800年前

ちょうど800年前、鎌倉時代の承元元年(1207年)浄土真宗の開祖親鸞が、専修念仏禁止の弾圧によって35歳で越後国府に流罪となり、居多ヶ浜(こたがはま、新潟県上越市直江津)にたどり着きました。

それを記念して、上越市で、親鸞ゆかりの地を巡るバスツアーが企画されています。
4月から7月までの日曜日を中心に19回予定されています。
上陸の地、居多ヶ浜や居多神社、配所だった竹之内草庵が境内にある五智国分寺、親鸞の妻恵信尼ゆかりの地である板倉町の「ゑしんの里記念館」、親鸞の頂骨や遺品が保存されている寺町の「淨興寺」などを見学するとのこと。また、5月26日~6月24日の間は、市立総合博物館で「寺宝展」も行なわれている。
集合場所はJR直江津駅北口、問い合わせはマルケー旅行センター・025-543-4120 だそうです。

親鸞は、越後では藤井善信(ふじいよしざね)という俗名で暮らし、板倉町米増の豪族「前越後介三善為教」の娘「恵信尼」(えしんに)と結婚(三善一族は山寺薬師を拠点に山寺三千坊といわれるほどの一大勢力をもっていた)
親鸞は、流罪になる前、京ですでに法然の弟子、照禅の娘「玉日」と結婚してたんです。

越後に居る間に子供ももうけていて、その一人善鸞とは教えの違いから建長8年(1256年)5月29日付けの手紙にて親子の縁を切っています。親鸞84歳のことです。

建保2年(1214年)親鸞42歳のとき、関東への布教活動のために家族で常陸の国(茨城県)の向かいますが、その時関田峠(標高1111m)を越えたといわれています。
関田峠は、関田山脈の中間ぐらいのところにあり、最も標高が高い峠で県境に位置します。飯山市から温井地区をぬけ、上越市関田地区を経て旧板倉町に通じる県道95号線上越飯山線です。歴史上に出てくるのは鎌倉時代になるんですが、平安時代から小路があったともされています。
峠には大明神が祀られていて、別名大明神峠とも呼ばれ、戦国時代には上杉謙信が川中島に向かうのにこの峠を越え、飯山で軍を整え出陣していったのです。

親鸞が、関田峠を越える途中、野宿をされた処は「高僧の寝床」と呼ばれ、この時この地が光明で明るくなったともいわれ「光が原」と名付けられた伝わっています。

恵信尼は、親鸞と20年ほど共に暮らした後、43歳の時の末娘「覚信尼」だけを京に残し、善鸞を除く二男二女と生まれ故郷越後に戻っています。
1262年12月20日すぎ、越後に住む81歳の恵信尼のもとに、11月28日京にて90歳で息を引き取った父親鸞のことを伝える手紙が覚信尼より届いています。

大正10年(1921年)に京都に居る覚信尼に宛てた恵信尼の手紙が西本願寺で見つかり、文面より恵信尼
が72歳の時にはすでに越後に住んでいたことが実証されたんですが、いまだに越後に戻った理由は明らかではないそうです。

JAZZY HOUSE寺瀬ペンションから上越市の親鸞ゆかりの地までは、車で約40分くらいです。
そして、斑尾高原から居多ヶ浜までは直線距離にして40km。親鸞上人も浜に着いたとき、南に見える妙高山とその左の山並みに斑尾山を見たかもしれません。言伝えには斑尾山の近くにも飯山市にも親鸞が歩き通りすぎたというところがあるんです・・・よ。

各ゆかりの地で聞ける案内とはちょっと違った、おらっちの話も聞きにお出かけ下さい。

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