マウンテンバイク・ピクニック

今日、朝起きたときから肩のヘンがやけに筋肉痛
なんでか・・・?   そんなに肩に力入れて、変な寝ぞうしてたかナ~。

人に追われる夢も見てね~し。
あッ・・・・あれだ!

22日、友人グループがやってるスポーツクラブ「アクティブ4」の手伝いが原因、斑尾から飯山の町までの・・・チャリンコ
じゃかわいそうだな・・・

標高差700m距離10kmを下る、マウンテンバイク
ッて言わなきゃ・・・・ね!

チャリの担当は、ビッグ・マウス・バンドの強力メンバー4人ってもんだ。
シーズン最初のお客様は、中学生36人
シーズンはじめとは思えない・・・チャリのリーダーのセーフティートーク

毎度のことだけど・・なめらかだよな~    滑らかなのは良いけど・・
オイ・オイオイ・・・時間押してるぜェ~
20分で飯山までかい・・・?

チャリの楽しみは・・・・お昼ごはん!。
忙しい時間内での「アクティブ4」のお仕事、当然楽しみはじゃんけんで争う、ローソンまたはセブンイレブンのお弁当かおにぎり。

たまたま、チャリのゴール地点には、それもまん前に、江戸前の蕎麦屋さんがあるんだな~。
チャリの担当者にとっては憧れのお昼ご飯場所なのである。
天丼にお蕎麦がついてる定食、これが食べれるんだったら・・・・
いつもなら、いきなりビール下さいッ・・てとこだけど。

最初のチャリ、ぶっつけ本番 張り切って昼ごはんの時間調整・・ばっちり

じゃ・・・ローソンか
おらっち4人の間では、暗黙のうちにこの蕎麦屋さんを、ローソンと思い込んでいます。
どこで、今日お昼たべたの・・?と聞かれても、4人は決まってローソンの弁当ッて答えます。
ローソンのお弁当は、ついついゆっくりしていまい、時計を見たら・・・びっくり
午後のチャリに間に合うか?   時計が進んでるわけじゃ・・ね~な。
案の定、スタート地点では次の中学生、先に上げたチャリに、もうさわってたりしてます。
リーダーおもむろにセーフティートーク、おらっち汗かきチャリの準備
ヤバッ
チャリが・・・・た・り・な・い  
神様ッているんだよな~。
身長が低い子が、子供用のチャリにピッタンコ   ようやくおらっちガイドの分のチャリ   間に合いました。
しかし   ブレーキ・ギア・不安のチャリ3台
行くっきゃ  ないです。・・・・・おらっちプロですから・・・

というわけで、またまた時間は押してます。
でも、今度は到着時間、予定より1分前でした。

ということは、途中何してたんだ? 走りっぱなしか・・・・

でも、おらっちたちは、お昼ごはんは   ぜったいローソンだったし
子供達には、喜んで頂きました。

嘘はついていません。

寺瀬のルーツ

昭和45年(1970)に発行された「信濃の街道」という本があります。
須坂市出身、吉原澄悦(よしはら すみよし)という人の著書で長野県を通る街道を1年間かけ自ら歩きながら、街道が持つ歴史を振りかえりながら、その風景を切り絵にしまとめた本であります。
切り絵の数は、54にもおよびます。
街道は、中仙道・甲州街道・北国街道・善光寺西街道・三州街道となっており
中仙道は、碓氷峠から塩尻峠を越え木曽路まで
甲州街道は、蔦木宿(富士見町)から佐久街道の野辺山原
北国街道は、海野宿から松代、須坂、善光寺(長野市)、柏原(信濃町)      谷街道(飯山)から越後へ
などが描かれています。

その中の、谷街道・飯山の文章の中に飯山のことを、お寺さんの多い町・仏壇屋さんの町・綱切橋のヨシズ・雪国特有の雁木などが紹介され、

昔、戦国の世に、寺瀬某なる男が武田軍の従って飯山に来たが、戦争の悲惨さにいや気がさして、明昌寺裏の栗畑に隠れ、のち愛宕町に住みつき、彫刻や絵をものしていた。その子孫が正受老人(近世臨済禅の中興の祖といわれる白隠を導いた人)のすすめによって、京都からひな形を取り寄せ、仏壇を作り始めたという話を私は聞いた。これが飯山の仏壇作り発祥の一説であるが・・・

という文章があります。

この寺瀬なにがしが、おらっちの家の先祖であります。
甲斐の国、寺瀬の里の出身といわれ、寺瀬の屋号は「甲府屋」です。
歴史をたどると、寺瀬なにがしは、寺瀬重高とあります。飯山に来た年はハッキリしませんが、1684年の正月に没となっています。
正受老人(1642~1722)の勧めを受け、仏壇を始めたのは3代目の吉太郎と思われます。
戦国の世に正受庵は荒廃しましたが、それを再興したのが山岡鉄舟(1836~1888)です。年代は解りませんが正受庵との関わりから、山岡鉄舟が寺瀬の家に宿泊し、その礼として残したという書が残っています。

