斑尾山麓開発の成り立ち 6

昭和42年(1967)5月12日、県での総合打ち合わせ会の後、地域住民と飯山市が一致団結し菅平方式のよる斑尾開発の促進に協力すべき目的で、

「沼・万坂線期成同盟会総会」の席上、「斑尾山麓開発促進期成同盟会」会長飯山市長春日佳一が発足。

斑尾山麓開発促進期成同盟会 参加の関係市町村は、 飯山市  妙高村

信濃町  豊田村  妙高高原町  三水村  木島平村  野沢温泉村で

ありました。

昭和42年10月16日、「斑尾山麓開発促進期成同盟会」の会議において県企業局が正式に「観光開発を行う」ことを表明したのです。

斑尾山麓開発の成り立ち 5

昭和41年(1966)9月25日、準備会の熱心な働きかけで斑尾の地を訪れた、長野県企業局公営企業管理者である相沢武雄氏はじめ局の課長、係長、春日飯山市長、高橋県議会議員、江村観光課長(いずれも当時)他一行は、大川より大平を経て沼の池、分道より妙高村(当時)地籍の沼の原湿原までを視察、斑尾山麓の雄大かつ幽玄な自然に深い感銘と観光開発の限りない可能性を感じ、「菅平方式」による当地の開発に心良く賛同の意を表したのであります。

11月8日、豊田村(当時)を視察。涌井から軍平街道を歩いて涌井スキー場を視察。

12月3日、斑尾山の総合開発打ち合わせが飯綱観光会館で行われ、春日飯山市長の提唱で、野沢温泉村、豊田村の関係者、そして妙高村、高田支庁の関係者の出席もあり賛意を表したことは特記すべきことであったということです。

12月18日、黒姫山山麓の「シャレー黒姫」の竣工式の挨拶で、相沢構想の一端として斑尾山鉢巻道路開発は、夏だけの野尻湖が東山麓のスキー場とタイアップすることにより、冬季に野尻湖へと多角化され、反対に冬の東山麓が野尻湖へと結び夏向きのものとなる。斑尾と野尻、山と湖の一体的開発は北信濃の開発の一大拠点となると示唆しました。

また、25日の視察時、分道の裏山に登り、妙高村(当時)の地籍開発には村境を撤去する必要、官行造林地帯の折衝の必要性の見解を示され、沼の原湿原方面では、妙高村および東北電力との折衝、協力を求めて地域を確保すれば「森と湖」のような北海道風な観光地となる感想を述べています。

8日の視察時には、涌井スキー場の上部には永田村財産区の山があり官行造林地帯であるが、個人の土地があるのも気がかりである。村で買い上げ菅平方式を適用するのが望ましいと思うとも述べられ広域観光の可能性を語っています。

斑尾山を核として「雪の飯山」と「夏の野尻湖」を有機的に結び、山と湖の一体的な開発を図り地域住民の福祉の増進を目的とした長野県企業局の計画の基であります。

斑尾山麓開発の成り立ち 4

広大な斑尾山麓の開発を成し遂げるためには、住民側の力だけでは無理があります。

行政との一致協力のもとに観光開発にあたる「菅平方式」(住民が無償で提供した土地を県企業局が造成して分譲し、その利益を土地提供者に還元するという方式)を採用したらどうかと考え、

昭和41年6月飯山商工会を母体とした「飯山開発準備会」を結成し、関係住民の理解と協力を求め、長野県企業局をはじめ関係機関に対して積極的な働きかけを開始したのであります。