信濃生まれ長野県育ち

おらっちは、長野県生まれの長野県育ちで人生60年のほとんどが長野県。
学生時代に4年間東京暮らしをしたくらいです。

いろんな県出身者と友達付き合いをさせてもらってるけど、ほとんどの県には県の歌、いわゆる県歌ってのは無くて知ってることさえ聞いた事がありません。

おらっちの長野県には、ちゃ~んとした県歌があるんです。
ご存知の「信濃の国」です。
ほとんどの長野県人は、これが唄えるんですね。6番までもあるなが~ィ歌なんですが・・・・。
歌詞の内容なんですが、
1番には、長野県の地理に関することが詠われ
2番には、長野県内の山や川
3番には、長野県の産業
4番には、名所旧跡
5番には、長野県出身の著名人
6番には、なぜか碓氷峠と信越本線で結ばれています。
今の時代にはそぐわない部分もありますが、作詞された時代の長野県全域の地理や歴史、文化、長野県に関係する人物が平均的に詠われていて、北信・東信・中信・南信とよばれる4つの地域の一体性を持たせるための歌とも思えます。

しかし、北信地方でもこの地方、長野市から北の地方は1度も歌詞には出てきません。
そのため、下高井郡(当時は飯山・野沢温泉・木島平・中野・山之内地方)は独自に群歌をつくったらしい。

「信濃の国」が県歌に制定されたのは昭和43年(1968年)5月20日のことで、もともとは小学校唱歌として明治32年(1899)に発表されています。

明治33年の秋には、師範学校の運動会で女子生徒の、いわゆる全体ダンス?として発表され、師範学校を卒業し教師となって県内に就任し、この曲を小学校で運動会では必ず演奏されたり、地域のお祭りなどでも紹介され歌われたことから全県民に知れ渡ったといいます。

作詞は長野師範学校(今の信州大学教育学部)の舎監長を務めていて、松本市出身 坪井 列(1849~1938)って人。
作曲は、最初は依田 弁之助って人が曲をつけたんですがあまり歌われず、依田の後任として師範学校に来た北村 季晴(すえはる)(1872~1930)という人、銀座生まれの江戸っ子とのこと。

江戸っ子が長野県の県歌を作曲してたとは・・・・

東京都いえば・・・もっとも親しまれてるのが東京音頭・・都歌ではないけど。
この東京音頭を作曲したのは、長野県人(おらっちが住んでる直ぐ近くの中野市出身)の中山 晋平 なんです。

長野県と東京都はいろんなところで縁があります。
信州で生まれた「そば」を全国的に有名にしたのは江戸っ子で
桜で有名な高遠藩の内藤家下屋敷跡は新宿御苑になってるし、信濃町の名の元にもなったとのことであります。

信濃の国は~ 十州に 境連ぬる 国にして~・・・てか。

さらに2週間

そろそろリハビリか・・と
あれ以来14週間めの診察。  だめだ!!移植したとこの影がきえない。
さらに2週間後のレントゲン、とCTで判断。
ついに100日を越えてしまう。
年を取ると骨くっつかないんかな~。

少々、落ち込み・・・・本日は当然のようにお店は休業。

久しぶりに雨も降り、草花は元気を取り戻し
草なんかはどんどん伸びまくり、草刈も忙しくなちゃいました。
いくら天気が順調になっても、おらっちの骨は元気になりません。

残念

右手に腰から取った骨を移植の手術から今日で70日経ちました。
目標の日にちが経過したので、そろそろギブスともおさらば・・・・
本格的活躍にむかってリハビリ・・・・のつもりが・・・・

どうしても、ほんのわずか影が・・・

もっとも付きにくい骨であることに加え、ギブスで固定してもどうしても動いてしまう場所。

これ以上固定をしていると固まってしまう・・・
という訳で、ギブスを半分にしてもらい、取り外し可能なものにしてもらいました。

70日ぶりに、おらっちの右手は気持ちよ~くお風呂につかったのであります。
あたたまったところで、ちょっと手首を曲げてみようとしたところ
ぜ~んぜ~ん曲がりません。

