豊葦の地名由来・・・あるじのガイド

豊葦という地の由来を探し、さかのぼると、舎人親王(とねりしんのう676~735年 天武天皇の皇子)がまとめた「日本書紀」(720年)や、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ 7~8世紀頃生没年不詳)によませた天皇家の歴史や神話を、奈良時代になって元明天皇の命令で、太安万侶(おおのやすまろ ?~723年)がまとめた現存する最古の歴史書「古事記」(712年)全3巻の内、上巻の神代の物語、日本神話から始まります。

宇宙ができはじめたころ、天上の高天原(たかまがはら)には様々な神が現れ、瞬時に姿を消していき、これらの神は単身で現れたが、やがて男女対になった神々が次々に出現し、最後に伊邪那岐命(いざなきのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の男女2神が現れたのです。
伊邪那岐命と伊邪那美命は、天津神(あまつかみ・高天原に生まれた神々)からさずかった天沼矛(あめのぬぼこ)を雲の上の天浮橋からさしおろして、海の水をかき混ぜた。引き上げた矛の先からしたたり落ちた子塩が固まり、オノゴロジマ(於能碁呂島)が出来ました。二人はこの島におり、男神の体の余分な部分と女神の体の不足している部分を合わせ、日本列島の形をなす大小8つの島が生まれたとされています。
天浮橋=(あめのうきはし)天に浮く橋であり高天原と葦原中国を繋ぐ空間的な接地であると考えられ、空にかかる「虹」の様なものとイメージされる。
天沼矛=(あめのぬぼこ) イザナギが海へと突き刺した矛。そこからオノゴロジマが生まれた。それは、性行為を暗示しているとも言われている。互いの体の余分なところ、不足しているところを合わせる部分も同様である。

国生みが済むと、様々な神を次々と生んでいき最後にヒノカグツチノカミを
生む時、イザナミは火傷を負い死んでしまいます。イザナギは、地底の「黄泉
国」(よみのくに=正しくは「よもつくに」と読む。日本神話の死の国でありイザナミ
が支配している。暗く邪霊などが住み「黄泉平坂」=よもつひらさか・で現世と分けら
れています。坂すなわち境でありイザナギにより道を塞がれ自由に行き来できなくなっ
たこの境を護るのが道祖神であるとも言われている)にイザナミを訪ねるが、その
醜さに逃げ出し黄泉国と現世の境、黄泉平坂を大岩で塞いでしまいます。イザ
ナギは身を清める為の禊(みそぎ)をすると、捨てた杖や衣服から次々と神々
が生まれ、最後に左目を洗うと、高天原を治める「天照大神」(あまてらすおお
みかみ)、右目を洗うと、夜の国を治める「月読命」(つきよみのみこと)、鼻を
洗うと、海原を治める「須佐之男命」(すさのおのみこと)が生まれました。
しかし、長女の「天照大神」は、2人の弟の狼藉(ろうぜき)や傍若無人さ
を怒り、事を起こしています。

「月読命」(ツキヨミノミコト)は、食物を管理する「保食」(ウケモチ)と
いう神を殺害する悪神として表されています。天照大神は弟の月読命の行為に
激怒し勘当してしまいます。以後太陽と月は昼と夜に分かれて住む様になった
と言う「日月離反」の発祥であります。殺害されたウケモチの体からは多くの
穀物が生まれ、それらは、アマテラスによって人間にもたらされています。そ
のためツキヨミは悪神とされながら人間に食をもたらした恩人でもあります。

「須佐之男命」(スサノオノミコト)の狼藉に怒ったアマテラスは天上の岩窟
天の岩屋戸に引きこもり「天の岩屋戸」事件となる。

この事件が収拾すると、スサノオはヒゲを切られ、爪を抜かれて天上を追放
され出雲(島根県)の国、肥河(ひのかわ)の上流、鳥髪(とりかみ)に降り
大蛇ヤマタノオロチの生贄にされそうになっていた「奇稲田姫」(クシナダヒメ)
を助け、ヤマタノオロチを退治することになります。その後、二人は一緒にな
り、須賀(島根県大原郡)に宮を造り平穏にくらします。スサノオの活躍は、
天界、地上界、冥界と広域にわたる。亡き母を恋い求めてやまない幼児性と傍
若無人な振る舞い、怪力と巧妙な知恵が混じり荒々しい姿を創り上げています。
日本武尊(やまとたけるのみこと)と共に、日本神話の代表的な英雄でありま
す。
スサノオの六代目の子孫に「大国主神」(おおくにぬしのかみ)がいるが、出雲
大社の祭神であります。

オオクニヌシ(大国主)は出雲に行く前、兄のヤソガミ(八十神)に連れ添
い因幡(いなば)国(鳥取県)にて、兄たちにいじめられたイナバのシロウサ
ギを救います。ウサギの予言に嫉妬した兄たちに、オオクニヌシは何度も殺さ
れかけ、祖先のスサノオがいる堅洲国(かたすくに)に逃げ、スサノオの娘ス
セリビメノミコト(須勢理毘売命)と出会いむすばれます。2人はスサノオか
ら授かった支配者の象徴となる太刀と弓を持って地上界に戻り、悪い兄弟たち
を追い払い出雲国を治めることになります。

