北陸新幹線料金発表

2015年3月14日開業の北陸新幹線の料金が、
10月3日に発表されました。

東京から飯山までの普通車自由席が、8110円
グランクラス 16340円  です。

現行の東京、長野間は 7680円ですので、430円の追加ですんでいます。

また、金沢より飯山は、普通車自由席 6590円、グランクラス17900円です。

北陸方面からのお客様にも便利になりました。

斑尾・・・往復

信越新幹線は、平成26年の開業を迎えるまでには40年を越える月日がかかりました。
斑尾高原が開設してからのことですが・・・

飯山駅から斑尾高原までは約12kmの道のりですが
東京から斑尾高原までの交通は、現在の37年間の間に大きく変わりました。
もちろん、飯山から斑尾の道路も大きく変わっています。

斑尾高原に来て頂いてるお客様の中には、冬のシーズン飯山ー斑尾間で苦い思いをされた経験をおもちの方が少なからずいらっしゃると思います。

それらに懲りずに斑尾高原を訪れていただく中で
ああ、ここのカーブ広くなったんだな~・・・・
勾配が緩やかになったな~  なんて感じていただいてると思います。

前に来たときに、このカーブでスリップしてどうにもならなかったんだよ。
ここが狭くて・・・・側溝に両輪落ちちゃってまいったよ・・・

吹雪がすごくて車が立ち往生で・・・斑尾まで飯山から半日かかったよ・・
朝到着予定のバスが、着いたの夕方の6時だぜ~   などなど。

すこしでも斑尾への交通手段の方法を模索する中で
”78年には、長野電鉄(株)が斑尾ー東京間直行スキーバスが運行

”79年には、国鉄の往復割引切符の対象地に指定され

”81年には、夏季に野尻湖ー斑尾間バスの運行が開始され

”82年第一回ニューポートジャズフェスティバルには、上野駅から長野駅までの、ジャズ列車を運行したんです。

この年に、上越新幹線が開業し
”87には、斑尾ー越後湯沢間のリレーバスの運行も開始

いろいろな手段での交通手段の開拓をしたんです。

高速道路や長野新幹線、多くのトラベルエージェントが企画する直通バス
それらによって斑尾高原は時間的にとっても近くなりました。

飯山に新幹線が停車する、平成26年はどんな風になるんだろう

様々なことを想定し知恵を出し合い、体も動かし斑尾高原が良くなる様に・・・頑張らねば!!。

斑尾高原に、訪れ続けて頂いてるお客様に申し訳が立ちません。
個人的な立場・・?で・・・こんなことを思っています。

斑尾ポスター

斑尾高原ではオープンしてから年2回冬と夏にポスターを製作し掲示していました。

そのポスターにキャッチコピーが入り始めたのは、1977年(昭和52年)の夏からです。

”77 夏  スニーカーの底にアスファルトの熱さを感じたら帰っておいで斑尾。

”77 冬  灰色の街から帰っておいでパステルカラーのスキー場 斑尾。

”78 夏  手作り村からの招待状

”78 冬  パステルカラーの光に揺れて思わずアダモの「雪が降る」を口ずさみたくなった。

”79 夏  あぁ、気分快晴。リゾートの汗。

”79 冬  雪物語 パウダースノーストーリー ひとひらの雪がほほにふれた

などなどである。

「まだらびっと」さん
写真だけど懐かしいポスター見ること出来ます。・・・・おらっちん家で。

それと、”80スキーの本にも航空写真のってますよ。

航空写真・・2

航空写真の記事に懐かしいや知らない、などなどのコメントを頂いたのでここでいろいろ書きたいと思います。

そうです。エースコースと言うのは現在のカービングコースです。
現在のスーパークワッドの乗り場から、ジャイアントコースからエースコースの分かれ目まで第9リフトが架かっていました。
その後、スーパークワッドに変わり・・だから現在第6・第9リフトと言うのがないんです。
そして、幻の第10リフトは土台のみで終わっています。

リフトの歴史は又の機会に・・・・

「かわちゃん」は1977年にはじめて斑尾ですか・・
”75から”77はペンションがいっきに増えた年です。ペンションBN(野田ペンション)は”76年オープン。2年目に訪れて、ひょんなことでひょんなことになったんですね””。

”75年にプラザ街という名称で、トミー・八坊・今井処・ルヴァ・すずき・キャンドルという6軒のレストランがオープンしています。

”77年には、ホテル・プチホテル3軒、ペンション66軒、レストラン・ギフトショップ8件、保養所3軒もあったんです。
聖峰・・ありましたよ!!。 ペンションの名はついていましたが、ある病院の保養所を兼ねていました、その後斑尾高原ホテルの男子寮となり、現在は取り壊されありません。

「なおちゃん」最初に出来たペンションは、スワロー・菊山・アブラヤ・小太郎・バニー・ニューあらや です。 そしてロッジ山峰   なつかしいね。
2年目に、しんざん・アップル・グリーンボア・サンロッジ・スター・藤和なんです。
この年、斑尾に除雪センターが出来、飯山市スキー学校斑尾分校(現スポーツアカデミー)が開校してます。
なおちゃん○ねんせいのときおらっちん家に来てるよね。

第4リフト、現トラバースコースから直接第3Aの降り場のちょっと下まで、第3A・Bが出来てからも数年はあったんですよ。

リフトに関しては、第8・第14・・・幻のリフトにならないように願いたいものです。

”76年・”78年は豪雪で自衛隊が出動したり、災害救助条例の適用が飯山市で始めて行なわれたりしていて
世の中は、カラオケブーム・裏口入学・翔んでる女・およげたいやき君などで

