斑尾山麓開発の成り立ち 7

開発事業上の問題点
「菅平方式」を完遂するための、地主の理解と協力。共有地における住民すべての同意が必要である。

同盟会各委員は、根気よく土地提供予定者の理解と協力を求め、各家を訪ね、その熱意と誠意が地域住民の信頼と好意的な協力を生み出す結果となりました。
提供の同意を得た用地の測量は飯山市技術員によってすすめられ、昭和43年3月の飯山市議会の決議を経て、飯山市分用地として長野県企業局に158,7ヘクタールを提供しました。
長野県(飯山市、信濃町)新潟県(妙高村)における行政区の違いは、容易には超えられない高い壁でありました。
しかし

「観光開発に境はない。大切なことは自然に対する深い敬愛の念と開発に携わる人々の一致団結した志なのである」

と確固とした信念を持った相沢武雄氏の献身的な力添えにより、妙高村の深い理解を得ることになり、行政の壁を超え月日の時間を費やしたが昭和47年2月妙高村の用地96ヘクタールが企業局に提供されました。
また斑尾山西麓の信濃町分用地57,3ヘクタール提供の同意も、好意的に得ることができ、

昭和43年(1968)8月4日真夏の熱い日差しの中で飯山市と万坂峠を結ぶ取り付け道路の竣工式が行われ、45年11月9日10,5km(奈良沢~八坊塚)が開通、斑尾山麓の開発が現実段階に入ったのでした。

斑尾山麓開発の成り立ち 5

昭和41年(1966)9月25日、準備会の熱心な働きかけで斑尾の地を訪れた、長野県企業局公営企業管理者である相沢武雄氏はじめ局の課長、係長、春日飯山市長、高橋県議会議員、江村観光課長(いずれも当時)他一行は、大川より大平を経て沼の池、分道より妙高村(当時)地籍の沼の原湿原までを視察、斑尾山麓の雄大かつ幽玄な自然に深い感銘と観光開発の限りない可能性を感じ、「菅平方式」による当地の開発に心良く賛同の意を表したのであります。

11月8日、豊田村(当時)を視察。涌井から軍平街道を歩いて涌井スキー場を視察。

12月3日、斑尾山の総合開発打ち合わせが飯綱観光会館で行われ、春日飯山市長の提唱で、野沢温泉村、豊田村の関係者、そして妙高村、高田支庁の関係者の出席もあり賛意を表したことは特記すべきことであったということです。

12月18日、黒姫山山麓の「シャレー黒姫」の竣工式の挨拶で、相沢構想の一端として斑尾山鉢巻道路開発は、夏だけの野尻湖が東山麓のスキー場とタイアップすることにより、冬季に野尻湖へと多角化され、反対に冬の東山麓が野尻湖へと結び夏向きのものとなる。斑尾と野尻、山と湖の一体的開発は北信濃の開発の一大拠点となると示唆しました。

また、25日の視察時、分道の裏山に登り、妙高村(当時)の地籍開発には村境を撤去する必要、官行造林地帯の折衝の必要性の見解を示され、沼の原湿原方面では、妙高村および東北電力との折衝、協力を求めて地域を確保すれば「森と湖」のような北海道風な観光地となる感想を述べています。

8日の視察時には、涌井スキー場の上部には永田村財産区の山があり官行造林地帯であるが、個人の土地があるのも気がかりである。村で買い上げ菅平方式を適用するのが望ましいと思うとも述べられ広域観光の可能性を語っています。

斑尾山を核として「雪の飯山」と「夏の野尻湖」を有機的に結び、山と湖の一体的な開発を図り地域住民の福祉の増進を目的とした長野県企業局の計画の基であります。

斑尾山麓開発の成り立ち 4

広大な斑尾山麓の開発を成し遂げるためには、住民側の力だけでは無理があります。

行政との一致協力のもとに観光開発にあたる「菅平方式」(住民が無償で提供した土地を県企業局が造成して分譲し、その利益を土地提供者に還元するという方式)を採用したらどうかと考え、

昭和41年6月飯山商工会を母体とした「飯山開発準備会」を結成し、関係住民の理解と協力を求め、長野県企業局をはじめ関係機関に対して積極的な働きかけを開始したのであります。

