斑尾山麓開発の成り立ち 17

昭和51年(1976)
12月 3日 (株)藤田観光より分離独立し斑尾高原開発株式会社 設立
資本金2億、 発行済株式総数40万株、役員9名、社員73名
長期臨時従業員35名

スキー場施設および面積の増設状況
昭和52年 第六リフト       545m 架設   後に撤去

昭和53年 第一ペアリフトA線   445m 架設

昭和54年 第七ペアリフト     464m 架設   後に撤去

昭和57年 第十三リフト      599m 架設

昭和58年 第一ペアリフトD線   476m 架設

昭和59年 第十二ペアリフト    454m 架設

昭和60年 第十一ペアリフト    479m
第十四ペアリフト    469m 架設   後に撤去

昭和61年 第八ペアリフト     524m 架設   後に撤去

昭和62年 第二クワッドリフト   621m 架け替

昭和63年 第三ペアリフト     551m 架け替
第十五トリプルリフト  484m 架設

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平成 元年 第一ペアリフトB線   455m 架設
第一トリプルリフトC線 462m 架設
第三ペアリフトB線   281m 架設
第十一トリプルリフト  488m 架設

平成 2年 第五トリプルリフト   543m 架設

平成 3年 スーパークワッドリフト 991m 架設

平成11年(1999)
温泉開発に成功 斑尾高原温泉と命名。

平成16年(4004)
10月23日  中越地震発生

平成17年(2005)
4月12日  斑尾高原開発株式会社が東京地方裁判所に民事再生適用を申請
負債額52億円

10月19日  東京地方裁判所によって再生計画が認可。
斑尾高原スキー場および斑尾高原ホテルをダヴィンチ                           アドバイザーズへ8億円で売却。
弁済完了後に会社を清算。

平成19年(2007)
7月16日  中越沖地震発生

平成23年(2011)
3月11日  東日本大震災発生により3月12日よりスキー場営業を縮小、3月21日でスキー場営業を繰り上げ終了し、大きな営業損失を生じることとなる。

平成24年(2012)
4月     斑尾線 分道うえ道路流出。改修工事が11月までかかり、グ          リーンシーズンの入込に大きな影響を生じた。

7月27日  株式会社マックアースがダヴィンチアドバイザーズより斑尾高原ホテルおよびスキー場を買収。

シリーズ 斑尾山麓開発の成り立ち、ひとまず終了です。

斑尾山麓開発の成り立ち 16

昭和47年9月 斑尾高原ホテル、ペンションの工事状況

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昭和46年(1871)晩秋と昭和57年(1982)9月
第二クワッド上部より

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開発から10年を迎えた冬の斑尾高原

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開発から20年(平成4年・1992)を迎えた冬の斑尾高原

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斑尾山麓開発の成り立ち 15

昭和46年(1971)

8月、長野県、関係市町村、藤田観光合同現地調査。

10月、「ペンション村」計画検討開始。

昭和47年(1972)

2月、藤田観光が正式な斑尾開発計画を提案し承認される。
企業局と関係者による斑尾開発プロジェクト会議発足。

3月、長野県と藤田観光との間で土地売買契約。

5月16日、斑尾高原の開発およびホテルの竣工式。

6月スキー場リフト免許申請、造成工事着工。

11月、斑尾高原保健休養地管理組合設立。
飯山市斑尾簡易水道完成、(給水能力2800人工費2億8200万円)

12月 1日 開業、開発計画から7年の長い道のりであった。

フジタ斑尾高原ホテル 1
ペンション    7
民宿       1
レストハウス   1
スキースクール  1
ガソリンスタンド 1

レフト
第一リフト      485m
第二リフト      552m
第三リフト      585m
第四リフト      303m

斑尾高原の第一号のポスター

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斑尾山麓開発の成り立ち 14

(株) 藤田観光の開発参加

斑尾山麓開発当初、斑尾山麓の冬は積雪3メートルを超え、その過酷さから人が踏み込めるような場所ではないため、
夏の保健休養地として計画されていたが、大規模なスキー場の構想は考えてもみなかったと当時の関係者は語っている。

開発に着手して間もない斑尾山に、自然発生的ではなく計画されたリゾートスキー場の構想を描いている民間企業が現れた。
藤田観光株式会社である。
昭和45年9月長野県企業局に開発参加の申し入れをし、雪上調査、気象調査等を行い、斑尾山がスキー場として最適であることを確認し、47年(1972)2月正式な斑尾開発計画を提案し承認され開発認可を得た。

藤田観光の参加は、夢のようなスキー場の構想を現実のものとした。

同盟会の会員の中にはスキー場構想を考えていた人もいなかった訳ではない。
丸山哲三氏は、昭和39年(1964)1月に勉強のため
オーストリアで行われた第9回冬季オリンピックインスブルック大会を見学しに行っており、
スキー場のスケールの違いに驚きを感じ、
斑尾山に国際的なスキー場をという夢をふくらませたと語っている。

斑尾山麓開発の成り立ち 13

昭和47年(1972)7月10日、47年度斑尾山麓開発促進期成同盟会総会において、

議案第5号 会則の一部改正について、「斑尾山麓」が「斑尾高原」に改められた。

昭和47年度事業方針

経済の発展にともない所得の向上とあいまって、余暇の増加をきたし、さら に道路、鉄道網等の整備により、 余暇をレジャーに求め、くわえて過密化した都市から自然を求める観光人口は、ますます増大する傾向にある。

こうした新しい時代の要求に即応し斑尾高原の開発事業の完成は、 関係市町村の広域的な生活圏等経済の発展に寄与する役割は、きわめて大であり、大衆の保健、休養、スポーツ、自然観察のための健全な場として、計画の早期進展を期するため、次の事業をおこなう。

事業計画

(1) 基本計画に基づき、早急に事業が推進するよう、関係者等の協議、調整をおこなう。
(2) 公共施設および還元施設等の調査研究をおこなう。
(3) 計画、構想、推進にあたり随時役員会、幹事会を開催し調査、検討をおこなう。
(4) 毛無山麓を含めた広域観光圏を構成し、二次開発地域(3万坪)として確保し計画編入するよう、関係機関へ促進する。
(5) 奥信濃地域開発計画に基づく木島平村、高社山麓線および野沢温泉経由線の開発を促進し、 斑尾高原に接続するよう関係機関に強力に働きかけをおこなう。
(6) 飯山市側よりの取り付け道路(延長10,5km)を県道に昇格していただくよう関係機関に強く要望する