斑尾高原の歴史・・・あるじのガイド

斑尾高原は長野県の北、飯山市から12km、斑尾山の北東に広がる標高1000mの斜面にあります。新潟県との県境をまたぎホテル、ペンションが立ち並んでいます。

斑尾高原から直江津沖日本海までは、直線距離にして40kmの所です。晴れた日には斑尾山中腹から日本海に浮かぶように佐渡島を望むことも出来ます。

斑尾高原の歴史は昭和39年(1964)にさかのぼります。  第18回東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開業、飯山市は市制10周年を迎えた年です。高度成長を遂げた日本経済の中でも、長野県の最北端に位置する飯山市は様々な問題を抱えていましたが、深刻な過疎が開発のきっかけでした。

そんな中、昭和42年(1967)5月、「斑尾山麓開発促進期成同盟会」が発足し10月には長野県企業局が「菅平方式」(住民が無償で提供した土地を県企業局が造成、分譲しその利益を土地提供者に還元する方式)による「斑尾高原保健休養地として観光開発を行なう」ことを表明、8月いよいよの斑尾山麓開発事業起工式が行われたのです。

昭和46年(1971)ペンション村の計画検討が始まり、翌年、妙高村より土地提供があり、5月斑尾高原開発の起工式が現在の斑尾高原ホテルの場所にて行われ、 昭和47年(1972)12月1日、すざましい吹雪の中で記念すべきホテル1棟、ペンション7軒、スキー場がオープンしました。

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1972年秋・オープン間近の斑尾高原 2004年夏の斑尾高原

しかし、時代の変遷、特に経済情勢の変化により、平成15年(2003)に長野県企業局が解散し長野県開発公社に移行、斑尾高原保健休養地としての業務が関係する市町村の行政機関に移行されています。平成15年10月30日には開発に関わる土地提供者で構成されている「斑尾高原開発土地提供者連絡協議会」が斑尾山を正面に望む地に、開発事業の区切りとして「斑尾高原開発記念碑」を建立しています。

昭和49年(1974)2月には、どんど焼き(現、火祭り)、8月には斑尾高原夏祭りが行われ、この行事は現在も続いています。昭和50年(1975)には、斑尾高原トレッキングトレイルの始まりとも言える沼池(昭和56年11月希望湖と改名)自然遊歩道が開設、10月1日に斑尾高原観光協会設立総会が行われ、全国への広告宣伝、営業活動が本格的に始まりました。

昭和52年(1977)には第一回斑尾高原リーゼンスラローム大会を開催、昭和54年(1979)には、希望湖にボート施設がオープン、またこの年に飯山市斑尾区、妙高村斑尾区が発足、行政組織も充実をみるに至りました。

翌年(1980)は1月7日まで降雪がなく、また昭和57年(1982)は雪不足の為、リーゼンスラローム大会が中止になるなどありましたが、斑尾高原開設10周年を向かえた1982年、第一回ニューポートジャズフェスティバルイン斑尾を開催、10年を期に全国に斑尾高原を再アピールする目的で計画され、日本を代表する屋外で行われる夏の音楽イベントとなっています。

昭和63年(1988)には、フリースタイルワールドカップ開催、翌年の平成元年には観光協会会員数も増え、施設数は168を数えるになりました。

平成15年度観光協会総会時の、観光協会加盟会員数97会員、105施設となっており、平成15年(2003)4月には誘客の拠点となるビジターセンター「まだらお高原 山の家」が飯山行政のご理解で完成し、ここを利用した体験プログラムの展開を開始しました。また、協会が進めているトレッキングトレイルが、妙高村の推薦により「遊歩百選」にも選ばれています。斑尾高原のトレイルは周遊性をもち17のコースに分かれ、その総延長は50キロに達しています。2005年春には、斑尾山を南の玄関口として、関田山脈を縦走する100キロに近いトレイル「信越トレイル」がオープンします。「まだらお高原・山の家」には斑尾高原観光協会の事務局もあり、センターの維持管理、運営を行いながら、全国に、斑尾高原および周辺の観光情報を発信しています。

(2004年夏)

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