私とJAZZ

私がJAZZを始めて聞いたのは、中学に入った頃だった。テレビのある番組のバックミュージックで流れてきたものだった。
ちょっと変わった拍子でありしかしその軽快なスイング感とメロディーがとっても新鮮で、いままで聞いたことの無い音楽だった。
それが、「テイク・ファイブ」という曲だと知ったのは三年八ヶ月もたってからです。
中学生時代、JAZZを聞くなんていう機会がまったく無かったし、興味もなかったのもあったからです。
中学時代は、日活映画の小林旭・石原裕次郎のシリーズ物で高校時代は加山 雄三の「若大将シリーズ」に夢中。音楽といえばベンチャーズを筆頭にエレキギターもの中心。
ある時、友人のところのレコードで懐かしい「あの曲」を聴き、曲名が「テイク・ファイブ」と知り、これがJAZZっていうジャンルだと知ったのであります。
結構多くの人が、テイクファイブという曲名は知らなくても、メロディーは耳にしたことあると思うし、一度聞いたらわりと忘れない曲だと思います。

JAZZとな何ぞや・・・とか詳しいことは知らないが、どんな場所・状況・雰囲気・気持ち・あらゆるものにすんなりと入ってくる音楽であることは確かのような気がします。

「テイク・ファイブ」は
ジャズ史上はじめてミリオンセラーを記録した曲で、ディブ・ブルーベック(p)の「タイム・アウト」というアルバム(1959年6月~8月NYで録音)で発表されています。
曲を書いたのは、ブルーベックのカルテットに参加していた、ポール・デスモンド(as)で、ブルーベックのカルテットは1951年サンフランシスコで結成、しかし当時はクラシックの影響が強く、スイングしないと言われ人気は無かったようです。1950年半ばよりライブ活動をジャズ・クラブから大学のキャンパスに移し、当時ジャズクラブに出入り禁止されていた大学生に、ジャズの魅力を知ってもらおうと「カレッジ・コンサート」と呼ばれたライブは、「ジャズは低俗な音楽」という一般常識をくつがえし、カルテットも絶頂期をむかえています。

斑尾のジャズ・フェスも一回目に出演の「カーメン・マクレエ」(Vo)がテイク・ファイブを唄い、四回目のステージには、ディブ・ブルーベックカルテットが出演、ポール・デスモンド(as)・ジーン・ライト(b)・ジョー・モレロ(ds)から30年程の変遷を経て、ビル・スミス(cl)・クリス・ブルーベック(tb・b)・ランディー・ジョーンズ(ds)のカルテットで斑尾のステージに出演しています。クリスはディブの息子です。

はじめて聞いた、きっかけの曲を自分達が企画したジャズ・フェスのステージに招へい出来、見て、聞け、親しくパーティーも出来たのも何か因縁めいたものを感じます。

JAZZ

今日、親しい友達が少々ホコリはかぶっていたが
嬉しいものを運んできてくれました。

自分の家を引越しするんで、手元におくよりおらっちのほうが使ったり良いと思うよって・・・。
400枚近いJAZZのレコードです。

彼も、JAZZが好きで、好みのJAZZ,好きなアーチスト、こつこつ集めたんだろうな。

思ってもいなかった貴重なそして高価なもの・・・・・ありがとう。
機会みつけて、できるだけ ”JAZZY”に来て頂くお客様に聞いてもらおうと思います。

これを加え、おらっちの所にはすべてJAZZもののレコード・CD・DVD などが約1200枚ほどになりました。
これからがんばって整理しなくっちゃ。

おらっちが繰り返し聞きたいもの見たいものいっぱいで・・・いつになることやら。           です。

こんやは、ブランデーミストでも飲みながらビル・エバンスのピアノでも聴くかな。

飲み過ぎないように、   しよォ~おッと。

斑尾高原の「スター・ダスト」

2月13日の斑尾高原はで、夜は満月。
おらっちの”JAZZY”は開店休業状態。  心は

こんな夜は、久しぶりにゆっくりJAZZでも・・・・聞くかって。
満月の光で、星はすこし影が薄いけど空一杯。
スタンダードナンバーの
”スターダスト”なんかのんびり聴いちゃォ。
スターダストを10ものバージョンで・・・・どれも・・いいな~

この曲、聴けば誰でもって言っていいくらい知ってると思うけど、曲のいろんなこと話せば、へェ~ そ~なんだ。 そ~いうことあったんでロマンチックな曲なんだ。などいろいろあって、それを含めて聴くと想いがその都度変わるんよ。

おらっち団塊世代の少年時代のテレビシリーズに、今ではまったく見られない西部劇で”ララミー牧場”という人気シリーズがありました。淀川 長治さんの解説が最後にあり、「来週またお会いしましょ、それではさよなら、さよなら」ってにぎにぎしてたんだよね。    (ガッツのOK牧場ではありません。)
放送は、1960年6月23日から1963年3月14日までで、主演の「ジェス・ハーパー」役のロバート・フラーなんか日本で人気者になり来日もしてるんだよ。
この牧場の「爺や」で出ていた人、覚えてる人いるかな~
なんとなく記憶にあるな~   ってひと多いいと思うけど・・・・団塊世代の中だけど。

この「爺や」を演じてた「ホーギー・カーマイケル」(1899~1981)って人が作曲者なんです。
ホーギー・カーマイケルは1899年11月11日インディアナ州ブルーミントン生まれで、大学で法律を学び、法律事務所を開く為にマイアミに恋人のドロシー・ケイトを残し旅だったんだよな~。久しぶりに帰郷してみるとドロシーはすでに別の人と結婚。母校のインディアナ大学の石垣に座って星空を見上げ恋人のことを思っているうちに心に美しいメロディーが生まれ、それを曲に仕上げようと、学生達が集まる”ブッフ・ヌック”というレストランにピアノを借りに行ったんす。
そして、数時間後に「スター・ダスト」が完成されました。
曲が出版されたのが1927年、2年後の1929年にミッチェル・パリッシュによって詞が書かれたんですよ。

