斑尾山麓開発の成り立ち 15

昭和46年(1971)

8月、長野県、関係市町村、藤田観光合同現地調査。

10月、「ペンション村」計画検討開始。

昭和47年(1972)

2月、藤田観光が正式な斑尾開発計画を提案し承認される。
企業局と関係者による斑尾開発プロジェクト会議発足。

3月、長野県と藤田観光との間で土地売買契約。

5月16日、斑尾高原の開発およびホテルの竣工式。

6月スキー場リフト免許申請、造成工事着工。

11月、斑尾高原保健休養地管理組合設立。
飯山市斑尾簡易水道完成、(給水能力2800人工費2億8200万円)

12月 1日 開業、開発計画から7年の長い道のりであった。

フジタ斑尾高原ホテル 1
ペンション    7
民宿       1
レストハウス   1
スキースクール  1
ガソリンスタンド 1

レフト
第一リフト      485m
第二リフト      552m
第三リフト      585m
第四リフト      303m

斑尾高原の第一号のポスター

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斑尾山麓開発の成り立ち 14

(株) 藤田観光の開発参加

斑尾山麓開発当初、斑尾山麓の冬は積雪3メートルを超え、その過酷さから人が踏み込めるような場所ではないため、
夏の保健休養地として計画されていたが、大規模なスキー場の構想は考えてもみなかったと当時の関係者は語っている。

開発に着手して間もない斑尾山に、自然発生的ではなく計画されたリゾートスキー場の構想を描いている民間企業が現れた。
藤田観光株式会社である。
昭和45年9月長野県企業局に開発参加の申し入れをし、雪上調査、気象調査等を行い、斑尾山がスキー場として最適であることを確認し、47年(1972)2月正式な斑尾開発計画を提案し承認され開発認可を得た。

藤田観光の参加は、夢のようなスキー場の構想を現実のものとした。

同盟会の会員の中にはスキー場構想を考えていた人もいなかった訳ではない。
丸山哲三氏は、昭和39年(1964)1月に勉強のため
オーストリアで行われた第9回冬季オリンピックインスブルック大会を見学しに行っており、
スキー場のスケールの違いに驚きを感じ、
斑尾山に国際的なスキー場をという夢をふくらませたと語っている。

斑尾山麓開発の成り立ち 13

昭和47年(1972)7月10日、47年度斑尾山麓開発促進期成同盟会総会において、

議案第5号 会則の一部改正について、「斑尾山麓」が「斑尾高原」に改められた。

昭和47年度事業方針

経済の発展にともない所得の向上とあいまって、余暇の増加をきたし、さら に道路、鉄道網等の整備により、 余暇をレジャーに求め、くわえて過密化した都市から自然を求める観光人口は、ますます増大する傾向にある。

こうした新しい時代の要求に即応し斑尾高原の開発事業の完成は、 関係市町村の広域的な生活圏等経済の発展に寄与する役割は、きわめて大であり、大衆の保健、休養、スポーツ、自然観察のための健全な場として、計画の早期進展を期するため、次の事業をおこなう。

事業計画

(1) 基本計画に基づき、早急に事業が推進するよう、関係者等の協議、調整をおこなう。
(2) 公共施設および還元施設等の調査研究をおこなう。
(3) 計画、構想、推進にあたり随時役員会、幹事会を開催し調査、検討をおこなう。
(4) 毛無山麓を含めた広域観光圏を構成し、二次開発地域(3万坪)として確保し計画編入するよう、関係機関へ促進する。
(5) 奥信濃地域開発計画に基づく木島平村、高社山麓線および野沢温泉経由線の開発を促進し、 斑尾高原に接続するよう関係機関に強力に働きかけをおこなう。
(6) 飯山市側よりの取り付け道路(延長10,5km)を県道に昇格していただくよう関係機関に強く要望する