しかし、高天原を統治するアマテラスオオミカミ(天照大神)は、下界も自
分の子供が治めるべきと考え、雷と剣の神タケミカヅチノカミ(建御雷神)と
船の神アメノトリフネノカミ(天鳥船神)を派遣し、オオクニヌシの息子のタ
ケミナカタノカミ(建御名方神)との力比べの勝ち、オオクニヌシノ一族は地
上の国を譲ることになります。この国譲りは、皇室が祖先神とあがめる天照大
神への出雲国の服従を意味しており、大和朝廷と地方豪族との関係を反映して
いると思われます。

大国主命(おおくにぬしのみこと)や須佐之男命(すさのおのみこと)等の
神々が高天原から降臨した出雲国の様な地、高天原と黄泉の国の間にある人間
が住む世界を「葦原中国」といい、四方を高い葦で囲まれた世界であると考え
られていて、高天原に対し豊葦原とされています。

高天原と豊葦原の関係

高天原には3つのイメージがあり、
第一は、天上界と地上界という抽象的区分での天上界という意味での「高天原」
で、対する地上界が「豊葦原の水穂の国」で、日本列島全体を意味する
第二は、高天原は、宇佐、中津地方を中心とする邪馬台国そのものである。
第三は、高天原が、卑弥呼を盟主とする九州北部から西中国にかけての九州王
朝(倭国)である。これと葦原中国と対比する場合が多く、この葦原中国
とは、出雲を中心として勢力があった出雲王朝を意味している。

葦原中国も、
第一、天上界(高天原)に対する地上界としての日本列島全体。
第二、出雲神話における、出雲を中心とする中国地方。
第三、三世紀邪馬台国時代における、中津、宇佐地方を中心とする豊の国を天下の中心とする北部九州

この様に、神々が降臨する地、日本列島を別の呼び方で、「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらみずほのくに)とか「蓬莱」(ほうらい)ともある。

天照大神が、他の神に降臨を命ずる場合、
「豊葦原之千秋長五百秋之水穂(とよあしはらのちあきのながいほあきのみずほの)国」、千秋長五百秋は千年も五百年もで、いつまでもという意味、水穂は瑞々しい稲穂。 豊葦原という長く久しく稲穂の実る国に行くこと。と命じている。

越後の南、周りを山で囲まれ人目につかない土地に入植した先人達が、これから住む場所の地名を考える時、神を尊び敬い、神の近くに居たいと思うのは当然のことで、自然条件の厳しい所ではなおのことである。皇室の歴史や神々の神話をまとめた「古事記」が編さんされ約300年を経過した中で、これらに通じた先人、または「天の岩屋戸」にまつわる戸隠の修験者によって伝えられた、歴史、神話の中より一族の住む場所を「豊葦」と位置づけ呼ぶようになったものと考えられます。

これらから、豊葦村は、伝説、口碑にあるように約1000年前(平安時代中頃)に始まっていると考えられ、樽本村が呼ばれるようになるのは、春日山代を守るため、謙信、景勝時代の天正12年(1584年)の書状に、「信州口や春日山城大手口の砦を厳重に警戒するよう」と命じている。しかし、天文22年(1553年)には川中島の戦いの為に豊葦村・樽本を抜ける街道が戦略目的路と利用されています。この時代に豊葦村に、山沿いにある信州口の砦として城が出来、謙信の家臣「樽本 弾正」(たるもとだんじょう)が城主となり城の周りを位置付ける為に、上・中・下と分けこの地を自分の性をとり樽本と呼び始めたのではないか。城主「樽本弾正」であるが、弾正とは本来、人名ではなく律令制度の役職の位で、正五位と言うのが弾正である。つまり上から五番目ということで「弾正大弼」(だんじょうだいひつ・正五位の上)と「弾正小弼」(だんじょうしょうひつ・正五位の下)という使われ方をしている。城主・樽本は、謙信の五番目くらいの家臣であったと推察できます。

斑尾高原とリュードルフィア線(Luehdolfia Line)・・・あるじのガイド

リュードルフィアとは、ギフチョウ属の学名です。

ギフチョウは明治16年、岐阜県益田郡金山町祖師野にて、名和昆虫博物館(岐阜市)の初代館長「名和 靖」氏によって発見された。岐阜県にちなみギフチョウ(岐阜蝶)と名付けられました。

220余りの種類が棲んでいる日本の蝶の中でも、ギフチョウはゼフィルスと並んで最も人気のある蝶であります。

(ゼフィルス=本州では6月から7月にかけて年に一度のみ出現し、卵で越冬するシジミチョウの1群の25種(日本国内では)を蝶の愛好家はゼフィルスまたは略してゼフと呼んでいる。年に一度しか会えないこと、緑色にメタリックに輝く種類が多いことから人気がある。また、高い所にととまる種類が多いため目にする事が少ない。)

ギフチョウ属の蝶は早春まだ残雪が残っている頃、人里近くの雑木林から飛び出す小型で可憐な美しいアゲハチョウ科の蝶であり、そのために春の女神とも呼ばれています。

ギフチョウ属で日本に生息するギフチョウは、ギフチョウとヒメギフチョウの二種で、この二種が日本列島のほぼ中央で住み分け、西日本にギフチョウ、(Luehdorfia japonica)東日本にヒメギフチョウ(Luehdorfia puziloi)が分布しています。

