斑尾火山の流動性に富む溶岩流の末端のへこみに水をたたえたもので、西側は毛無山(大平峰)と溶岩の末端でさえぎられています。
池の東方に湧水がある他、川と言えるほどの流れ込む川はなく、ほとんどが雪解け又は雨水による伏流水からの湧水であり、透明度は4~5mくらいあります。周りは
大部分が国有林で、スギ、ミズナラ、カラマツなど様々な樹木に覆われ斑尾山を映し出す神秘的な湖であり、斑尾高原を訪れる人々には人気のスポットの一つでもあります。
記録には、約430年前の天正時代(安土桃山1573~1591)に初めて壕を開き、文化2年(1806江戸時代中期)堤防にて水面を広げ、天保6年(1836)改築、安政2年(1856江戸時代終期)に大修築とあり、近年になっても幾たびかの修築があり、昭和28年に設立された下水内中部土地改良区が、昭和28年から36年の8年間に1678万円の費用にて総延長365メートルの堰堤工事が完成し、現在に至っています。南北740メートル、東西380メートル、周囲2440メートル、最深部11メートル、平均5メートル、最大貯水量48万5900トンであり、沼の池の水は、飯山市柳原、外様両地区の農家約400戸、約200ヘクタールの水田で稲作が出来、地域にとっては重要な水であります。湖北側の島の様な場所に弁財天が祭られていて、その石碑には、文化2年、天保10年の文字が刻まれているのが確認でき、古くから「命の泉」としての関わりがしのばれます。
享保年間(1716~1735江戸時代 将軍吉宗の時代)は、飯山にて水田耕作が盛んであり、皿川下流では沼池からの水量では足りず、また、飯山全体でも水不足であり用水問題は深刻であったようです。
飯山の中でも沼の池から流れる皿川の水は、大川、山口、藤ノ木等の村々と愛宕、伊勢町、有尾、市ノ口、小佐原の五ヶ所との間で争論が絶えなかったとあり、飯山町、奈良沢、愛宕町、小佐原等において用水不足のため溜池を築きたいが用地が無く、越後樽本村地籍の内前坂に溜池を築こうと、同村と交渉、越後国頚城郡樽本村庄屋又兵衛と信州水内郡飯山町の奈良沢、愛宕町、小佐原、上町の各組頭との間にて、年十両にて承認、契約の記録が残っています。
いずれにしても、飯山は水不足の問題を抱えていました、その為に山間の湧水、自然の小さな沼から流れる水を利用し稲作をしたものと思われ、分道、堂平、牛ヶ首等は山間の傾斜地を広げて耕作を行ったと思われます。
観光協会として中部土地改良区の旭用水委員会より借り受け、ボートやフィッシング、周遊トレッキング等で観光に使用し、昭和56年(1981)には、沼の池から希望湖(のぞみこ)と改名し現在に至っています。
標高 約850メートル、雪解けから5月初め頃までは周辺に多くの水芭蕉が見られ、池の南側に飯山市の天然記念物にも指定され、北信地区では数箇所しか見られないと思われているヤエガワカンバの大木があります。胸高幹囲2,5メートル、樹高は約20メートルあります。カバノキ科で樹皮が重なってはがれる為に、八重皮樺(やえがわかんば)の名があり別名・コオノオレともいい環境省のレッドデータブックにも絶滅危惧種に指定されている貴重な木です。
半島の様に張り出した場所には、樹齢300年を思わせる,胸高幹囲3,8m 樹高約18m 直径1,3mブナの巨木もあります。またこの地域の特異性としては、シラカンバ林の中にダケカンバが混生していることとウチダシミヤマシキミが多いことなどがあります。
沼の池に関わる伝説
昔、柳原の南條部落に「こく衛門」という男がおり、この男乱暴者ではあったがなかなかえらい男でもありました。川中島の戦いの後、上杉謙信は武田信玄の軍勢に追われ安田の渡しまで逃げてきたが、その時、こく衛門が渡しの綱を切って信玄の追っ手を足止めし、謙信を越後に逃がしました。謙信は命の恩人である「こく衛門」を呼び、「望みの物はなんでも与えるから好きな物を言え」といったところ、こく衛門は柳原地域が水に不便をしているのを思い、「他になにも望みはありませんが、沼の池をいただきたい」と言いました。謙信は、こく衛門の望みを聞き入れ沼の池を彼に与えました。当時沼の池は、越後領であったが、水は信州側に流れ落ちるようにしたのです。
謙信にまつわる、安田の渡しでの綱きりについては、様々な説があります。安田の渡しは「綱きりの渡し」とよび、これに架かる橋は今も別名「綱きり橋」と呼ばれています。