水戸黄門

久しぶりにテレビの水戸黄門見ちゃいました。
けっこう時代劇好きなんです。終りが解ってても最後まで見てしまう。

ところで水戸黄門って全国旅なんてしてないんだよね!。
せいぜい、水戸と江戸の往復か鎌倉付近までで、もっとも遠くに行ったのは熱海の温泉くらいだったらしい。
それも、歩いていったのではなく、すべて、かごに乗っての旅らしい。まっ少しくらいは歩いていると思うけど。
その黄門さんのモデルになったのは、水戸光圀(1628~1701)で水戸藩の二代目藩主であり、徳川家康の孫にあたる人なんだ。

そもそも、「大日本史」という歴史書の編さんのために、資料集めに家臣を全国に派遣したのが、自ら全国を歩く漫遊記になって行ったんだと考えられているそうです。

この「大日本史」光圀によって執筆がはじまり、明治時代に完成したもので、光圀が死んでから250年もかかっています。
これには、時間もさることながら、莫大な費用もかかったらしく、水戸の領民に負担が及んだらしく故郷を後にした領民もいたらしい。
全てを助けるやさしい黄門様とは、ちょっと違った面もあったんだね。

黄門様を助けるお供の「格さんと助さん」
実際は剣術なんかまったく出来なかったらしい。
格さん(渥美格之進)は水戸藩士の安積覚兵衛という人のモデルで学者だったようで、助さん(佐々木助三郎)も、光圀の家臣で佐々十竹がモデルで、元々は僧侶だたらしく二人とも、大日本史の編さんにかかわった編集員であったということです。
助さん、格さんの順で、編集長を務めたらしい。

光圀は、学者風で好奇心が強く、日本で始めてラーメンや餃子・チーズ・牛乳・納豆などをたべたとあり、将軍綱吉の制定の「生類憐れみの令」をも無視して牛肉や豚肉・ヒツジなども食べ、ワインも飲んでたらしい。

テレビの「水戸黄門」とはイメージだいぶかけ離れてしまうけど、江戸時代に講談や歌舞伎で諸国漫遊説が広まり人気があったというのには、時代背景が現在と共通するところがあったんだな~なんて思いながら、
一時間を気楽に過ごしてしまいました。

でも今回は、なんか学芸会みたいだったよ。・・・出演者の皆さん・・ごめんなさい。

子宝の松

斑尾高原には多くのトレッキングトレイルが整備されています。その総延長は50kmにも及びます。
その中のひとつに、湿原東トレイルがあります。
ペンションやレストランが立ち並ぶ高原の中心から沼の原湿原に向かうトレイルです。湿原手前から分かれるトレイルは、希望湖(のぞみこ)に続いています。

この湿原東トレイルの入口からしばらくは、わりと平坦な森の中を歩きますが、左側が5mくらいの谷になっている斜面の切り土にさしかかる場所に、特に気にしないで歩いていると解りませんが、
ご利益があるといいな・・・と思いあるいていると
そう言われれば・・とうなずける大きな唐松の木があります。
トレイルの整備を始めた時に、おらっちが名付けました。
「子宝の松」 です。
斑尾高原のトレッキングマップ初版には載っていたんですが、現在発行されているものには記されていません。
ある時期までは、しめ縄も巻かれていました。
斑尾高原でトレッキングガイドをしている人は、ほとんどの人が知っています。

この唐松に手を合わせたかどうかは確かめていませんが、斑尾に住む人やその友人間では、今年ベビーラッシュです。
その唐松の前は、全員が行ってたり、歩いているはずです。

湿原東を歩くと、皆子宝に恵まれちゃったら・・・えらい事になりますが、

斑尾高原は標高約1000m。 1000mの気圧は母の胎内の気圧と同じくらいといわれてます。

斑尾高原に広がる森は、母の森とも呼ばれています。
願い事が叶うかもしれない湿原東トレイル、子宝を望む人・・歩いてみませんか
そして、「子宝の松」見つけましょう。
お参りの仕方、お教えします。(お賽銭は必要ありません・・・念のため)

ひさしぶり

久しぶり・・です。
更新が・・・・もありますが、昨年の7月にお世話になった飯山の別荘に行ってきました。
大きな別荘というよりホテルです。大きな赤い十字の看板が目印。
今回は、しばらくの間(約5時間くらいでしたが)何にも知らない状態に、あっという間にされてしまいました。
まぶたが重~くなりますよ~・・と言われましたが、すよ~は、覚えていません。
その5時間の間に、すごいことがおらっちの身に起こっていたんです。
多分、ベットの上にほとんど裸の状態で眠っていたものと思われます。
周りには、3人くらいの女性もいたようです。
おらっちは、何をされたんでしょう。みんな覆面のようなかっこうをして、一人はメスをもって、おらっちのわき腹を約6cmくらいを切り開き、中から少々の骨(骨盤から)を取ったとのこと。
その骨を、こんどは、右手首の親指の付け根を切り開き、ちいちゃな駄目になってる骨と入れ替えてくれたらしい。
まるで時計屋さんが修理するときみたいな事らしく、顕微鏡のようなメガネを付けてのとっても細かい、作業だったらしい。
後での説明を聞いたら・・・・すっげ~え。
すごいことをする人でした。  とっても適確で自信をもっての事前説明で、本当は安心して眠りに入ったんです。・・・感謝!