ヒメギフチョウは細かく分けると、北海道に棲むエゾヒメギフチョウ(Luehdorfia puziloi yessoensis)と信州を中心に棲むLuehdorhia puziloi inexpecta)とに分けることが出来る。幼虫の形態が多少違います。

その他に、中国にはシナギフチョウ(Luehdolfia chinensis)オナガギフチョウ(Luehdolfia lonngicaudata)などが棲息している。ロシアのウラジオストック近辺には、エゾヒメギフチョウのルーツではないかと思われるウスリーヒメギフチョウ(Luehdorfia .puziloi.puziloi 原名亜種)が棲息している。しかし、これらは日本のように調査が徹底されておらず、まだ生態など未知の部分が多く、その面での魅力もある蝶であります。

 

ギフチョウとヒメギフチョウの棲息の境界線をリュードルフィアライン(線)と呼んでいます。リュードルフィア線は、両種とも分布しない空白地帯とされているが、斑尾高原は、日本で四箇所しかない両種が混生する地域の一つとして注目されてきています。

ギフチョウ属は、日本に棲息するチョウの中で最も古い形質をもつとされており、交尾に際し雌の腹端に受胎嚢(じゅたいのう)を形成し、雄の腹端に似せることで再交尾を防ぐという特徴があります。

古い形質をもつことと美しいことなどから、詳しく研究、調査から大陸から北周りの経路で日本に侵入したヒメギフチョウからギフチョウが分化したことが解ってきた。そして、分化した原因の一つに食草にあることが言われています。

新潟県の混生地では、ギフチョウがコシノカンアオイを、ヒメギフチョウがウスバサイシンを食べて育つこと確認されているそうです。混生地の一つである姫川渓谷の大網や大所ではコシノカンアオイは生育せず、そのためギフチョウはウスバサイシンを食べ、時には同一の葉に両種の卵が産み付けられるのが確認されています。これは、ギフチョウがヒメギフチョウから分化した証拠の一つとされていて、ヒメギフチョウは成虫になると、約一週間しか生存できない為、見かける機会が少なくなっています。

ギフチョウは、レッドデーターブックにおいて、絶滅危惧Ⅱ類とされています。

 

斑尾高原では

北西斜面にコシノカンアオイが、南東斜面にウスバサイシンが多く生育しているが、ウスバサイシンが一部北西斜面のスキー場の中にも入り込んでいるのを見ます。

一般に後から分化した種の方が環境への適応があるとされていて分布を広げていて、ギフチョウの場合も、コシノカンアオイとの関係から生息域を広げたと考えられます。

斑尾高原での混生は、隔離され残ったヒメギフチョウの分布域にギフチョウが侵入してきたと考えられているようです。

開発によりコシノカンアオイもウスバサイシンも残っている所が限られているが、ここ数年ギフチョウを確認する事が多くなっています。斑尾高原ホテルの西側やペンションの近くのコシノカンアオイに卵が確認されており、高原中央の駐車場でもギフチョウが飛ぶのを確認しています。

こうした文章を載せると、とんでもない族(やから)がアミをもって山にはいってきます。 が斑尾高原では、数十人のレンジャーが巡回パトロールにより監視をし、チョウの生息域を守るための活動を行っています。

食草がある所の近くに、カタクリ、ショウジョウバカマ、スミレ類、ツツジなど紫系の花があるところでは見かけるチャンスがありますが、これは、紫系の花から好んで吸蜜するからであります。

 

また、土路川の下流域には、6月中旬から8月下旬まで「国蝶」として知られているオオムラサキが見られることがあります。標高が高くなると食樹のエノキ(榎=ニレ科)がなくなるため河畔に沿って生育していると考えられます。

斑尾高原で確認される蝶として、食肉蝶のゴイシジミがいます。ゴイシジミは幼虫時、アリマキ(アブラムシ)の幼虫のみつを吸い、成虫になるとアリマキ自体も食べます。これらを含めて、斑尾山周辺では、約80種におよぶ蝶が棲息しているとされています。

カンアオイ=カンアオイの名前の由来は、カンアオイの葉が厚いために寒い冬の間も枯れないことから、寒葵 と呼ばれた。日本には、50~60種類ものカンアオイ類があると言われている。その葉に出来る模様の美しさから、江戸時代には観賞用として盛んに栽培された。斑尾に見られるコシノカンアオイの、コシ は「越」で越後や北陸地方に分布するものである。

ウスバサイシン=「薄葉細辛」は、カンアオイの仲間で、カンアオイより葉がうすく、根茎が細く辛味が強いから名付けられたもので、カンアオイ、サイシン共に根茎は「せき、たん」の薬草としても用いられています。

斑尾高原の植物・・・あるじのガイド

 

斑尾山を頂点とし、東南の山麓が豊田村、東側が秋津、飯山、大川地区となり、飯山盆地の海抜は平均320メートルとすれば山頂は1381,8メートル、その中間900メートルから1000メートルが高原地帯で最も開発が進んだ所となっています。

斑尾山の植物は、低山帯(標高500m~1500m)の植物で占められていて、代表的なものはブナで、ミズナラ、カエデ、シラカンバ、クリ、サクラ、などが混じっています。