江戸終期から明治・大正にかけては、祖は彫刻にて名を馳せていたようで、栄村箕作(さかえむらみつくり)にある常慶院という寺の山門前の仁王像は、祖の作で荷車にて2日かけ運んだと伝えられています。
この寺の山門は見事なもので、北陸の陽明門とまでいわれるほどで、NHKの「行く年来る年」の中継にも使われたほどです。

次の大河ドラマの主人公「山本勘助」も武田の間者としてこの寺に宿泊したという話もあります。弘治3年(1558)6月の末のことです。

寺瀬の家は、おらっちの息子で19代目になり、380年ほどの家系になります。
寺瀬の姓は少なく、全国でも75前後の世帯数のようです。

寺瀬という姓の人、何かでこのグログ読んだら連絡ください。
どこかでツナガリあるかも・・・・・

花と歴史の沼の原

今日の、信濃毎日新聞の北信版に沼の原湿原のミズバショウが紹介されています。
湿原中央の川べりを、事務局の佐藤君が歩いてる写真です。

沼の原湿原はほぼ300年をかけて出来た湿原です。
ミズバショウが盛んに咲き誇っている場所は、水田の跡と思われます。
そうなんです、昔あの場所には人が住んでいたんです。

残っている記録には、享保年間(1716~1735)江戸時代の中頃で将軍吉宗の時代には、宿場町「萩原宿」として75戸を数えたとあります。
1戸に3~4人として300人近い人たちが暮らしていたことになります。

いつ頃から「奥沼部落」とも呼ばれる「萩原宿」の歴史ははじまったんでしょうか。
どうも、様々な歴史と言伝えなどをつなぎ合わせると平安時代にさかのぼる。
斑尾山から北に延びる関田山脈には多くの17の峠道があるが、奥沼部落は峠道の重要な位置にある。17の峠道の内、一番南に位置する「万坂峠」からは、斑尾山の北斜面を抜け八坊塚・分道・堂平・飯山の「飯山・田口街道」
奥沼部落の西(現西トレイル)を抜け沼の池(希望湖)・大川・藤ノ木の街道。
樽本から沼の池(沼部落)・奥沼部落の東の川沿い(現、東トレイル)・分道と抜ける「樽本越え」ここは唯一峠がついてません。ここを入れて17の峠道です。

街道が交わる場所には、人が集まるのと同時に周辺に人が住み始め、そして厳しい自然と山岳宗教等の影響から、八坊主・八坊塚の地名にあるように多くの寺院が古くから建てられるようになったと思われます。
奥沼部落には、弘法大師(後の空海774~835)の弟子、慶順(1486~1592)が開山したという伝えがあり、親鸞(1173~1262)も越後から関東への布教に行く時、親鸞の10世の孫、蓮如(1415~1499)も親鸞の布教の道を訪ね、1468年頃、「樽本越え」を通ったとされている。

越後側にも寺院があったといいます。
上樽本でも、集落の中央を流れる土路川の東側の地域の土中からは、寺院の物と思われる廃材や五輪塔の一部と思われる石がいまだに出るといいます。
おそらく、上樽本より上部の場所に寺院があり大きな土砂崩壊によって埋まったものと考えられます。

沼の原湿原は、貴重な自然環境の場所であると同時に、様々な歴史を持った
ロマンあふれる場所でもあります。

とっても「え~・列車」

ビッグ・マウス・ジャズオーケストラ
おらっち仲間 の幻のバンドだ。

テーマ曲は「Take The “A”Train」 A列車で行こう でいこうぜ! で決まりそう。・・・・・・とりあえず。

どんなスタイルがいいのかいろんな”Aトレイン” 聞いた中で
汽車が動き出す音を模写したユニークなアレンジのハードバップ演奏 クリフォード・ブラウンの「スタディー・イン・ブラウン」の中の”Aトレイン”みたいのがビッグ・マウスにはいいな。

メンバーがユニークなんでユニークがいい!。

来月6月26日は、クリフォード・ブラウンが交通事故によって25歳の若さでこの世から去ってしまった日なんだ。1956年のことだけど。
もう、50年も経ってしまった。
もし、事故に遇わなかったら今年で75歳。
おらっちたちは、彼のジャズをいっぱい、いっぱい聞くことができたし、今どんなトランペットを聴かしてくれるんだろう。

