斑尾高原豊田スキー場再開

今シーズンより斑尾高原に、もうひとつのスキー場がオープンします。

ここ数年、不況やレジャーの多様化によりスキー産業が低迷があらわれ
各地でスキー場の閉鎖が伝えられています。

スキー客の減少傾向は歯止めがかからないということは、売上の減少ということで、それがスキー場の閉鎖や休止、また事業の譲渡などになっています。
これらに加え、暖冬傾向による雪不足も大きな要因です。

各スキー場は、生き残りをかけてスキー場を経営している事業者同士が連携したり新しい客層の掘り起こしをかけ、様々なイベントをはじめ試みを模索する動きになってると感じます。

斑尾高原には、斑尾高原スキー場・それに隣接するタングラムスキー場・斑尾高原サンパティックスキー場と三つのスキー場がありますが、
12月25日より
斑尾高原豊田スキー場が加わり四つになります。

斑尾高原内から豊田スキー場間の無料シャトルバスも運行されますし、食事券(800円分)がセットされたリフト券もあり、食事券はシーズン中有効で指定されているレストランで使用できます。
レストラン・バー「JAZZY]も指定施設になっています。

多彩なコースでスキーやボードを楽しんでいただきたいと思います。

もうすぐ1500日

JAZZYをオープンしてから2回目の冬を迎えました。
2日まえから待望の雪がまとまって降り、スキー場もオープンしました。
18日にはスキー場開きが、降る雪の中で行われたので本当に良かったです。
雪が無いゲレンデを見ながらのオープン神事では様になりません。

ところでもうすぐ、ブログを始めてから1500日が近くなってきました。
が、2008年の9月で休止状態。
どうしたんでしょう・・・?

おらっちが、言うことでなく訪問してくださる方が言うことですよね。

カッコよく言えば、仕事が忙しくそれどころでは無かったんです。
うそです。

何はともあれ、ちょっとした書きやすい条件が出来たので
これからまた様々な「ひとりごと」
つぶやきます。

航空写真・・2

航空写真の記事に懐かしいや知らない、などなどのコメントを頂いたのでここでいろいろ書きたいと思います。

そうです。エースコースと言うのは現在のカービングコースです。
現在のスーパークワッドの乗り場から、ジャイアントコースからエースコースの分かれ目まで第9リフトが架かっていました。
その後、スーパークワッドに変わり・・だから現在第6・第9リフトと言うのがないんです。
そして、幻の第10リフトは土台のみで終わっています。

リフトの歴史は又の機会に・・・・

「かわちゃん」は1977年にはじめて斑尾ですか・・
”75から”77はペンションがいっきに増えた年です。ペンションBN(野田ペンション)は”76年オープン。2年目に訪れて、ひょんなことでひょんなことになったんですね””。

”75年にプラザ街という名称で、トミー・八坊・今井処・ルヴァ・すずき・キャンドルという6軒のレストランがオープンしています。

”77年には、ホテル・プチホテル3軒、ペンション66軒、レストラン・ギフトショップ8件、保養所3軒もあったんです。
聖峰・・ありましたよ!!。 ペンションの名はついていましたが、ある病院の保養所を兼ねていました、その後斑尾高原ホテルの男子寮となり、現在は取り壊されありません。

「なおちゃん」最初に出来たペンションは、スワロー・菊山・アブラヤ・小太郎・バニー・ニューあらや です。 そしてロッジ山峰   なつかしいね。
2年目に、しんざん・アップル・グリーンボア・サンロッジ・スター・藤和なんです。
この年、斑尾に除雪センターが出来、飯山市スキー学校斑尾分校(現スポーツアカデミー)が開校してます。
なおちゃん○ねんせいのときおらっちん家に来てるよね。

第4リフト、現トラバースコースから直接第3Aの降り場のちょっと下まで、第3A・Bが出来てからも数年はあったんですよ。

リフトに関しては、第8・第14・・・幻のリフトにならないように願いたいものです。

”76年・”78年は豪雪で自衛隊が出動したり、災害救助条例の適用が飯山市で始めて行なわれたりしていて
世の中は、カラオケブーム・裏口入学・翔んでる女・およげたいやき君などで

