おばけミズバショウ

斑尾高原観光協会のホームページに、「山の家 スタッフブログ」があります。

梅雨入り直前の「沼の原湿原」からのリポートに、「おばけミズバショウ」の写真が載っていました。

春を告げるミズバショウも、現在は葉っぱのみで大きなものは一メートル近くにもなっていて芭蕉の木の葉にそっくりです。

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バショウに関しての一言知識

ミズバショウとシーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 1796~1866)の関係。

シーボルトは1796年ドイツに生まれ、医師である両親の影響を受け医学を学ぶかたわら動物学、植物学、民俗学に興味をもち大学で学んでいます。

1822年オランダ大使館の医師としてバタビア(現ジャカルタ)に務め、1823年に日本の長崎出島にオランダ商館の医師として来日、日本人に医学、植物学を教え、当時はオランダ人でなければ来日が無理の為オランダ人に成りすましていたらしい。

江戸への4年に一度の旅の中で、植物採集や地理を調べ、1828には富士山の高さを測っており、その時は3794メートルと記されています。

この年、日本地図等の持ち出しが発覚し1830年日本追放となっていす。

1858年オランダとの間で通商条約が結ばれ、1859年に再来日、1862年に帰国しています。長崎滞在時は、「おたき」(瀧1806~1859)という妻と「いね」(イネ1827~1903)という娘がいて、「いね」は日本最初の女医であり「オランダおイネ」として知られています。

シーボルトが出島に来る前に、出島にはケンベルやシュンベルクが来ていて植物の種を盛んに収集、東洋の珍しい香辛料を探していたらしい。

ケンベル(1690年来日)は植物学に詳しくシーボルトも影響を受けていて、ケンベルやシーボルトは日本の植物をオランダをはじめヨーロッパに紹介していて数々の植物に名前をつけています。

ケンベルはウメ、ヤマブキ、シュウカイドウ、サザンカをヨーロッパに紹介。イロバモミジ、フジ、テッセン、ウツギ、アジサイはシーボルトが命名者で、特にアジサイには、「おたきさん」学名ヒドランゲア・オタクサとなっています。

バショウ=学名「ムサ・バショウ」中国原産の多年草であり、草といっても大型で幹の部分だけで2,5メートルにもなり全体では4メートルにもなりバナナの木に似ており小さなバナナができます。大きく目印にもなり木陰も提供する為に「旅人の木」とも呼ばれ、このバショウの学名もシーボルトが命名者であます。成長した葉がバショウに良く似ており、水辺に咲くことからミズバショウ(水芭蕉)と呼ばれ、バショウは水芭蕉の名づけ親であると言えます。

シーボルトは多くの江戸時代の生活用品や生物の標本をオランダに持ち帰っており、トキ(朱鷺)や1905年に絶滅したニホンオオカミの剥製も含まれていて、シーボルトがオランダに送ったトキの標本に1871年学名が「ニッポニア・ニッポン」になり、ニホンオオカミは、1905年(明治38)が日本で最後の捕獲の記録であり、ニホンオオカミの剥製は現在、日本に3体、イギリスに1体、オランダに1体あるのみであるそうです。

ついでに、松尾芭蕉

松尾芭蕉は1644年伊賀上野赤坂村(三重県上野市赤坂町)に生まれ、幼名は金作、のちに宗房と名乗り、俳句発表初期の頃(1675)の号は「桃青」であった。1681年春、38歳の時、門下の「李下」よりバショウを一株譲り受け庵に植え、その葉がみごとなことから評判になり「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、「ばせを植ゑてまづ憎む萩の二葉かな」と詠んでいます。

1682年 39歳のとき初めて公に「芭蕉」号を使用しています。1688年8月11日 45歳の時、美濃の国から信濃の国更科に、仲秋の名月を見るために訪れ、長野善光寺に立ち寄り浅間山の麓を抜け、江戸に戻っています。このときの旅を「更科紀行」として残しています。

更科の姨捨山にかかる月は平安時代から多くのものに詠まれており、芭蕉が訪れた後もその評判は各方面に知れ渡り、この月を見るのが風流とされ多くの旅人が訪れるようになったそうです。

 

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