ディジー・ガレスピーのオーケストラで、この日の夜ハーレムのアポロ劇場に出演してたベニー・ゴルソンは1957年に「アイ・リメンバー・クリフォード」を発表している。これは、そのときメンバーとして一緒居たリー・モーガンにクリフォードの後継者として演奏させようと曲を書いたのだ。

「リー・モーガンVOL3」の中の「アイ・リメンバー・クリフォード」は19歳のモーガンにブラウンの魂が乗り移ったかのようなレコーディングだったといいます。

訃報を聞いたときショックでオーケストラはステージを続行できなかったらしい、まだ18歳のリー・モーガンは舞台の上で泣き崩れたと伝えられてます。

「Aトレイン」はマンハッタンの南北を結ぶ8番街線の通称でニューヨークの地下鉄です。歌詞の内容からダウンタウンからハーレムにこの電車は向かっていて、ハーレムでもシュガー・ヒルというところは裕福な黒人が住む住宅街だったらしい。デューク・エリントンもここの155丁目に住んでいたくらいで「シュガー」という言葉に「おいしい」とか「お金持ち」という意味も含まれていて、彼らが住みたいと思う住宅地であったんだろう。

だからそこに行こう、Aトレインで・・・・・ということだろう。

ハーレムのシュガー・ヒルへ行きたけりゃ、A列車に乗りな。それが一番の近道さ、揺られてるうちに、直ぐつくさ。っていう内容。

もう一つ
アメリカに奴隷制度がのこっていた頃、南部の脱走奴隷を北部に逃がす組織があったといいます。それを運んだ列車を「Aトレイン」と暗号名のように呼んでいて、A列車にのって黒人の憧れの地に行こうというメッセージが込められているというのも間違いではないらしい。

オープニングには「A・トレイン」をやりて~。
憧れの舞台に「え~・トライ」して 立つぞォ!
それには先ず、カスタネットからトランペット、トライアングルからサックスにきり変えるのと、楽器の出来るメンバー探さなくちゃ・・・・・

憧れに近づく「え~・列車」どこかに走ってませんか~。
それも、新幹線並に早く目的地に着くやつ・・・・を。

斑尾高原のさくら

ついこの間、2日ほどやけに暖かいというよりは暑いと思うほどの日があったかと思うと、今日なんかは寒いよね・・・。

時々、雨なんかが降ったり、風は南風なんだけど冷たいし

今朝は、5時半に起きて、6時からトレイルの下見に行きました。
雨の中、ビッグ・マウス・バンドのメンバー2人と3人です。
明日の、「妙高エコ・トレッキング・イン斑尾」に参加されるお客様に斑尾の魅力を充分に味わっていただこうと思い、そのルート探しなんです。・・・・残雪の除雪もしながら。

9時には、実行委員会のメンバーとルートの改良作業。 雪の為に折れてしまった橋の架け替え、残雪の多いいところの除雪・・・等々です
13時には、このイベントに大阪吹田市から50人のお客様が到着されるので
そのお出迎え・・・・そこでご挨拶

なんか・・・1日がやけに長いです。

湿原もこのルートもいたるところミズバショウだらけ。
おおいわかがみにも花芽が付いてました。オオヤマザクラも咲いてるし
水溜りにはカエルの卵もあるし、春を充分感じるルートです。

さくらといえば、斑尾高原ホテル前のテニスコート入口に
2本の桜が、今見ごろだよね。
あの桜、斑尾高原開発20周年の記念植樹で植えられたものって、・・・しってた?
平成3年8月1日 10時30分に記念植樹
15時から「芙蓉の間」で記念式典
16時からは、ジャズ・フェスティバルの10周年とジャズ・フェスティバル91”のウェルカムパーティーを兼ねた祝賀会が、ホテル・モンエール横にあった「イベントハウス」で行なわれたんだよ。

「イベントハウス」ってのは、ジャズ・フェスの夜のジャムセッションの為に造ったテントハウスだったんです。

桜は、3本植えられたんだけど雪の影響を受け、1本だけが育ちが悪く今年の春に根元から折れてしまいました。
3本は、飯山市、信濃町、旧妙高村の協力を得て開発されたので、市、町、村に対し感謝の気持ちを表す桜ということで3本植えたんです。

15年も経つと立派な木になるし、毎年良い花咲いてくれるよね。

桜の木の下に、唱歌「ふるさと」の詩が刻まれた石碑があるけど
あれは、斑尾高原開発10周年の記念碑なんだよ。
山の家の前の3本のオオヤマザクラは、斑尾高原開発30周年記念植樹なんです。
花芽がふくらみ始めました、他の桜が終わった頃
咲いてくれると思います。    結構、目立ちたがり屋かも・・・・。

植えた奴が・・・・奴だけに・・・?。