花と歴史の沼の原

今日の、信濃毎日新聞の北信版に沼の原湿原のミズバショウが紹介されています。
湿原中央の川べりを、事務局の佐藤君が歩いてる写真です。

沼の原湿原はほぼ300年をかけて出来た湿原です。
ミズバショウが盛んに咲き誇っている場所は、水田の跡と思われます。
そうなんです、昔あの場所には人が住んでいたんです。

残っている記録には、享保年間(1716~1735)江戸時代の中頃で将軍吉宗の時代には、宿場町「萩原宿」として75戸を数えたとあります。
1戸に3~4人として300人近い人たちが暮らしていたことになります。

いつ頃から「奥沼部落」とも呼ばれる「萩原宿」の歴史ははじまったんでしょうか。
どうも、様々な歴史と言伝えなどをつなぎ合わせると平安時代にさかのぼる。
斑尾山から北に延びる関田山脈には多くの17の峠道があるが、奥沼部落は峠道の重要な位置にある。17の峠道の内、一番南に位置する「万坂峠」からは、斑尾山の北斜面を抜け八坊塚・分道・堂平・飯山の「飯山・田口街道」
奥沼部落の西(現西トレイル)を抜け沼の池(希望湖)・大川・藤ノ木の街道。
樽本から沼の池(沼部落)・奥沼部落の東の川沿い(現、東トレイル)・分道と抜ける「樽本越え」ここは唯一峠がついてません。ここを入れて17の峠道です。

街道が交わる場所には、人が集まるのと同時に周辺に人が住み始め、そして厳しい自然と山岳宗教等の影響から、八坊主・八坊塚の地名にあるように多くの寺院が古くから建てられるようになったと思われます。
奥沼部落には、弘法大師(後の空海774~835)の弟子、慶順(1486~1592)が開山したという伝えがあり、親鸞(1173~1262)も越後から関東への布教に行く時、親鸞の10世の孫、蓮如(1415~1499)も親鸞の布教の道を訪ね、1468年頃、「樽本越え」を通ったとされている。

越後側にも寺院があったといいます。
上樽本でも、集落の中央を流れる土路川の東側の地域の土中からは、寺院の物と思われる廃材や五輪塔の一部と思われる石がいまだに出るといいます。
おそらく、上樽本より上部の場所に寺院があり大きな土砂崩壊によって埋まったものと考えられます。

沼の原湿原は、貴重な自然環境の場所であると同時に、様々な歴史を持った
ロマンあふれる場所でもあります。

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