斑尾山の木は伐採が繰り返され結果、ブナの大樹はほとんど見られないが、ブナの幼木は山麓から山頂まで見られています。

現在も山頂から高原地帯にかけブナ林の他、周辺の林がコシノカンアオイを育てギフチョウの生息を可能にしています。

ブナの他、ミズナラが多くその中にイタヤカエデ、ウリハダカエデ、ホウノキ、サワグルミなどが大樹に成長しています。

伐採の後に植林も盛んで、中腹から山麓にかけてはカラマツにより大部分が占められ斑尾本来の植生ではないように思われ、植林の多くはカラマツで、次いでスギが多く、山麓にはアカマツも見られます。

伐採後、植林されず放置された所には、陽地植物であるシラカンバの侵入が見られ各地にシラカンバが多く、春や秋にその白さが良く目立ちます。

斑尾山系での植物の特徴は、亜高山帯(海抜1500~2500m)植物とされている種類が多く見られること。植林地以外に針葉樹林帯が無いのに、ゴゼンタチバナのような林床植物があること。標高800m付近に数は少ないがダケカンバがありシラカンバ、ウダイカンバ、ヤエガワカンバが混生している。また、ユキツバキが北と北東斜面を中心に、林床に多く見られるのも多雪地帯の裏日本型の植生を物語っていると思われます。

斑尾山腹の湿原や湿性草原にはカキツバタ、ノハナショウブの群生も見られます。

 

斑尾山麓がリゾート開発されるにあたり、開発による植生の変化や自然破壊が懸念され現状を詳細に調査し今後に備え比較する基準や郷土の自然を後世に伝える目的で、1971年から3年をかけ、飯水教育委員会創立90周年の記念事業の一つとして、自然調査特別委員会の方々が貴重な調査結果をまとめています。

この時の調査では、シダ植物 7科。裸子植物 5科。双子葉植物、古生花被植物 62科。後生花被植物 24科。単子葉植物 12科。の110科506種の植物が確認されていて、中ではキク科の植物(ヒメジョオン・フキ・ヨモギ・ハンゴンソウ・ノアザミ・サワヒヨドリ・ヨメナ・ヤナギタンポポなど)が最も多く、次にバラ科(ワレモコウ・ヘビイチゴ・ナナカマド・シモツケソウ・ウワミズザクラ・アズキナシ・エゾヤマザクラなど)次にシソ科(ウツボグサ・ジャコウソウ・ツル二ガグサ・ハッカなど)となって平地の植物と同じような傾向であり、又この中には、11科24種の帰化植物が含まれていました。リゾートである斑尾高原ではガーデニング行為は重要な要素でありますが、しかし、これにより外来、または観賞用の花が高原に帰化していくことが問題でもあります。

この調査以降、斑尾山麓での本格的自然調査は行われておらず、植生の変化や絶滅に近い植物、多くの帰化植物が入り込んでいると思われます。2005年春、関田山脈をつなぐ「信越トレイル」がオープンしますが、これにおいて植物の調査も行われるので植生の変化が解明されるのを期待したいところです

 

八坊塚在住の小澤 氏の調査によれば、2003年7月現在として、被子植物・双子葉植物 72科、単子葉植物 11科、裸子植物 1科で84科、322種が確認されています。

 

ブナ林について ( ブナ=別名 シロブナ・ソバグリ)

斑尾山では600m前後より、刈り払った後よりの幼木が多く、スキー場には切り残されたブナの大木も見られます。山頂付近のブナは30~40cmくらいが主で見事なブナ林になっているが、ブナの寿命は400~500年といわれています。6~7年に一度雪が花粉で黄色くなるほどの花を咲かせ、大量の実を落とし、翌年の春には地面を埋め尽くすほどの芽を出します。何万と出る芽の中で巨木として残るのは数本といわれています。開花するほどの木になるまで最低でも40~50年、結実するには最低60~80年かかります。

ブナ林を始めとする落葉広葉樹林は、山の貯水池とも呼ばれ、針葉樹林の5倍にも及ぶ水資源を涵養するといわれ、「ブナの大木は、水田1反歩(約1000平米)8~10表のコメ生産の水を養う」ともされています。

 

ブナの繁殖・・・ブナは同じ固体が雌花と雄花を同時に咲かせる「雌雄同株」で健全な種子を付けるには、異なる個体から受粉する「他家受粉」が必要で、花を咲かせても、他家受粉出来ず自家受粉してしまったり、虫による害に遭うなどして健全に結実出来ない場合が多い。開花した雌花の総数に対して健全な種子の割合が30~40%を超えると、その年は豊作とされていて、ブナは数年のサイクルで種子の豊作と凶作を繰り返す(マスティング現象)が、その仕組みは解明されていないようです。

 

ブナの実は、タンパク質や脂質を豊富に含み栄養が豊富な香実です。タンニンなど

の有害物質を含まないので人間もそのまま食べられる物だから、動物、昆虫にとっては重要な食料です。特にネズミ類は、ブナの豊作年に大量の実を食べ、冬を乗り越え

春の繁殖期を迎えます。このため、豊作年の翌年ネズミが大発生します。ブナは自分たちを増やす為に、実をつけずネズミを減らす為にマスティングを行っているともいわれています。

実は甘く、刺のある小さな「いが」の中に、栗色の三角錐の形をしたそばの実に似た種があることから、「ソバグリ」とも呼ばれています。

ブナ・・・・水分が多く腐りやすく役に立たない木ということから木へんに無と書きブナと読む。

ブナ・山毛欅・・・ケヤキに幹が似ているが葉に毛があるのがブナであることからブナと読む。

 