”75年は「山の家」の前のテニスコートがオープン・10月には斑尾高原観光協会が設立されています。
”77年は巨人軍、王選手が756号のホームラン世界記録達成、初めての国民栄誉賞を受賞。文部省が「君が代」を国歌と規定。

またこの地方では、何時のことやら・・・おらの生きてるうちには無理だな~なんて言われながらも”76年8月「北陸新幹線建設促進期成同盟会」が発足されたんです。今飯山の駅周辺は工事の真っ最中、飯山から上越に抜ける22kmのトンネルも開通、6年後の開業にピッチがあがってます。

そうすると東京から斑尾まで3時間半くらい・・・かな~
おらっちも生きてる間になんとか飯山駅から東京さ・・いくだ!!。

そしたら、航空写真集と一緒に1980年の岳人の別冊”80のスキー ペンション特集という本も出てきました。
前回言い忘れましたが、写真集も岳人別冊も、マッサラの状態です。

”80のスキーの表紙はなんと、フランツ・ラウターです。ラウターは斑尾で2年連続でレッスンキャンプをしたんですよ。

”80年といえば、東洋一のゴンドラリフト(スカイキャビン)が野沢温泉スキー場に、斑尾への上り口にあった飯山国際スキー場は、日本初の定員制スキー場、斑尾高原スキー場は第7ペアリフトが新設でパステルカラーのスキー場として、スキーブームが始まってました。

斑尾高原の収容可能ベット数は、約4800人。年間の入り込み客数は32万人だったんです。
ちなみに”72年オープン年の可能収容人数は800人 でも”73年の入り込み人数は8万5千人。

このシリーズも長くなりそうです。

「風林火山」

来年の、NHK大河ドラマが「風林火山」と決まり何かと話題になっていますが・・・
関係する地域では、これらの話題を様々なところで取り上げ、特に観光の面では自治体・観光協会などがそれなりの予算計上をして誘客に役立てようとしています。

おらっちも役目上いろいろな会議に出席していますが、過去の会議の席でこれに関しての話が話題になったことがありました。現在は特に目立った動きにはなっていません。
歴史に夢を馳せるおらっちとしては、何か誘客の商品が・・・と思いつつ武田信玄・上杉謙信が飯山に関係する話題を見つける作業をし始めましたが・・・

まず今回の大河ドラマの「風林火山」は井上靖の小説を原作とするということで、さっそく一晩で読みふけってしまいました。
そして、まいったな~・・・・。奥信濃はひとつも出てこないジャン。
飯山という語句は、十二章の始めのほうに

「海津城の守将高坂昌信に、謙信出馬の情報がはいったのは、八月十四日の夜であった。兵数凡そ一万三千、富倉峠を越えて、飯山にはいり、川中島方面へ向けて進撃中という報せであった。」

という文章のなかに、一箇所あるだけです。

上杉謙信個人としても小説の中に細かく人物像が書かれてるわけでもありません。
斑尾高原・飯山市・妙高市この周辺、どんな所に関係付けて観光に役立てるか・・・・どうしましょう。

原作は・・・原作。 脚本家がどんなふうに台本を造るかが重要。
脚本担当の、大森 寿美男 さんは若手の脚本家です。

そこで斑尾山です。
武田・上杉双方の北信地方の攻防戦は飯山城をはじめ、上倉・奈良澤・沓津・替佐・壁田・野尻・関山の各城で行なわれました。
これらは、城が築かれた山と同様に歴史に残されていますが斑尾山は歴史上に出てきません。
関田峠や富倉峠は上杉の軍用道として有名ですが、万坂峠や樽本越はいっさい歴史上に表れていません。樽本集落には上杉の軍勢が通り抜けた記録があるように、少なからず関田を越える峠は利用されていたに違いありません。
相手方に気づかれず、川中島に行くためには樽本越・万坂峠は重要です。

ましてや斑尾山は、頂上からの眺望は北に上杉謙信の春日山までを見渡せ、南には千曲川の流れと遠く海津城(松代方面)まで見渡せる絶好の山です。
敵の動きを知る為には、これよりほか最高の物見山はありません、なぜこの山の頂上からそれぞれの軍は事あるときに通信手段の狼煙を上げなかったんでしょう。
おらっちの推測だけど、きっと密かに斑尾山の攻防があったんではないか・・・と思うんです。

長野高専教授の小林計一郎氏の「奥信濃の戦国」は、栄村箕作の常慶院の住職の語り風に書かれた文章ですが、1553年の頃のことが興味深く書かれています。
その中に、マタギの姿で秋山周りで武田の使者が来た、その人は山本勘助と名のりましたとあります。

もしも山本勘助が秋山周りで、密かに飯山を偵察し、武田山城替佐城からの斑尾山を経由し様々な策を講じていたと考えると・・・・

脚本家の大森さんにお手紙でも出したくなりますね・・・。

原作に沿ったものになるのなら、やはり山本勘助と由布姫中心(山梨甲府と諏訪)になってしまうんでしょうか。

ちなみに、栄村箕作の常慶院の山門(幕末の嘉永3年(1850)に上棟、同7年に完成、総けやき入母屋造りの三間楼門。特色は彫刻など過飾的な建物で、柱は全て2階まで通し柱になっていること。日光東照宮の陽明門を模して作られ、新潟県の大工棟梁菊池茂助のほか腕利きの配下28人衆によって建築されたと棟札に残されている)は見事なものです。(前にブログに書きましたが<寺瀬のルーツ>)山門の前に仁王門がありますが、中の仁王像、これは,おらっち寺瀬の祖先13代目半六・14代目善助の合作であり、愛宕町から荷車で2日間をかけての搬送であったといいます。

何かおもしろい話、あったら教えてください。・・・・・・よろしくです。