反省

天の神様・・?は、私達の願いを正直にお聞きくださるようで
恵みの雪を希望どうり・・? 下さいます。

シーズン初め期間、斑尾人は
もうちょっと寒くならなくちゃ・もう少し雪欲しいよね・これじゃ又4月のスキー大会は中止か?
なんて、

天の神様のことなど忘れ、

いくら降っても、天のバケツの水がなくなりゃ・・・それまでさ!!
酒飲みながらいい加減なこと言ってたのを、今になって思い知らされてます。

一昨日からの天気は何だったんでしょう。スキー場のリフトは全面運休
おらっちは、朝から晩まで雪かき。

おらっちはまだいいです、スキー目的に来られたお客様は、天候のせいとはいえ
あんまりの天気。

自分勝手なことを言わず、雨・雪・太陽・気温・風
全ては成るがまま、自然は人間がどうする、こうするじゃなくて
その、恵みに感謝するものだな~
そして、自分のサイクルを合わせるものだな~  なんて思いました。

今シーズンの初すべり

昨晩からの雪が約40cm
6時に起床・・・除雪
なんですが・・・

年でしょうか・・? 6時に目が覚めてしまうんです。

とりあえず、除雪を済ませて「とてちりちん」じゃない・・「ちりとてちん」を見ながら朝食、さてさっそく意気込んで初すべり・・へと思いきや

かみさん曰く・・今日、病院でのレントゲンの日じゃ・・ない!!

げっ・・・
という訳でレッドクロス・・ホテル・・?に直行。

ハッキリしない・・。  写真8枚も取りました。
やっぱり・・・だめ!。
ドクター曰く・・・どう?。
おらっち曰く・・この頃痛みかんじるんです~。
ドクター・・・骨動くんで、痛み出るのかも・・・
痛みおさえる為に、固定用に針金・・・2本いれるか!!。

やめて下さい!!。    そんなに痛くないんですから・・・。

という訳で、
午後3時くらいから・・・初すべりに、ニュースキーをはいて行ちゃいました。

初すべりとは思えない!・・おらっちって・・・結構やるじゃん!!。

シーズン前にはたっぷり歩いたし・・・スキーの性能のおかげ?
しかし、やはり左膝が・・・痛ェ~。
プロテクターは必要なんだ・・・ちょっとガッカリ。

でも、気持ちよかったっす。

スキーの準備

雪も無いんでウォーキング・・・なんていってたら朝から雪降りです。

積雪は1日で30cmくらいですが、まだ降ってます。

いよいよトレーニングの成果を見せなきゃ・・ってことで
明日はスキーのワックスがけ。

14日はスキー場のプレオープン、15日からは状況にもよるけど数箇所リフトも稼動開始。

14日は、11時30分よりスキー場開きの神事に出席だけど
その前に・・ちょっとひとすべり・・・

仲間には、絶対一つも二つも何か言われそう。
アホッ・・か・・って。

信濃の国・・その2

おらっち達、長野県人は海を見るとどうしてもはしゃいでしまいます。
海が無い県として、海への憧れや山ばっかし見ているせいで、あの広々とした大きさに心がうきうきして、あの山の向こうには何があるんだろう・・・より、あの海の向こうには何があるんだろう・・の方が想像したときわくわくするのかも・・・

「信濃の国」の1番にも、「海こそなけれ 物さわに」ってあるとうり海に遠い県で、海は憧れだっかもしれないのが、3番に出てくる「諏訪の湖には 魚多し」の湖を「うみ」って読ませています。
きっと、作詞の浅井 さんも松本の人なんで海には憧れがあったもかも・・・

12月5日の信濃毎日新聞に、「琵琶湖就航の歌」の記事が出てました。
作詞者と作曲者の不思議なつながりを長い間調べ、自費出版をした元NHKアナウンサーの飯田 忠義さんの記事です。

「琵琶湖就航の歌」・・・「我はうみの子・・・」ですが
「我は海の子 白波の~」ってのは文部省唱歌の「海」で
「我は湖の子 さすらいの~」ってのが、「琵琶湖就航の歌」

加藤 登紀子さんが歌って大ヒットしたんで、印象が強く「海」を歌うときうっかり「琵琶湖就航・・・」の調子で歌っちゃうこと・・・・ありません・・?

