高原の茶室「無心庵」

今日の、斑尾高原は朝から雨降りです。
あちこちで、さくらの状況が伝えられますが、雨が雪に変わったりする斑尾高原では桜の話題はいつになるんでしょうか。

この分では、桜・ミズバショウ・リュウキンカ・タムシバ・などみ~んな一緒の花見時になるのかも・・・・。  そして、残雪も。
この地方の開花予想は、一週間から十日くらいずれるかも。
飯山市の「菜の花祭り」の会場は5月3日のオープンに合わせ、地元の人たちは雪消しに精を出しています。

この春から、我が家では茶室にてお抹茶を楽しんでいただこうと思ってます。
そうなんです、我が家にはお茶室があるんです。
高原のお茶室は、「無心庵」・・・むしんあんと名付けられています。

1973年、ペンションの一角に創設されました。当時親しくお付き合いをさせて頂いておりました飯山市にある「正受庵」という寺の第十一世住職 酒井盤山和尚が「初心に戻り、無からすべてを考える処」を意味し、「無心庵」という名を下さいました。

「正受庵」は臨済宗の宗派に属し、禅宗のお寺です。
禅宗の中には臨済宗・曹洞宗・黄燐宗の三つの宗派がありますが、この寺は臨済宗のメッカだと言われていて、臨済宗では貴重な寺院とされています。
日本の臨済禅を雪国・飯山でただ一人で担っていたのが、道鏡恵端禅師・通称正受老人と呼ばれた和尚であり、この和尚の禅室が正受庵と呼ばれたのであります。

高原の緑の中で、小鳥のさえずりを聞きながら
お手前など気にせず、心にも休息の時を「無心庵」で過ごしませんか。

山野に咲き乱れる花達の季節は・・・・・もうそこ。

小説「破戒」出版から100年

複雑な世の中になっている現在、様々な面において変わりつつあるがまだまだいろいろな所で偏見や陰湿な差別、いじめはこの社会に潜在しています。

明治の奥信濃、飯山を舞台とし秋から初冬にかけての一ヶ月を瀬川丑松を主人公に偏見と差別を題材に書かれた小説「破戒」があります。

「破戒」の作者は島崎藤村であります。
「破戒」は1906(明治39年)3月25日に出版されました。
島崎藤村が34歳の誕生日に自費出版されています。

ですから、今年は出版からちょうど100年になるんです。

出版の反響は大きく、初版第一版はすぐに売り切れて、夏目漱石や島村抱月も絶賛し外国の自然主義文学に並ぶ文学と評価されています。
しかし、その内容の様々な論議から藤村は1929年7月新潮社からの「破戒」を絶版にしたり、10年後の1939年2月には再版の声に応え、藤村は二百数十ケ所の言い換えや削除をして改訂版の「破戒」を再出版をしています。
1953年に刊行された「現代日本文学全集」に収録の「破戒」は初版本が復元されています。

毎日の新聞やニュース等で人間社会がつくりだす葛藤や矛盾等の問題が取り上げられ事件化しているのを見るたびに、
経済や科学が日々進歩していても人間が持つ本来の感情や性格の成長には時間が掛かるしいろいろな交わりが必要なんだと・・・・

島崎藤村の 小説「破戒」出版100年目に思いにふけりました。

飯山市にある真宗寺(浄土真宗本願寺派)という寺は、小説「破戒」の蓮華寺のモデルなんです。

「蓮華寺では下宿を兼ねた。瀬川丑松が・・・・寺は信州下水内郡飯山町二十何ヶ寺の一つ・・・」

寺を訪ねると、島崎藤村の「破戒」の第一章を刻んだ文学碑があります。
藤村は、この飯山を”小京都”と呼び、明治36年頃、たびたび飯山を訪れたとい言います。このことは「千曲川スケッチ」に見ることが出来ます。

もう直ぐ真宗寺前の通りの桜並木も花が咲き始めます。

ご苦労様とちょっと売り込み・・・?

