寺瀬のルーツ

昭和45年(1970)に発行された「信濃の街道」という本があります。
須坂市出身、吉原澄悦(よしはら すみよし)という人の著書で長野県を通る街道を1年間かけ自ら歩きながら、街道が持つ歴史を振りかえりながら、その風景を切り絵にしまとめた本であります。
切り絵の数は、54にもおよびます。
街道は、中仙道・甲州街道・北国街道・善光寺西街道・三州街道となっており
中仙道は、碓氷峠から塩尻峠を越え木曽路まで
甲州街道は、蔦木宿(富士見町)から佐久街道の野辺山原
北国街道は、海野宿から松代、須坂、善光寺(長野市)、柏原(信濃町)      谷街道(飯山)から越後へ
などが描かれています。

その中の、谷街道・飯山の文章の中に飯山のことを、お寺さんの多い町・仏壇屋さんの町・綱切橋のヨシズ・雪国特有の雁木などが紹介され、

昔、戦国の世に、寺瀬某なる男が武田軍の従って飯山に来たが、戦争の悲惨さにいや気がさして、明昌寺裏の栗畑に隠れ、のち愛宕町に住みつき、彫刻や絵をものしていた。その子孫が正受老人(近世臨済禅の中興の祖といわれる白隠を導いた人)のすすめによって、京都からひな形を取り寄せ、仏壇を作り始めたという話を私は聞いた。これが飯山の仏壇作り発祥の一説であるが・・・

という文章があります。

この寺瀬なにがしが、おらっちの家の先祖であります。
甲斐の国、寺瀬の里の出身といわれ、寺瀬の屋号は「甲府屋」です。
歴史をたどると、寺瀬なにがしは、寺瀬重高とあります。飯山に来た年はハッキリしませんが、1684年の正月に没となっています。
正受老人(1642~1722)の勧めを受け、仏壇を始めたのは3代目の吉太郎と思われます。
戦国の世に正受庵は荒廃しましたが、それを再興したのが山岡鉄舟(1836~1888)です。年代は解りませんが正受庵との関わりから、山岡鉄舟が寺瀬の家に宿泊し、その礼として残したという書が残っています。

江戸終期から明治・大正にかけては、祖は彫刻にて名を馳せていたようで、栄村箕作(さかえむらみつくり)にある常慶院という寺の山門前の仁王像は、祖の作で荷車にて2日かけ運んだと伝えられています。
この寺の山門は見事なもので、北陸の陽明門とまでいわれるほどで、NHKの「行く年来る年」の中継にも使われたほどです。

次の大河ドラマの主人公「山本勘助」も武田の間者としてこの寺に宿泊したという話もあります。弘治3年(1558)6月の末のことです。

寺瀬の家は、おらっちの息子で19代目になり、380年ほどの家系になります。
寺瀬の姓は少なく、全国でも75前後の世帯数のようです。

寺瀬という姓の人、何かでこのグログ読んだら連絡ください。
どこかでツナガリあるかも・・・・・

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