曲の中では、彼が座った石垣はガーデンウォールとなっているが、その石垣の呼び名は、「ラバーズ・ウォール」というオシャレなネーミングになってます。

おらっちだってロマンチックな気分になることだってあるんだよ~。

おらっちが聴いたリスト と スターダスト物語

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斑尾高原のジャズフェスティバルは

斑尾高原が、ホテルを中心にペンションヴィレッヂを展開する新しい容の滞在型リゾートとして開発され10年を迎えようとしている1980年頃、開発10周年のメモリアルイヴェントの準備が話し始められた。イヴェントの一つに、冬はスキー場のゲレンデとなる芝生のスロープを客席にした野外のジャズフェスティバルが提案された。

1954年に始まった、アメリカ、ロードアイランド州のリゾート地ニューポートでのジャズフェスティバル、1958年、5回目のフェスティバルのドキュメンタリー映画、「真夏の夜のジャズ」。

これを見た13人のペンションの酒好きおやじ(当時は若者・・?)が夢を膨らませ動きはじめたのです。この中にジャズ好きな「あるじ」も居た訳です。

これは10周年を機に再度、斑尾高原をアピールし地域の活性化を図ることだったんで斑尾のペンションオーナーはじめ関係機関、関係諸団体等にご支援ご協力、ご理解して頂いたのは、本当にうれしかったです。こうした事が無かったら現実に成っていなかったと思います。

何から何まで、素人集団の手造りの中、理想はナンバーワン(恐れを知らない素人の強み)。No.1のリゾート「斑尾」、No.1のジャズフェス「ニューポートジャズフェスティバル」、No.1のビール「バドワイザー」。そして、No.1のアーチストを揃え、1982年7月27日 午前10時。スパイロジャイラの「モーニング ダンス」。ジェイベッケンシュタインのソプラノサックスから音が出たとき、 Budweiser Newport Jazz Festival in 斑尾 が日本のジャズの歴史に加わったのです。

スポンサーにビールメーカーを選んだのは、期間中、酒好きおやじがビールをタダで飲み放題を狙ったわけでは決してありません。

昼の、ジャズ ピクニックと夜の、ジャム セッション、一日中ジャズだらけを5日間、斑尾高原をジャズ ヴィレッジにしたのは、プロデュサー ジョージ ウェインのアイデアでした。期間中、斑尾高原にアーチストは滞在し、ステージ以外の時間は、お客さんとテニスをしたりソフトボールをしたり、アーチストたちも斑尾リゾートをエンジョイしてるんです。それは、今までの日本のジャズフェスティバルには無いものばかりでした。そして、盛り上げてくれたのがディジー・ガレスピー、カーメン・マクレエ、ジェリー・マリガン、マッコイ・タイナー、ロン・カーカー、フレディ・ハバード トニー・ウィリアムス、スパイロジャイラ、佐藤允彦、日野元彦、井野信義、ネイティヴサンといったメンバー。

標高1000メートルの大自然の中  太陽の下、芝生の上に寝っ転がってビールを片手に、好きなアーチストのジャズを聴く、パフォーマンスを見る、そして踊る。こんな贅沢なジャズフェスティバルは斑尾だけのものです。 ぜったい そうだよね・・・あるじ は自信満々で言い切ります。

1回から10回はバドワイザー、11回から13回はニッポンエクスプレス。ここから3年休み、1998年再開。15回から17回はシティーバンク・プライベートバンク、18回からはボーダフォンと、スポンサーのお世話になり、来年2004年は斑尾ジャズフェス20周年を迎えます。2004年で二十歳(はたち)になる斑尾ジャズ君は、大人の仲間入りをどんなかたちでみせてくれるのか楽しみですよネェ〜。そして、アメリカ生まれのニューポートジャズフェスティバルは生誕50周年を迎える訳ですネ。

斑尾ジャズにづ〜うっと関わって来た「あるじ」はジャズと酒好きが高じて、ペンションの1階を “JAZZY” という斑尾高原では唯一、いつでもジャズが聞こえるレストラン・バー にしてしまいました。

懐かしいジャズメンの写真が壁にいっぱい架かってて、いろんなジャンルのジャズが一日中流れてて、酒のメニューも豊富で手ごろな価格が喜ばれてます。・・・ちょっと宣伝。

ジャズフェス期間中、スタッフ、関係者、もちろんアーチストが顔を見せることもあります。10回目の来斑のジョン、3回目のエド、背が高いので入口の梁に頭ご注意(当店、あるじサイズの造りになってるんで)。1997年から気になってたし、写真も壁に架かってるダヴィッドの来店に期待。キャンディー、昨年はパパ来たよ〜・・・。 みんなでワーワー酒飲みたいね〜。

プロデューサーのジョージ・ウェインさん、ジョン・フィリップスさん、初めて斑尾に来て、お互いの抱負を話し、我が家のホールで「お抹茶」飲んだのもう22年も前のことになるんですね。

はなし変わるけど、あるじを呼ぶとき、普通、マスターとかオーナーとかおやじとかおじさぁ〜んとか呼ぶけど、 “JAZZY” のあるじ、ジョッシュ(Joshu)って呼んでくれると 結構うれしいです。 なんで? ジョッシュか・・・それはまたの独り言の時にでも、酒でも飲みながら。

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ダビッド・サンチェス(ts)とあるじ
斑尾 JAZZ FES 2003
レストラン・バー “JAZZY” にて

(2003年夏)