2日のスキー大会が終了と同時に、斑尾高原スノーリゾートを盛り上げてくれた仲間が、それぞれの中で、お疲れ会を兼ねた納会が開かれます。

RESTAURANT&BAR ”JAZZY” でも斑尾スポーツアカデミーの納会がありました。ご利用頂きありがとうございます。

2日は、6時30分からのパーティーに間に合わせるべくスキー大会の表彰式を早々に途中退席を役員各位にお許しを願い、
我が家に駆け戻り、表彰状をお渡しした手に包丁を握り締め、を脇に仕込みを
斑尾高原に寝泊りしたり、飯山地域から雪の中を通いながら斑尾の一員としてお客様を迎えてくれたスタッフに感謝を込めての
メニュー・・・・を。

30人の大パーティー 時間は迫るし ・・・おらっち手おそいし・・・・

それでも時間には、数種類の料理が大皿に40皿     ・・・準備
本日のパーティーメニュー
焼きそば4kg ・酢豚 ・JAZZYの餃子 ・皮付きフライドポテトとソーセージ ・フライドチキン ・山菜のちらし寿司(一升五合) ・6種のくだもののフルーツポンチ ・厚揚げ、こんにゃく、れんこんの煮物 ・自家製じゃがいものポテトサラダ ・郷土料理のいもなます ・まぐろとたこのカルパッチョ ・かつおのたたき ・かきフライ ・お酒の飲めない人用チョコレートケーキ
飲み物
ビール ・日本酒 ・芋焼酎(霧島黒麹) ・フルーツ酎ハイ ・ソフトドリンク(コーラ・ウーロン茶・オレンジジュース・グレープフルーツジュース・ミックスフルーツジュース)
などで、日付が変わるまで大盛あがり
これからの抱負を語り、シーズン中の反省を語り、感極まり涙流したり、ゲロを我慢し訳のわからん話したり、
良く飲み、食べていただき・・・感謝、感謝
ちなみにビールは33リットルほど飲みました。
おらっち最後のほうは、フルーツポンチにボルドーのバンドペイ赤ワイン注いで、フルーツワイン。
うす甘いフルーツとの相性・・・・・ちょっと邪道かもしれんけど・・・・結構いけるし・・・うまかった。

一人暮らしの人、おかあちゃんが留守の人、待ってる家族がいる人、ちょっと夜食が必要な人、明日の朝食にする人、其々の残っ
たもの詰めてオミヤできれいにかたつけてもらいました。

斑尾にはこうしたサポーターがいて成り立つ部分がイ~パイあるんだよね。
スノーシーズンのキッズに対する展開は、この斑尾スポーツアカデミーが長年積み重ねてきたものがお客様に評価され、斑尾にファミリーが多く訪れていただけるんですよ。お客様は安心して、信頼してレッスンに預けられる、任せられるこうした努力一つ一つが斑尾高原を支えるんだと思いま~す。

今日はシーズン中、訪れるお客様の食をお世話した人たちの昼食会がありました。いつもとは逆に食事を用意されサービスを受ける、ちょっとうれしい時間の様な気がします。
やっぱり、上げ膳、下げ膳ゆっくり出来るのが だよね。
いつも職場でのランチと違ったメニューで

ご苦労様の気持ちを添えてのランチ
サーモン・えび・ホタテのカルパッチョ
キングサーモンのマヨネーズ焼き ふきのとうのから揚げとポテトサラダ添え
田舎の煮物 (レンコン・厚揚げ・さやえんどう)
ビーフシチュー
3種のお漬物
お替り自由ライス
コーヒー       でした。
宣伝ですが、このランチ2000円です。

