沼の原湿原・・・あるじのガイド

斑尾山の北約3キロメートル、標高870メートル、関川の支流土路川の源流部に位置する湿原が沼の原湿原と呼ばれています。

湿原は小丘陵によって東湿原と西湿原に分かれていて、東湿原が約4,5ヘクタール、西湿原が約14,5ヘクタールです。

二つの湿原は北方で一緒になり形のくずれた馬蹄形をしていて、東湿原の東縁と西湿原のほぼ中央に川が流れています。

東湿原が最も湿潤で西に向かうにつれ乾燥化が進んでいます。

南に斑尾山、西に寄生火山の袴岳、東には小丘陵をへだて沼の池があり、北へは土路川が下りそれに沿って、上樽本、中樽本、下樽本、土路の集落が点在しています。

年間降水量は、約2500ミリ、最深積雪量は3メートルを超え、日本海に近く裏日本型の気候で降雪量も多く、春遅くまで雪が残っていて湿原と川の水源は雨水と湧水によるもので、冬の豪雪が湧水をつくっていると思われます。

西湿原中央を流れる川の源流は、斑尾山北斜面の伏流水であり、年間を通し水量が変わらない湧水の場所が湿原西トレイル沿いに一ヶ所あります。万坂峠に近く300年を思わせるトチの木の根元から季節を問わず変わらぬ湧水量と水温5度程を保っています。

樽本の伝説に、蓮如が親鸞の遺跡を訪ね布教の途中、上樽本にさしかかったとき、目の病で困っているお婆さんに会った。蓮如は気の毒に思い「山の中腹に薬泉があるから、それで目を洗いなさい」と言った。さっそく山に行き薬泉を探し当て、目を洗うとたちまち傷みが取れ楽になったということです。

まさにこの薬泉の場所ではないかと思わせるような湧水の場所であります。

 

かって、湿原地域には沼部落、奥沼部落があり、奥沼部落は現在の湿原の位置とされ萩原宿と呼ばれ享保年間(1716~1735江戸時代中期)は最も栄え、75戸をかぞえた記録があります。沼部落は沼の池付近とされ、大正初期まで池の近くに峠の茶屋あったようです。この峠道を「樽本越」と呼び、上杉謙信の軍勢が川中島の戦いの為にこの峠を越えた記録もあり、信濃の国と越後の国との物資、文化の交流に大切な宿場として賑わいを見せ、様々な面で重要な街道の歴史があったと思われます。延喜式によるところの東山道・北陸路の駅家「沼辺」(ぬのへ)ではないかともいわれています。

しかし、時代の流れによって厳しい山道を越える必要がなくなると共に、街道がさびれ宿場として衰退や、江戸時代の天明(1782年天明2から6年間)・天保(1833年天保4から6年間)の大飢饉、特に天明3年(1783)7月の浅間山の大爆発はこの地方にも多大の影響があり、冷害による凶作と重なりこの頃より徐々に離村する人が出てきたと思われます。

 

現在湿原となっている所は、集落の耕作地跡であって、今でもヨシ群落の広がる湿原には昔の水溝の跡や、水田の畦と思われるものが残っていて、集落の位置は、標高850m 位の高冷地で、高冷地での米作が可能になったのはかなり後世であることを考えると、かっての住民は、作物として何を作り、何を主食としていたのだろう。

記録、文献を見ると、これより以前にもこの場所は、東山道の支路として幾多の繁栄と衰退を繰り返したものと思われます。

 

大正15年(1926)には3戸が残っていたが、中央電気会社(現 東北電力)が貯水池としての利用が計画され、土地買収が行われ離村しています。(計画は戦争により中断し現在に至り平成16年に妙高村が東北電力より買収している)

第二次大戦中に湿原の一部で水稲、大豆などが作られたことがあり、湿原の中に畦や水路の名残が見られます。

このように、古くから人的行為が加えられて来た為に、ブナ帯に属するが、大きなブナ林はみられず、湿原周辺にはミズナラの二次林が多く、東北側には広い範囲でカラマツが植林され、直径40センチを超えるものも見られる。ミズナラについては、その大きさから、山仕事にかなりの労働比重をかけ日々の生計を営んでいたのではないかと思われます。

約200年の湿原化によって、多くの植物が育ち、植生上からみても貴重な地域になっている。湿原内には、一部にイボミズゴケなどが分布するものの、ヌマガヤの少ない中間湿原とされていて、大部分は、ヤマアゼスゲを伴うヨシ群落で、典型的な火山山麓のヨシ湿原です。湿原南の万坂峠に近い部分は、湿生のノリウツギ、ハンノキ、メギ、キンキマメザクラなどの低木林が分布し、乾燥が進んでいる地域はレンゲツツジやツゲが林床となっているシラカンバ林になっています。