斑尾のあゆみ

斑尾高原に住んでたり、お客様として何度もお越しになられたり、斑尾が好きでまた気に入ってくださり、余暇を斑尾にベースにしてしまったりの人たちが
ブログの中で、好きでたまらない斑尾ってどんな成り立ちで
どんな育ち方してきたの・・?
な~んて
の書き込みご意見、要望がありました。

と・・・なると・・おらっちの出番であります。

今までも斑尾高原の歴史を・・それなりに紹介してきましたが
とにかく・・筆不精ってやつ・・・でも何とかしなくっちゃ・・記憶が問題になります。
おらっちの場合、アルチュー(アルコール中毒)ハイマー・・・が偲び寄ってますので・・・。

何から始めるかって・・・・どんな感じで作るのがおもしろいか・・・
単なる斑尾高原または斑尾高原スキー場の年表で・・いいのか~。

そもそも、斑尾山山麓の開発計画が浮上したのは、昭和39年 1964年12月のことであります。
昭和39年といえば、
第18回東京オリンピック・ 東海道新幹線開業・ 飯山市は市制10周年を8月に向かえていました。
この年の6月には、新潟地震もあったんです。
44年も前のことで
今ブログに遊びに来てくれている方の何人かは、この世に誕生していなかったと思うんです。

世の中は、みゆき族だのトップレスだので・・翌年にはアイビー族、原宿族などが出始めた時代です。

こんなことまで知ってる・・おらっちはいったい本当の年齢は・・・幾つだ~。

斑尾高原って何県・・・?

斑尾高原観光協会が発行しているパンフレットや、斑尾高原の宿泊施設が独自に自己の施設紹介等の広告・宣伝に使用する時の住所は、
長野県飯山市斑尾高原 が使われています。
しかし、
斑尾高原のほぼ中央を、長野県と新潟県の県境が走っているんです。
飯山方面からの道路から斑尾高原に入ると、上りきった正面に案内看板と
”MADARAO RESORT” のプレートが花に囲まれた芝生の中にあります。通称 ロックガーデンと呼んでます。
現在は3メートル近い雪の下ですが・・・
道路右側には、観光協会が管理するビジターセンター「まだらお高原 山の家」があります。
ロックガーデンを右折しますと神秘的な湖「希望湖」、春は水芭蕉・リュウキンカ等が咲き、秋まで様々な花が見られる「沼の原湿原」方面になります。

希望湖方面からロックガーデンに向かって、道路の右側側溝が県境で
そのまま斑尾高原ホテル方面の道路の右側側溝と続き、ホテル前の三叉路まで伸びています。
車の場合は飯山から、この三叉路までは長野県を走ってる訳です。
道路から様々なお店が並ぶ駐車場に入ると、そこは新潟県になるんです。
県境は、斑尾高原ホテルのほぼ中央を走り、ゲレンデに抜けチャンピオンコースを斑尾山の北の峰に上り、稜線を西の峰からタングラムスキー場との境を万坂峠に下っています。
斑尾山山頂は、長野県です

現在、斑尾高原の行政区としては、新潟県妙高市斑尾区には77施設、長野県飯山市斑尾区に50施設となっています。

斑尾高原の開発当時は、現在のように道路が妙高市まで通り抜けが出来ず、飯山からの道路のみで、他地域に行くには飯山経由だったんです。
住人家は新潟県になるんで、営業許可申請は上越の保健所になるんですが、電話や新聞は飯山市になり、手紙なんか
おらっちから高原ホテルに正式住所で手紙をだすと、先ず飯山郵便局から妙高郵便局に当然まわります。しかし妙高方面から道路が無い為配達できません。そこで、飯山郵便局に差し戻され、そこからの配達になるため、隣に出した手紙が約一週間かかったという笑い話のような本当の話があります。
現在も、道路を隔てて中部電力と東北電力に分かれているため、どちらかが停電でもどちらかは電気が点いていたり、場所によってテレビも長野の放送・新潟の放送と違ってたりしています。

開発当時、飯山からの道路のみということで、斑尾高原は「飯山市斑尾高原」とし全国に宣伝活動をした訳です。それが現在も使われています。

ちょっと晩酌の量多かったかなァ~
何かまとまんねー文章だらだら書いちゃいました。