ドクターに、30日ラフトのガイドでパドル握るんですけど~・・・だめですか~。
手首に力かけるの、もう2週間がまんして・・・だって!!。

それからリハビリ・・・・夏終わっちゃう。

水戸黄門

久しぶりにテレビの水戸黄門見ちゃいました。
けっこう時代劇好きなんです。終りが解ってても最後まで見てしまう。

ところで水戸黄門って全国旅なんてしてないんだよね!。
せいぜい、水戸と江戸の往復か鎌倉付近までで、もっとも遠くに行ったのは熱海の温泉くらいだったらしい。
それも、歩いていったのではなく、すべて、かごに乗っての旅らしい。まっ少しくらいは歩いていると思うけど。
その黄門さんのモデルになったのは、水戸光圀(1628~1701)で水戸藩の二代目藩主であり、徳川家康の孫にあたる人なんだ。

そもそも、「大日本史」という歴史書の編さんのために、資料集めに家臣を全国に派遣したのが、自ら全国を歩く漫遊記になって行ったんだと考えられているそうです。

この「大日本史」光圀によって執筆がはじまり、明治時代に完成したもので、光圀が死んでから250年もかかっています。
これには、時間もさることながら、莫大な費用もかかったらしく、水戸の領民に負担が及んだらしく故郷を後にした領民もいたらしい。
全てを助けるやさしい黄門様とは、ちょっと違った面もあったんだね。

黄門様を助けるお供の「格さんと助さん」
実際は剣術なんかまったく出来なかったらしい。
格さん(渥美格之進)は水戸藩士の安積覚兵衛という人のモデルで学者だったようで、助さん(佐々木助三郎)も、光圀の家臣で佐々十竹がモデルで、元々は僧侶だたらしく二人とも、大日本史の編さんにかかわった編集員であったということです。
助さん、格さんの順で、編集長を務めたらしい。

光圀は、学者風で好奇心が強く、日本で始めてラーメンや餃子・チーズ・牛乳・納豆などをたべたとあり、将軍綱吉の制定の「生類憐れみの令」をも無視して牛肉や豚肉・ヒツジなども食べ、ワインも飲んでたらしい。

テレビの「水戸黄門」とはイメージだいぶかけ離れてしまうけど、江戸時代に講談や歌舞伎で諸国漫遊説が広まり人気があったというのには、時代背景が現在と共通するところがあったんだな~なんて思いながら、
一時間を気楽に過ごしてしまいました。

でも今回は、なんか学芸会みたいだったよ。・・・出演者の皆さん・・ごめんなさい。

ひさしぶり

久しぶり・・です。
更新が・・・・もありますが、昨年の7月にお世話になった飯山の別荘に行ってきました。
大きな別荘というよりホテルです。大きな赤い十字の看板が目印。
今回は、しばらくの間(約5時間くらいでしたが)何にも知らない状態に、あっという間にされてしまいました。
まぶたが重~くなりますよ~・・と言われましたが、すよ~は、覚えていません。
その5時間の間に、すごいことがおらっちの身に起こっていたんです。
多分、ベットの上にほとんど裸の状態で眠っていたものと思われます。
周りには、3人くらいの女性もいたようです。
おらっちは、何をされたんでしょう。みんな覆面のようなかっこうをして、一人はメスをもって、おらっちのわき腹を約6cmくらいを切り開き、中から少々の骨(骨盤から)を取ったとのこと。
その骨を、こんどは、右手首の親指の付け根を切り開き、ちいちゃな駄目になってる骨と入れ替えてくれたらしい。
まるで時計屋さんが修理するときみたいな事らしく、顕微鏡のようなメガネを付けてのとっても細かい、作業だったらしい。
後での説明を聞いたら・・・・すっげ~え。
すごいことをする人でした。  とっても適確で自信をもっての事前説明で、本当は安心して眠りに入ったんです。・・・感謝!

てなわけで、3食昼寝付きいつでも寝放題。・・・を5日ほどしてきました。

おかげで、右手は7月のはじめまでつかえません。
ウォシュレットでないとトイレもいけません。
箸も思うように使えないので、食欲も抑えられ
この際、減量に努めたいと思います。