ホオノキについて

 ホオノキは成長すると高さ20メートル、葉の長さは30センチ、花は花径15センチ程になり何もかも大柄です。かってはホオカシワと呼ばれていたもので、カシワとは食べ物を盛る意味であるので、食器として使われていたことが解ります。

木材部は質が軟らかく細やかなことから、昔は刀の鞘や下駄の歯、鉛筆材やマッチの軸などに利用されています。

薬用には、夏の土用の頃、幹の皮を剥いで日干しにしたものを、腹痛、吐き気、下痢などに1日10~20グラムを煎じて服用する。解熱には成熟した果実を日干しし、1日10~20グラム煎じて服用する他、夏に採取し日干しした葉を粉末にし酢で練ったものをリュウマチ患部に貼る利用法もあります。

ユキツバキについて

飯山市の花として又新潟では県花として知られています。飯水地方では、瑞穂、木島地区には見られないが全地区に見られ特に関田山脈側に多く見られます。斑尾では希望湖周辺や大平峰北側に多く、南にいくほど少なくなり山頂を境として南側にはほとんど見られない。ツバキは本来暖地の植物で寒い冬の越し方に関係があると思われます。ユキツバキのユキは深雪地帯に自生することを意味し、深い雪に適応した植物あることが判ります。低木で弾力性に富み、雪の中で伏せるようになり雪の中の暖かさで冬を越すのが特徴であり、したがって、雪が無かったり少なくて、寒風にさらされる場所には見られなくなっています。

斑尾山は希望湖方向から山頂に近づくほど雪が少なくなる現象があります。これは関田山脈の北側には山が無いことや、西側の妙高山など高い山などによる風の方向などによるものと思われ、ユキツバキの分布も雪の積雪量に関係があると思われます。

薬用には、半開きの花を採って陰干しにしたものをよく刻んで保存しておく。吐血に1日4グラムを煎じ食前に服用したり。滋養強壮や便通を整えるのに、茶さじ1杯に熱湯を注ぎ砂糖を適量加え飲むと良い。また、火傷には粉末をごま油やツバキ油で練って患部に貼る利用法もあります。

 

カンバの類について

カンバの仲間は、寒地性の植物でほとんどが本州中部以北に見られます。シラカンバ(白樺・別名 シラカバ)、ウダイカンバ(鵜松明樺・別名 サイハダカンバ マカバ・マカンバ)、ダケカンバ(岳樺・別名 ソウシカンバ)、ヤエガワカンバ(八重皮樺・別命 コオノオレ)の4種とも斑尾では見られます。ダケカンバは本来、亜高山帯に生育する植物であり、希望湖南側のヤエガワカンバは大きさと共に希少価値の高いものです。現在スキー場の近くに、太さ約30cm 高さ約15mのものが5本確認されています。斑尾山東側1000m付近と希望湖周辺でダケカンバとシラカンバが混生しているが珍しい現象であり、ウダイカンバはスキー場の東中腹と北中腹に多く見られます。

 

ササ タケ類について

万葉文献に「雪国の山に生ずる小竹にして信濃に多し」と記述されているのは、スズタケであり、信濃の枕詞「みすずかる」の語源ともなっているように長野県を代表するササです。しかし、スズタケは県南地方に多く、奥信濃ではほとんど見ることはなく、ほとんどが、チシマザサとクマイザサです。

標高500~600m以下にあり笹もちや笹寿司に使われるのはクマイザサであり、標高600m以上にあり、ネマガリダケと呼ばれているのがチシマザサであります。冬の豪雪で茎の下のほうが曲がっているのでこの様に呼ばれているのでしょう。本来、根曲がり竹と呼ばれているが本来は笹であり、たけの子ではなく「笹の子」であります。斑尾山東側斜面やスキー場内にも多く見られます。5月から6月にかけ目を出すタケノコはアクがなく、山菜の王様とされ、茎は竹細工としてカゴやザルなどにりようされます。クマイザサは葉が出揃うと9枚になる事から名づけられ、葉が広く大きいので、昔から食べ物を包むのに利用されています。

薬用として、両者の葉を集め日干しにしたものを煎じるか、葉が出揃ったばかりの頃は、これをミキサーにかけ利用します。荒れた胃や胃もたれに1日20~30グラムを服用。またこの液でうがいをすれば口臭予防になり、湿疹や痔にはこの液で患部を洗浄すれば効き目があるとされています。

 

ナラの類について

コナラとミズナラがあり、コナラは主に標高700m以下に多く、ミズナラはそれ以上に多い。両種の違いはいろいろあるが、わかり易いのは、葉の表から見ると葉柄がほとんど無く見えるのがミズナラ、葉の表から見て1cm前後の葉柄が見えるのがコナラであります。斑尾一帯はミズナラがおおく、大木もありこの地の代表樹木のひとつであり、葉の上に肉質の赤い玉が着いているのを見かけるが、虫こぶといって虫の巣です。割って中を見ると中心部に小さな虫がいます。

トチノキについて

この種は、トチノキ科 トチノキ属 トチノキの1種1属1種であり、全国に見られるが斑尾山腹(スキー場トチノキコース沿いに大木が残っていて、ブナと並び代表樹木のひとつであったと思われます。

 

