一足遅れの満開

斑尾高原には、花の形が香辛料のチョウジに似ているためについた、また日本海側の山地に生育するため奥と付く奥丁字桜(おくちょうじざくら)、日本の野生の桜の代表、山桜(やまざくら)、山桜より花が大きく色が濃い、大山桜(おおやまざくら)、山桜や大山桜が終わるころ咲きだす霞桜(かすみざくら)などの桜がありますが、これらが終わるころ咲くのが、サクラらしくないサクラの代表格、サクラの仲間の原種ともいわれる上溝桜(うわみずざくら)です。

白いブラシのような花が全体を覆うほど咲きます。材が硬く火をおこすのに使われたり、古くは占いに利用され、上面に溝を掘ったことから(ミゾがミズ)上溝となったといいます。

斑尾高原のあちこちの山で今満開です。

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Thank you Great Mr.B.B.King

20150516_070041寂しいニュースが入ってきました。

BB・King氏の訃報です。89年の生涯を閉じました。

ニューポートJAZZフェスティバル イン 斑尾には、1984年 1986年 1994年と3回斑尾のステージに立っていただきました。

1986年には、2月21日に94年の生涯を閉じた、クラーク・テリ―氏もゲストとして来斑しています。

相次いでの訃報に寂しい限りです。お二人のサインやBB.King氏からもらったピンバッジを見ると、2000人以上入った観客を総立ちにしたパワフルなパフォ―マンスが20150515_205516、ついこの間の事のように思い出されます。

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斑尾山とスキーのかかわり 2

大正2年(1913)1月12日と3月

飯山中学校(現飯山北高)の寄宿生が斑尾山にスキー登山。

昭和7年(1932)1月30日~31日

第10回全国スキー選手権及び第6回明治神宮スキー大会予選会が神明が丘に雪不      足のため、分道スキー場で開催。選手と役員は分道と堂平に分宿。

昭和8年(1933)11月16日

分道スキー場にヒュッテが完成。 分道に飯山最初の民宿が2軒誕生。(ご飯とみそ汁付きで一泊50銭,1軒5~6人の宿泊であった。)

昭和9年(1934)

1月6日 飯山、田口(妙高高原)間約20kmスキーツアーコース開きを分道スキー場ヒュッテにて開催。

1月28日、飯山、斑尾、田口スキーツアーコース開きでツアー実施。

2月18日、名古屋鉄道局主催の、田口、斑尾、飯山間スキーツアーで、女性子供を含め80名余りが完走。

昭和16年(1941)

2月16日 全国皆スキーに併せ飯山町民スキー行事で、坊主山と分道にてスキー行事実施。

昭和32年(1957)

3月10日 田口、斑尾、飯山スキーツアーが復活し、33年3月2日、34年3月1日、36年3月19日、42年3月19日と実施されている。

100年以上前から斑尾山でスキー行われていたのです。

斑尾山とスキーのかかわり

斑尾という文字が飯山スキー史に登場するのは、明治45年(1912)1月23日飯山で市川達譲氏が初スキーをした日と同日、陸軍高田13師団の田口より斑尾、大川を経て飯山までのスキー行軍が行われた時であります。

田口(妙高高原)より古海、袴岳南斜面、万坂峠、沼の原湿原(湿原西トレイル)、毛無山東斜面、沼の池(希望湖)、大川、藤の木、飯山までの行軍です。

1月24日には片山稲荷西北斜面にて飯山町民にたいしてのスキー実演が行われたそうです。

長野県にスキー伝わったとされる1月23日に行われた二つの出来事は偶然だったんでしょうか。

市川達譲氏が、スキーをしたのが陸軍高田師団より後だとしたら、飯山スキー史は変わっていたかも知れません。