中央を流れる小川や周辺の流水部には、数十万株の水芭蕉をはじめリュウキンカの群落が分布し、滞留水域にはミツガシワが広がっています。これらの群落の間に、オオイヌノハナヒゲ、ミカヅキグサ、ミヤマシラスゲ、アイバソウ、カキツバタなどの群落が入り混じり、その中に、点々としてトキソウ、オオ二ガナ、などが散生していて、湿原内だけでも八十数種の植物が報告されています。ここ十数年のうちに特に乾燥化が進み、ハイイヌツゲ、ズミ、ノリウツギ、など雑木の増殖、ヨシ、ススキなども乾燥化に拍車をかけ本来の植生が変わりつつあり、又乾燥化による水路の変化も影響していると考えられています。

この湿原は、耕地跡に二次的に出来た湿原ではあるが、放置された期間が長く自然度が高い、湿生植物が多種類で、群落規模が大きいことがこの湿原の特徴とされています。

上越地方では珍しい、カラコギカエデやメギもこの湿原に自生していますすし、

野ウサギ、タヌキ、キツネ、リスなどの動物。最近ではツキノワグマやカモシカの出没もあります。トンボなどの昆虫類、野鳥(赤ゲラ、アオゲラ、ヒヨドリ、カッコウ、ホトトギス、ウグイス、セキレイなど豊富であります。

 

植生に悪影響が出ない程度の保全策も必要であるし、自然観察園としての構想を進める時期でもあると考えます。2004年には、湿原の乾燥化防止作業の一貫として、昔の水路を利用した水入れ及びハンノキの試験的伐採、ツゲ等雑木の除去の作業により、2005年の春には湿原化した場所に多くのミズバショウが復活しました。乾燥化から湿原化に戻すことにより植物の生態系がどのように変化していくのかも見守りたい所です。

 

 

マメ知識

ミズバショウとシーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 1796~1866)の関係。

シーボルトは1796年ドイツに生まれる。医師である両親の影響を受け医学を学ぶかたわら動物学、植物学、民俗学に興味をもち大学で学ぶ。1822年オランダ大使館の医師としてバタビア(現ジャカルタ)に務め、1823年に日本の長崎出島にオランダ商館の医師として来日、日本人に医学、植物学を教える。当時はオランダ人でなければ来日が無理の為オランダ人に成りすましていたらしい。江戸への4年に一度の旅の中で、植物採集や地理を調べ、1828には富士山の高さを測っており、その時は3794メートルと記されている。この年、日本地図等の持ち出しが発覚し1830年日本追放となる。1858年オランダとの間で通商条約が結ばれ、1859年に再来日、1862年に帰国している。長崎滞在時は、「おたき」(瀧1806~1859)という妻と「いね」(イネ1827~1903)という娘がいて、「いね」は日本最初の女医であり「オランダおイネ」として知られている。

シーボルトが出島に来る前に、出島にはケンベルやシュンベルクが来ていて植物の種を盛んに収集、東洋の珍しい香辛料を探していたらしい。ケンベル(1690年来日)は植物学に詳しくシーボルトも影響を受けている。ケンベルやシーボルトは日本の植物をオランダをはじめヨーロッパに紹介していて数々の植物に名前をつけている。

ケンベルはウメ、ヤマブキ、シュウカイドウ、サザンカをヨーロッパに紹介。

イロバモミジ、フジ、テッセン、ウツギ、アジサイはシーボルトが命名者である。

特にアジサイには、「おたきさん」学名ヒドランゲア・オタクサとなっている。

バショウ=学名「ムサ・バショウ」中国原産の多年草である。草といっても大型で幹の部分だけで2,5メートルにもなり全体では4メートルにもなりバナナの木に似ており小さなバナナができる。大きく目印にもなり木陰も提供する為に「旅人の木」とも呼ばれる。このバショウの学名もシーボルトが命名者である。成長した葉がバショウに良く似ており、水辺に咲くことからミズバショウ(水芭蕉)と呼ばれる。バショウは水芭蕉の名づけ親である

シーボルトは多くの江戸時代の生活用品や生物の標本をオランダに持ち帰っているトキ(朱鷺)や1905年に絶滅したニホンオオカミの剥製も含まれていて、シーボルトがオランダに送ったトキの標本に1871年学名が「ニッポニア・ニッポン」になった。ニホンオオカミは、1905年(明治38)が日本で最後の捕獲の記録であり、ニホンオオカミの剥製は現在、日本に3体、イギリスに1体、オランダに1体あるのみである。

 

松尾芭蕉

松尾芭蕉は1644年伊賀上野赤坂村(三重県上野市赤坂町)に生まれ、幼名は金作、のちに宗房と名乗り、俳句発表初期の頃(1675)の号は「桃青」であった。1681年春、38歳の時、門下の「李下」よりバショウを一株譲り受け庵に植え、その葉がみごとなことから評判になり「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、「ばせを植ゑてまづ憎む萩の二葉かな」と詠んでいる。1682年 39歳のとき初めて公に「芭蕉」号を使用している。1688年8月11日 45歳の時、美濃の国から信濃の国更科に、仲秋の名月を見るために訪れ、長野善光寺に立ち寄り浅間山の麓を抜け、江戸に戻っている。このときの旅を「更科紀行」として残している。

更科の姨捨山にかかる月は平安時代から多くのものに詠まれており、芭蕉が訪れた後もその評判は各方面に知れ渡り、この月を見るのが風流とされ多くの旅人が訪れるようになる。

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