ウチダシミヤマシキミについて

ミカン科のミヤマシキミ属ミヤマシキミの型が違うもので、葉の表面の脈が打ち出されたようにへこんでいます。これはあまり見られないものだが、斑尾山中腹や希望湖周辺に多く見られます。

 

ゴゼンタチバナについて

専門書などによれば、本州中部以北の高山帯、亜高山帯の針葉樹林内等に植生とあるが斑尾山では、標高1200m付近のブナ帯に生育しているのが珍しいとされています。

 

アカミノイヌツゲについて

モチノキ科で本州中部以北の高山に植生するものであるが、斑尾山山頂北側に群生しています。高さ3m幹数十センチの大きいものも見られ、ハイイヌツゲとの違いは、実が赤いこと、葉が広くハイイヌツゲのように深緑色でなく鮮緑色で光沢があることであります。

 

希望湖(沼の池)には、1971年当時の調査では、食虫植物のタヌキモ、ヒツジグサも確認されたとありますが、現在は、幾多の改修工事により、水中に植物はほとんど見られなくなっています。

沼の原湿原・・・あるじのガイド

斑尾山の北約3キロメートル、標高870メートル、関川の支流土路川の源流部に位置する湿原が沼の原湿原と呼ばれています。

湿原は小丘陵によって東湿原と西湿原に分かれていて、東湿原が約4,5ヘクタール、西湿原が約14,5ヘクタールです。

二つの湿原は北方で一緒になり形のくずれた馬蹄形をしていて、東湿原の東縁と西湿原のほぼ中央に川が流れています。

東湿原が最も湿潤で西に向かうにつれ乾燥化が進んでいます。

南に斑尾山、西に寄生火山の袴岳、東には小丘陵をへだて沼の池があり、北へは土路川が下りそれに沿って、上樽本、中樽本、下樽本、土路の集落が点在しています。

年間降水量は、約2500ミリ、最深積雪量は3メートルを超え、日本海に近く裏日本型の気候で降雪量も多く、春遅くまで雪が残っていて湿原と川の水源は雨水と湧水によるもので、冬の豪雪が湧水をつくっていると思われます。

西湿原中央を流れる川の源流は、斑尾山北斜面の伏流水であり、年間を通し水量が変わらない湧水の場所が湿原西トレイル沿いに一ヶ所あります。万坂峠に近く300年を思わせるトチの木の根元から季節を問わず変わらぬ湧水量と水温5度程を保っています。

樽本の伝説に、蓮如が親鸞の遺跡を訪ね布教の途中、上樽本にさしかかったとき、目の病で困っているお婆さんに会った。蓮如は気の毒に思い「山の中腹に薬泉があるから、それで目を洗いなさい」と言った。さっそく山に行き薬泉を探し当て、目を洗うとたちまち傷みが取れ楽になったということです。

まさにこの薬泉の場所ではないかと思わせるような湧水の場所であります。

 

かって、湿原地域には沼部落、奥沼部落があり、奥沼部落は現在の湿原の位置とされ萩原宿と呼ばれ享保年間(1716~1735江戸時代中期)は最も栄え、75戸をかぞえた記録があります。沼部落は沼の池付近とされ、大正初期まで池の近くに峠の茶屋あったようです。この峠道を「樽本越」と呼び、上杉謙信の軍勢が川中島の戦いの為にこの峠を越えた記録もあり、信濃の国と越後の国との物資、文化の交流に大切な宿場として賑わいを見せ、様々な面で重要な街道の歴史があったと思われます。延喜式によるところの東山道・北陸路の駅家「沼辺」(ぬのへ)ではないかともいわれています。

しかし、時代の流れによって厳しい山道を越える必要がなくなると共に、街道がさびれ宿場として衰退や、江戸時代の天明(1782年天明2から6年間)・天保(1833年天保4から6年間)の大飢饉、特に天明3年(1783)7月の浅間山の大爆発はこの地方にも多大の影響があり、冷害による凶作と重なりこの頃より徐々に離村する人が出てきたと思われます。

 

現在湿原となっている所は、集落の耕作地跡であって、今でもヨシ群落の広がる湿原には昔の水溝の跡や、水田の畦と思われるものが残っていて、集落の位置は、標高850m 位の高冷地で、高冷地での米作が可能になったのはかなり後世であることを考えると、かっての住民は、作物として何を作り、何を主食としていたのだろう。

記録、文献を見ると、これより以前にもこの場所は、東山道の支路として幾多の繁栄と衰退を繰り返したものと思われます。

 

大正15年(1926)には3戸が残っていたが、中央電気会社(現 東北電力)が貯水池としての利用が計画され、土地買収が行われ離村しています。(計画は戦争により中断し現在に至り平成16年に妙高村が東北電力より買収している)

第二次大戦中に湿原の一部で水稲、大豆などが作られたことがあり、湿原の中に畦や水路の名残が見られます。

このように、古くから人的行為が加えられて来た為に、ブナ帯に属するが、大きなブナ林はみられず、湿原周辺にはミズナラの二次林が多く、東北側には広い範囲でカラマツが植林され、直径40センチを超えるものも見られる。ミズナラについては、その大きさから、山仕事にかなりの労働比重をかけ日々の生計を営んでいたのではないかと思われます。

