(株) 藤田観光の開発参加
斑尾山麓開発当初、斑尾山麓の冬は積雪3メートルを超え、その過酷さから人が踏み込めるような場所ではないため、
夏の保健休養地として計画されていたが、大規模なスキー場の構想は考えてもみなかったと当時の関係者は語っている。
開発に着手して間もない斑尾山に、自然発生的ではなく計画されたリゾートスキー場の構想を描いている民間企業が現れた。
藤田観光株式会社である。
昭和45年9月長野県企業局に開発参加の申し入れをし、雪上調査、気象調査等を行い、斑尾山がスキー場として最適であることを確認し、47年(1972)2月正式な斑尾開発計画を提案し承認され開発認可を得た。
藤田観光の参加は、夢のようなスキー場の構想を現実のものとした。
同盟会の会員の中にはスキー場構想を考えていた人もいなかった訳ではない。
丸山哲三氏は、昭和39年(1964)1月に勉強のため
オーストリアで行われた第9回冬季オリンピックインスブルック大会を見学しに行っており、
スキー場のスケールの違いに驚きを感じ、
斑尾山に国際的なスキー場をという夢をふくらませたと語っている。