7万年前の火山灰が堆積している。この様な古い火山が黒姫山の山麓をとりまいていて、約10万年前には標高の低い火山が活動していたと推定される。これらの古い火山を前黒姫山火山と呼んでいる。

妙高山

妙高山は、新しい火山の下には古い火山が隠されていて、その下にもっと古い火山が見つかっている。妙高山は三世代の火山が重なり合って出来た為に、複雑な地形を造っている。数千年前まで噴火を繰り返しており、今の地形が出来たのは約4千年前の大噴火で、火山灰は黒土の中でも黄色いゴマのような火山灰であることが特徴で、その時の火砕流の一部を関山の国道沿いの大きな崖に見ることが出来る。崖には大きな白っぽい岩石が多く混ざっている。この岩石を「関山石」と呼んでいる。

戸隠山

戸隠山は海底が隆起して出来た山である。戸隠山からはホタテガイをはじめ多くの貝の化石が見つかっている。また遠くから山を見ると、うっすらと縞模様が観察でき水中に堆積した地層で出来ていることもわかる。奥社周辺の岩に見られるように火山が噴火した時の溶岩の破片や火山灰などが固まった硬い岩で出来ていて、この岩の中に砂や泥の地層、貝の化石がみられ、海底火山の名残と考えられる。約500万年前、北信一帯は日本海につながる海であった。海底で火山が大規模に噴火し、その後約200万年前から大地の変動を受け盛り上がり続け成長していった。硬い岩であるために、岩の屏風のような山並みになり、崩れやすい岩の部分は洞窟となり、修験者の修行の場となった。

志賀高原の山々

志賀高原には、火山が多くあり新旧二つに分けられる。横手山・東館山・竜王山・焼額山・笠岳などは古い火山である。これらは長い間に自然の浸食を受け、火山体の一部は削り取られ不完全な火山体になっており、火口の跡もはっきりしなくなっている。
これに対し、志賀山や鉢山は侵食を受けてなく、火山体が噴出当時のまま残されている新しい火山である。
横手山は、約65万年前に活動し、火口は松川の源流部で硫黄鉱山の跡付近と推定されている。火口の西側にあった長野県側の外輪山はほとんど削られ残っていないが、山頂から群馬県側には火山体の一部が残っている。竜王山・焼額山・東館山は志賀高原の北側につながる火山で、いずれも約70~90万年前に活動していた。笠岳は、約170万年前に形成されたドーム状の火山で、この火山だけは溶岩を回りに流さず、地下から上がってきたマグマが地表近くで冷え固まって出来た「溶岩円頂丘」と呼ばれる火山である。
志賀山は、熊の湯と大沼池の中間にある火山で、志賀山と裏志賀山の二つの峰をもち、山頂付近の火口跡は池や湿原になっている。この火山の最初の活動は、約25万年前にはじまり、最後は約5万年前と推定されている。最初の活動は激しく、安山岩質の溶岩、火砕流、火山泥流を大量に流し、湯田中温泉の地下まで分布し、地表の分布は上林温泉付近で止まっている。噴出物の流れた跡には、凸凹の地形が出来、凹地には水がたまり湖沼が出来た。琵琶池・丸池・蓮池・木戸池・三角池などはこの様な池である。
志賀山の溶岩は、幕岩付近で角間川をせき止め湖が出来た。平床・出ノ原湿原などの平坦地は、この湖の湖底であり、石の湯周辺に分布する水平にたまった未固結の地層は、この湖に堆積したもので、その厚さは55メートルもある。
新期の活動は、大量の安山岩の溶岩で四方に流れ、四方とも当時と余り変わらない状態で残っている。西側に流れた溶岩流は、岩のしわが大きな渦巻状になっており、流れの方向をよく示している。信州大学自然教育園は、この渦巻状の溶岩がつくる台地の縁に当たり、その南に広がる「おたの申す平」は、この溶岩の中心部を占めている。
(2004年夏)

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