約200年の湿原化によって、多くの植物が育ち、植生上からみても貴重な地域になっている。湿原内には、一部にイボミズゴケなどが分布するものの、ヌマガヤの少ない中間湿原とされていて、大部分は、ヤマアゼスゲを伴うヨシ群落で、典型的な火山山麓のヨシ湿原です。湿原南の万坂峠に近い部分は、湿生のノリウツギ、ハンノキ、メギ、キンキマメザクラなどの低木林が分布し、乾燥が進んでいる地域はレンゲツツジやツゲが林床となっているシラカンバ林になっています。

中央を流れる小川や周辺の流水部には、数十万株の水芭蕉をはじめリュウキンカの群落が分布し、滞留水域にはミツガシワが広がっています。これらの群落の間に、オオイヌノハナヒゲ、ミカヅキグサ、ミヤマシラスゲ、アイバソウ、カキツバタなどの群落が入り混じり、その中に、点々としてトキソウ、オオ二ガナ、などが散生していて、湿原内だけでも八十数種の植物が報告されています。ここ十数年のうちに特に乾燥化が進み、ハイイヌツゲ、ズミ、ノリウツギ、など雑木の増殖、ヨシ、ススキなども乾燥化に拍車をかけ本来の植生が変わりつつあり、又乾燥化による水路の変化も影響していると考えられています。

この湿原は、耕地跡に二次的に出来た湿原ではあるが、放置された期間が長く自然度が高い、湿生植物が多種類で、群落規模が大きいことがこの湿原の特徴とされています。

上越地方では珍しい、カラコギカエデやメギもこの湿原に自生していますすし、

野ウサギ、タヌキ、キツネ、リスなどの動物。最近ではツキノワグマやカモシカの出没もあります。トンボなどの昆虫類、野鳥(赤ゲラ、アオゲラ、ヒヨドリ、カッコウ、ホトトギス、ウグイス、セキレイなど豊富であります。

 

植生に悪影響が出ない程度の保全策も必要であるし、自然観察園としての構想を進める時期でもあると考えます。2004年には、湿原の乾燥化防止作業の一貫として、昔の水路を利用した水入れ及びハンノキの試験的伐採、ツゲ等雑木の除去の作業により、2005年の春には湿原化した場所に多くのミズバショウが復活しました。乾燥化から湿原化に戻すことにより植物の生態系がどのように変化していくのかも見守りたい所です。

 

 

マメ知識

ミズバショウとシーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 1796~1866)の関係。

シーボルトは1796年ドイツに生まれる。医師である両親の影響を受け医学を学ぶかたわら動物学、植物学、民俗学に興味をもち大学で学ぶ。1822年オランダ大使館の医師としてバタビア(現ジャカルタ)に務め、1823年に日本の長崎出島にオランダ商館の医師として来日、日本人に医学、植物学を教える。当時はオランダ人でなければ来日が無理の為オランダ人に成りすましていたらしい。江戸への4年に一度の旅の中で、植物採集や地理を調べ、1828には富士山の高さを測っており、その時は3794メートルと記されている。この年、日本地図等の持ち出しが発覚し1830年日本追放となる。1858年オランダとの間で通商条約が結ばれ、1859年に再来日、1862年に帰国している。長崎滞在時は、「おたき」(瀧1806~1859)という妻と「いね」(イネ1827~1903)という娘がいて、「いね」は日本最初の女医であり「オランダおイネ」として知られている。

シーボルトが出島に来る前に、出島にはケンベルやシュンベルクが来ていて植物の種を盛んに収集、東洋の珍しい香辛料を探していたらしい。ケンベル(1690年来日)は植物学に詳しくシーボルトも影響を受けている。ケンベルやシーボルトは日本の植物をオランダをはじめヨーロッパに紹介していて数々の植物に名前をつけている。

ケンベルはウメ、ヤマブキ、シュウカイドウ、サザンカをヨーロッパに紹介。

イロバモミジ、フジ、テッセン、ウツギ、アジサイはシーボルトが命名者である。

特にアジサイには、「おたきさん」学名ヒドランゲア・オタクサとなっている。

バショウ=学名「ムサ・バショウ」中国原産の多年草である。草といっても大型で幹の部分だけで2,5メートルにもなり全体では4メートルにもなりバナナの木に似ており小さなバナナができる。大きく目印にもなり木陰も提供する為に「旅人の木」とも呼ばれる。このバショウの学名もシーボルトが命名者である。成長した葉がバショウに良く似ており、水辺に咲くことからミズバショウ(水芭蕉)と呼ばれる。バショウは水芭蕉の名づけ親である

シーボルトは多くの江戸時代の生活用品や生物の標本をオランダに持ち帰っているトキ(朱鷺)や1905年に絶滅したニホンオオカミの剥製も含まれていて、シーボルトがオランダに送ったトキの標本に1871年学名が「ニッポニア・ニッポン」になった。ニホンオオカミは、1905年(明治38)が日本で最後の捕獲の記録であり、ニホンオオカミの剥製は現在、日本に3体、イギリスに1体、オランダに1体あるのみである。

 

松尾芭蕉

松尾芭蕉は1644年伊賀上野赤坂村(三重県上野市赤坂町)に生まれ、幼名は金作、のちに宗房と名乗り、俳句発表初期の頃(1675)の号は「桃青」であった。1681年春、38歳の時、門下の「李下」よりバショウを一株譲り受け庵に植え、その葉がみごとなことから評判になり「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、「ばせを植ゑてまづ憎む萩の二葉かな」と詠んでいる。1682年 39歳のとき初めて公に「芭蕉」号を使用している。1688年8月11日 45歳の時、美濃の国から信濃の国更科に、仲秋の名月を見るために訪れ、長野善光寺に立ち寄り浅間山の麓を抜け、江戸に戻っている。このときの旅を「更科紀行」として残している。