まだあとかた付けの仕事がちょっと残ってるとの事でアルコールはおあずけ・・・・

みんな、みんなご苦労様でした。
また、明日から斑尾高原のイメージ造りにご協力お願いしま~す。

レストラン”JAZZY”のメニュ~紹介みたいで
恐縮です。

のんびり・・くっちゃべりに・・・・おでかけください       ませ。

2005~2006スノーシーズン終了

4月2日をもってスノーシーズンが終了してしまいました。
今年のシーズンの印象は、ただただ雪が多く、よく雪かきだけはしたなァ~・・・です。

毎年シーズン最後に行なわれているスキー大会も天候面に心配はありましたが無事終了。
1日の「デュアルレース イン 斑尾」には95人
2日の「斑尾高原リーゼンスラローム大会」は148人の参加申し込み、選手の皆さん本当にありがとうございました。

3月29・30には30cmほどの積雪があり気温もすこし低めで、デュアルレースは4月の大会としては、とっても良い条件の中で出来たんですが、
その夜からは、雨と風・・・
夜中にはそれもひどくなり、心配のあまりときどき目がさめる・・・
朝、案の定雨はさほどでもないが風が強く、リフトの運行が心配。
南風が強く、スーパークワッドは運行不可。第二クワッド・第三B線にてトラバースコースを逆上しスタート地点へのルート。
選手も大会役員も移動に大変なことになっちゃいました。

レースのスタート時には、時折強風はあるものの雨も止み、時折日差しも射すようになり、怪我等のトラブルもなく2日間の大会が無事終了。
しかし、競技終了と同時に雨が激しくなり、大会役員全員撤収作業でびしょ濡れ、
あと1時間天候ががまんしてくれれば・・・・・

出場選手のみなさん・大会役員の皆さんご苦労様、そしてありがとうございました。

この大会は歴史も古く、第一回は昭和52年(1977)4月2日に行なわれ、昭和58年(1983)までは、初日に「斑尾高原リーゼンスラローム大会」
2日目は、お客様への感謝を込めた「ファミリーカーニバル」というイベントを開催しシーズンを終了していたんです。
「ファミリー・カーニバル」の第一回は、斑尾高原が開設されたシーズンの終了時、昭和48年(1973)3月24日にさかのぼり、10年間行なわれ、宝さがし・ペンション対抗の仮装大会・など様々なゲームなどが企画されていました。
また、昭和57年(1982)は雪不足のために、スキー大会が中止になったこともありました。

斑尾高原はスノーリゾートとして、様々な情報発信をしていくことが大切であり
いろいろな大会などイベントを開催したい。   なァ~と思います。

斑尾高原保育園 閉園

昨日、22年間斑尾高原のほとんどの子供たちが通った保育園が閉園となってしまいました。

斑尾高原の保育園の歴史は、昭和49年(1974)にさかのぼります。
飯山市堂平分校が飯山小学校と合併され、その分校を利用し堂平保育園として開園されています。
しかし、冬季に堂平までの通園は、子供を持つ各自での送迎が問題でした。
そこで、昭和49年に建築された、斑尾高原保険休養地管理棟の2階を冬季のみの保育園として借用し継続されました。

昭和59年(1984)関係機関のご理解により、待望の「妙高村(現 妙高市)斑尾高原保育所」、平成2年からは「斑尾高原保育園」として通年の開園が実現されたのです。
開園時には、年長6人 年中8人 年少3人 それ以下13人 合計30人の入園があり、その内14人は飯山地区からの委託を受けていました。

斑尾高原保育園として、本日までの卒園児は101名にのぼります。

多くの人々に支えられて歴史を刻んで来たわけですが、斑尾高原地区も少子高齢化が世間並に進んでいるということなんでしょうか・・・。

斑尾高原の歴史を刻んだものが無くなることは寂しいものです。
卒園した子供達や関係した人々が、数々の思い出を語り継ぐことが、これからの歴史を刻むことになるんだと思います。

斑尾高原保育園の本年度は、妙高市側で2名、飯山市側で11名 計13名です。
4月からは飯山市に委託し、子供達は飯山の街まで通うことになります。

式の最後に園児皆で唄った「斑尾高原保育園の園歌」「おもいでのアルバム」には、胸に迫るものがありました。

ありがとう、関係の皆様・子供達を見守った保育士の方々・・・・・
頑張れ、卒園した子供達・・・・