ここに出てくる「湖 (みずうみ)」はもちろん琵琶湖のことだけど
これを作詞したのは、諏訪湖のほとり岡谷市出身の「小口 太郎(1897~1924)」って人。
小口 太郎が、旧制三高(今の京都大学)のボート部で部員とボートで琵琶湖を巡っているとき書かれたそうです。きっと生まれ育った諏訪湖の情景を思い出しながらとも想像できます。1917年(大正6年)のことです。

それと、明治33年に発表された「信濃の国」の歌詞に湖が「うみ」となってることも影響し、湖を「うみ」としたもかも・・・。

ちなみに、作曲者は新潟市出身の「吉田 千秋(1895~1919)」って人。
独学で作曲を学び、1915年に発表された曲で、当時三高で「ひつじぐさ」という歌で流行ってたこの曲に、この詞をあてて新入生の歓迎会で歌ったところ評判になり広がった・・と書かれています。

また、この二人は一度も会うことなくこの歌が誕生し、二人とも二十歳代でこの世を去っており、好奇心旺盛で穏やかな性格など、「二人はいろいろな面で似ていた」と長年取材をしてきた飯田さんはコメントしています。

岡谷市の釜口水門に近い諏訪湖畔には、小口 太郎の銅像が諏訪湖を見つめるように建ってます。

それと、加藤 登紀子と小椋 桂は共に東京大学のボート部に籍を置いたことがあるらしいですが、今でも歌い継がれている京都大学ボート部の「琵琶湖就航の歌」と加藤登紀子が歌うのとは、ちょっとメロディーが違うということを聞いたことがありますが、知ってる方・・・教えてください・

長野県歌・信濃の国

この間、「信濃の国」の経緯を聞きかじった中で、どうして北信地方が詞の中に出てこなかったんだろうと漠然と考えたら・・・
一つは作詞の浅井 列氏が松本(中信)の人だったことや
信州(長野県)が廃藩置県で統合されてきて経過、県庁が松本でなく長野に置かれたことなど様々な経緯からが推測されておもしろい・・・・

いずれにしても、多くの郡が再編され、一つの県になった事により、長野県を「信州合衆国」と呼ぶ人もいるくらいですから・・・。

ところで、「信濃の国」の5番に・・(長野県出身の著名人)の歌詞
旭将軍 義仲も  仁科の五郎 信盛も    とある
信盛ですが、
いろんな記事に出てくる仁科五郎盛信とどう違うの・・・?    ってことで・・・・

仁科五郎盛信って誰。
盛信は、今や話題の武田信玄の五男で、長野県の大町地方(白馬方面)の豪族「仁科」の姓を引き継いだ人なんだよね~。
「風林火山」でも仁科の姫が出てくるけど・・・
後に、高遠城主だった1582年に織田の軍勢に攻められ戦死しています。

どうも、同一人物のようです。

作詞家の浅井さんは・・ちょっとなれナレらしくてすんません。
江戸時代の書物の研究家でもあったらしく、江戸時代に出来た書物「甲乱記」という書物などには「信盛」と書かれていることから、そのように詞にしたものと言われています。

大町市やこの地域に残る古文書に残る自筆のサインには「盛信」とあるらしい。
他にも多くの文書にもあることから
現在では、「盛信」が一般的ということです。

でも、長野県の武将といえば、真田幸村って人もいるのに・・・。

この5番の、義仲ってのは平家を最初に破った「木曽義仲」のことで、
木曽義仲だって本当は、出生地は埼玉県なんですけど~。
武蔵の国大蔵館って所、現在の埼玉県嵐山町で、幼年期に木曽に逃れて来たんです。
最初に、越後の平氏の討伐時には、斑尾の西(妙高高原駅の東山)熊坂山に陣を張ったんですよ。(1183年平安時代終期)

他には飯田出身の江戸時代の経済学者「太宰春台」、松代出身の思想家「佐久間象山」が詠われています。