更科の姨捨山にかかる月は平安時代から多くのものに詠まれており、芭蕉が訪れた後もその評判は各方面に知れ渡り、この月を見るのが風流とされ多くの旅人が訪れるようになる。

沼の池(希望湖 のぞみこ)・・・あるじのガイド

斑尾火山の流動性に富む溶岩流の末端のへこみに水をたたえたもので、西側は毛無山(大平峰)と溶岩の末端でさえぎられています。

池の東方に湧水がある他、川と言えるほどの流れ込む川はなく、ほとんどが雪解け又は雨水による伏流水からの湧水であり、透明度は4~5mくらいあります。周りは

大部分が国有林で、スギ、ミズナラ、カラマツなど様々な樹木に覆われ斑尾山を映し出す神秘的な湖であり、斑尾高原を訪れる人々には人気のスポットの一つでもあります。

記録には、約430年前の天正時代(安土桃山1573~1591)に初めて壕を開き、文化2年(1806江戸時代中期)堤防にて水面を広げ、天保6年(1836)改築、安政2年(1856江戸時代終期)に大修築とあり、近年になっても幾たびかの修築があり、昭和28年に設立された下水内中部土地改良区が、昭和28年から36年の8年間に1678万円の費用にて総延長365メートルの堰堤工事が完成し、現在に至っています。南北740メートル、東西380メートル、周囲2440メートル、最深部11メートル、平均5メートル、最大貯水量48万5900トンであり、沼の池の水は、飯山市柳原、外様両地区の農家約400戸、約200ヘクタールの水田で稲作が出来、地域にとっては重要な水であります。湖北側の島の様な場所に弁財天が祭られていて、その石碑には、文化2年、天保10年の文字が刻まれているのが確認でき、古くから「命の泉」としての関わりがしのばれます。

享保年間(1716~1735江戸時代 将軍吉宗の時代)は、飯山にて水田耕作が盛んであり、皿川下流では沼池からの水量では足りず、また、飯山全体でも水不足であり用水問題は深刻であったようです。

飯山の中でも沼の池から流れる皿川の水は、大川、山口、藤ノ木等の村々と愛宕、伊勢町、有尾、市ノ口、小佐原の五ヶ所との間で争論が絶えなかったとあり、飯山町、奈良沢、愛宕町、小佐原等において用水不足のため溜池を築きたいが用地が無く、越後樽本村地籍の内前坂に溜池を築こうと、同村と交渉、越後国頚城郡樽本村庄屋又兵衛と信州水内郡飯山町の奈良沢、愛宕町、小佐原、上町の各組頭との間にて、年十両にて承認、契約の記録が残っています。

 

いずれにしても、飯山は水不足の問題を抱えていました、その為に山間の湧水、自然の小さな沼から流れる水を利用し稲作をしたものと思われ、分道、堂平、牛ヶ首等は山間の傾斜地を広げて耕作を行ったと思われます。

 

観光協会として中部土地改良区の旭用水委員会より借り受け、ボートやフィッシング、周遊トレッキング等で観光に使用し、昭和56年(1981)には、沼の池から希望湖(のぞみこ)と改名し現在に至っています。

 

標高 約850メートル、雪解けから5月初め頃までは周辺に多くの水芭蕉が見られ、池の南側に飯山市の天然記念物にも指定され、北信地区では数箇所しか見られないと思われているヤエガワカンバの大木があります。胸高幹囲2,5メートル、樹高は約20メートルあります。カバノキ科で樹皮が重なってはがれる為に、八重皮樺(やえがわかんば)の名があり別名・コオノオレともいい環境省のレッドデータブックにも絶滅危惧種に指定されている貴重な木です。

半島の様に張り出した場所には、樹齢300年を思わせる,胸高幹囲3,8m 樹高約18m 直径1,3mブナの巨木もあります。またこの地域の特異性としては、シラカンバ林の中にダケカンバが混生していることとウチダシミヤマシキミが多いことなどがあります。

 

沼の池に関わる伝説

昔、柳原の南條部落に「こく衛門」という男がおり、この男乱暴者ではあったがなかなかえらい男でもありました。川中島の戦いの後、上杉謙信は武田信玄の軍勢に追われ安田の渡しまで逃げてきたが、その時、こく衛門が渡しの綱を切って信玄の追っ手を足止めし、謙信を越後に逃がしました。謙信は命の恩人である「こく衛門」を呼び、「望みの物はなんでも与えるから好きな物を言え」といったところ、こく衛門は柳原地域が水に不便をしているのを思い、「他になにも望みはありませんが、沼の池をいただきたい」と言いました。謙信は、こく衛門の望みを聞き入れ沼の池を彼に与えました。当時沼の池は、越後領であったが、水は信州側に流れ落ちるようにしたのです。

謙信にまつわる、安田の渡しでの綱きりについては、様々な説があります。安田の渡しは「綱きりの渡し」とよび、これに架かる橋は今も別名「綱きり橋」と呼ばれています。