てなわけで、3食昼寝付きいつでも寝放題。・・・を5日ほどしてきました。

おかげで、右手は7月のはじめまでつかえません。
ウォシュレットでないとトイレもいけません。
箸も思うように使えないので、食欲も抑えられ
この際、減量に努めたいと思います。

スプリング・エフェメラル

今日の午前中、トレッキングのガイドです。
「ふるさと春紀行」残雪とブナ林の新緑に出会える赤池周辺トレッキング
という企画のガイドです。

今年は雪が少なく、雪どけも早かったのでゴールデンウィーク中が最高の状態と期待してたのですが、時期と言うものがあるんですね。
ブナの木の芽吹きには少し早かったようです。

しかし、今日のトレイル周辺はイタヤカエデに花が咲き始め、ブナにも芽が出始めていました。
コブシやタムシバの白さが目に付き、オオヤマザクラも花が残っている木もまだまだあります。

ブナ林の中の日当たりの良い斜面にはイワカガミが2・3日で花が咲きそうです。
そんなブナ林を、神奈川県からのゲストさんと歩いてると、一匹の蝶がおらっちの前を横切りました。
あっ・・・・リュードルフィア 春の妖精ギフチョウです。
春を待ちわびて、日差しの中気持ちよさそうに飛んでいます。しばらくすると、もう二匹が目の前に・・・・
しばし、足をとめて見入ってしまいました。おらっちたちの周りを三匹の春の女神が何回も回りながら飛んでいるんです。

もうひとつ芽吹きの美しさを見ていただけなかったと気にしながらのガイドでしたが、それ以上のチャンスに出会えた事が最高でした。ゲストさんたちにも最高に喜んでいただきガイド冥利につきました。

明日も、その次もガイド予定です。
この様なチャンスにまた出会えることを期待したいです。

800年前

ちょうど800年前、鎌倉時代の承元元年(1207年)浄土真宗の開祖親鸞が、専修念仏禁止の弾圧によって35歳で越後国府に流罪となり、居多ヶ浜(こたがはま、新潟県上越市直江津)にたどり着きました。

それを記念して、上越市で、親鸞ゆかりの地を巡るバスツアーが企画されています。
4月から7月までの日曜日を中心に19回予定されています。
上陸の地、居多ヶ浜や居多神社、配所だった竹之内草庵が境内にある五智国分寺、親鸞の妻恵信尼ゆかりの地である板倉町の「ゑしんの里記念館」、親鸞の頂骨や遺品が保存されている寺町の「淨興寺」などを見学するとのこと。また、5月26日~6月24日の間は、市立総合博物館で「寺宝展」も行なわれている。
集合場所はJR直江津駅北口、問い合わせはマルケー旅行センター・025-543-4120 だそうです。

親鸞は、越後では藤井善信(ふじいよしざね)という俗名で暮らし、板倉町米増の豪族「前越後介三善為教」の娘「恵信尼」(えしんに)と結婚(三善一族は山寺薬師を拠点に山寺三千坊といわれるほどの一大勢力をもっていた)
親鸞は、流罪になる前、京ですでに法然の弟子、照禅の娘「玉日」と結婚してたんです。

越後に居る間に子供ももうけていて、その一人善鸞とは教えの違いから建長8年(1256年)5月29日付けの手紙にて親子の縁を切っています。親鸞84歳のことです。

建保2年(1214年)親鸞42歳のとき、関東への布教活動のために家族で常陸の国(茨城県)の向かいますが、その時関田峠(標高1111m)を越えたといわれています。
関田峠は、関田山脈の中間ぐらいのところにあり、最も標高が高い峠で県境に位置します。飯山市から温井地区をぬけ、上越市関田地区を経て旧板倉町に通じる県道95号線上越飯山線です。歴史上に出てくるのは鎌倉時代になるんですが、平安時代から小路があったともされています。
峠には大明神が祀られていて、別名大明神峠とも呼ばれ、戦国時代には上杉謙信が川中島に向かうのにこの峠を越え、飯山で軍を整え出陣していったのです。

親鸞が、関田峠を越える途中、野宿をされた処は「高僧の寝床」と呼ばれ、この時この地が光明で明るくなったともいわれ「光が原」と名付けられた伝わっています。

恵信尼は、親鸞と20年ほど共に暮らした後、43歳の時の末娘「覚信尼」だけを京に残し、善鸞を除く二男二女と生まれ故郷越後に戻っています。
1262年12月20日すぎ、越後に住む81歳の恵信尼のもとに、11月28日京にて90歳で息を引き取った父親鸞のことを伝える手紙が覚信尼より届いています。

大正10年(1921年)に京都に居る覚信尼に宛てた恵信尼の手紙が西本願寺で見つかり、文面より恵信尼
が72歳の時にはすでに越後に住んでいたことが実証されたんですが、いまだに越後に戻った理由は明らかではないそうです。

JAZZY HOUSE寺瀬ペンションから上越市の親鸞ゆかりの地までは、車で約40分くらいです。
そして、斑尾高原から居多ヶ浜までは直線距離にして40km。親鸞上人も浜に着いたとき、南に見える妙高山とその左の山並みに斑尾山を見たかもしれません。言伝えには斑尾山の近くにも飯山市にも親鸞が歩き通りすぎたというところがあるんです・・・よ。

各ゆかりの地で聞ける案内とはちょっと違った、おらっちの話も聞きにお出かけ下さい。