”75年は「山の家」の前のテニスコートがオープン・10月には斑尾高原観光協会が設立されています。
”77年は巨人軍、王選手が756号のホームラン世界記録達成、初めての国民栄誉賞を受賞。文部省が「君が代」を国歌と規定。

またこの地方では、何時のことやら・・・おらの生きてるうちには無理だな~なんて言われながらも”76年8月「北陸新幹線建設促進期成同盟会」が発足されたんです。今飯山の駅周辺は工事の真っ最中、飯山から上越に抜ける22kmのトンネルも開通、6年後の開業にピッチがあがってます。

そうすると東京から斑尾まで3時間半くらい・・・かな~
おらっちも生きてる間になんとか飯山駅から東京さ・・いくだ!!。

そしたら、航空写真集と一緒に1980年の岳人の別冊”80のスキー ペンション特集という本も出てきました。
前回言い忘れましたが、写真集も岳人別冊も、マッサラの状態です。

”80のスキーの表紙はなんと、フランツ・ラウターです。ラウターは斑尾で2年連続でレッスンキャンプをしたんですよ。

”80年といえば、東洋一のゴンドラリフト(スカイキャビン)が野沢温泉スキー場に、斑尾への上り口にあった飯山国際スキー場は、日本初の定員制スキー場、斑尾高原スキー場は第7ペアリフトが新設でパステルカラーのスキー場として、スキーブームが始まってました。

斑尾高原の収容可能ベット数は、約4800人。年間の入り込み客数は32万人だったんです。
ちなみに”72年オープン年の可能収容人数は800人 でも”73年の入り込み人数は8万5千人。

このシリーズも長くなりそうです。

航空写真

本棚を整理していたら懐かしい本が見つかりました。
1974年10月1日発行の、北ア・上信越スキー場の「航空写真」特集という写真集です。
長野市にある信濃航空株式会社が発行元です。

1974年と言えば斑尾高原が開発されて2年目・おらっちには長男が誕生した年でもあります。
ってことは、おらっちがパパに・・・ってか「おやじ」になった年。

斑尾高原スキー場もちゃ~んと載ってます。
案内には、宿として「フジタ斑尾高原ホテル」のほかペンションが13軒です。

ゲレンデの案内には、初心者コース・パラダイスバーン・ジャイアントバーン・エースコース・チャンピオンコースとなっていて、第一パラレルリフトAB線462m・第二リフトAB線495m・第三リフト497m・第四リフト304m、
レストハウスりんどう・・となってます。

中の広告ページもスキーは、NISIZAWA FORMULA
1974.ニューモデル。 今年のニシザワは、芯から新しい。・・となっています。
ブーツは、BYSON
国内大会最多優勝記録を保持するBYSON。
滑るマシン。ヒザのパッドが話題騒然。
デサントデモパン レーサー 速いものは必ず美しい  などがあります。

斑尾高原にはまだこの時、観光協会は設立されていませんでした。設立は1975年10月1日なんです。
戸狩観光協会の事務局は、太田農業共同組合内となっていて「国設戸狩スキー場」です。
妙高高原駅の正面に見える、現在閉鎖いているスキー場も「妙高パノラマスキー場」として載っています。

おらっちの年代には懐かしいんですが、もうそんなに時間が流れてしまったんですね。
スキーもブーツもデモパンも一度は身につけてるんで・・・・。

めいっぱい

や~よく滑った・・・すべった。
って氷のうえ滑った訳ではないんです。
スキーです。
15日は朝から絶好のスキー日和、9時から3時間は滑った!!
明日からのことも忘れて・・・

16日は、朝8時集合で3日間スキーのイントラ・・だった
朝から雪降り
福岡からの高校生の体験教室・・・高校生約270名

その内の8名受け持ち・・・・まったくのスキー・・始めて・・そしてこんな雪の量、降り方もはじめて!!。

スキー履くのもはじめて・・・滑れない、とまれない
この高校生と3日間、2日目はナイターもお付き合い、最後の3日目の締めは
イントラ全員でデモンストレーション

しばらくスキーしたくありません。

でも、22日から4日間・・・・イントラ・・・です。
天気予報は全て・・・雪降り!!。