斑尾高原の八坊巡拝(はちぼうめぐり)・・・あるじのガイド

斑尾山の山麓には古道があり、この道は、古代の律令による官道のひとつで、延喜式に依れば近江国勢多駅(滋賀県)を起点とし、美濃国(岐阜県)、信濃国(長野県)、上野国(群馬県)、下野国(栃木県)、を経て陸奥国(青森、岩手県)に通じる東山道(あずまやまみち)からの幹線路で信濃から越後国府に至る北陸路である。そして、「遊歩百選」に選ばれた斑尾高原のトレッキングトレイルの一部はこの道を歩きます。

信濃と越後の境に位置する斑尾山の東山麓には、平安時代から鎌倉時代、その道の重要性から多くの集落が形成されていったと思われます。往来の多さや、当時の仏教布教などにて多くの寺院が建てられたことも記録に残されています。
親鸞(1173~1262平安時代終期)が1207年(承元1年2月30日)専修念仏の禁止により越後に配流された後、越後から常陸へ、関東方面への布教の旅の途中、この地を旅したのは建保2年(1214年・鎌倉時代初期)のことであります。
しかし、繁栄と共に山の木を切りつくし、また鎌倉時代に入り戦国の世の流れなどから街道がさびれたこと、3年続きの凶作等により、この地域の八人の僧が経文、仏像などをこの地に埋め永日の供養をして何処へ退散したのです。時に永仁元年(1293年)4月28日のことです。現在この地が八坊塚という地名で残っています。

永仁元年からおおよそ500年くらいが経過したころ飯山本町の忠右衛門(資料によっては七朗右衛門)なる者がこの地を訪れると霧の中に五輪の鐘の音が聞こえ、感じるままにこの地より八人坊が埋めた写経と如来仏像を掘り出し、飯山忠恩寺へ納めたという記録があります。
忠恩寺には、この記録と一致する曼陀羅佛というものが現存しています。
又、来迎三尊画像が現存していると言われています。

本願寺8世蓮如(1415~1499)は宝徳元年(1449年)に北陸、越後方面の布教に訪れ、その後、応仁2年(1468)に越後に入り親鸞配流の遺跡を訪ねて現在の妙高村の大鹿から豊葦、奥沼を通り信濃の国へ行ったといわれており妙高村大鹿の浄土真宗逢龍寺に蓮如筆と伝えられる6字名号があり、伝説も残されています。
奥沼部落にも寺があり、空海の弟子、慶順(1486~1592)が開山したとも伝えられています。

斑尾高原のホテル、ペンションが立ち並んでいる場所の地名は長野県側に飯山市字八坊塚、新潟県側に妙高村大字樽本字八坊主となっています。
このような歴史の記録から八人のお坊さんを偲び、707年を経過した西暦2000年の春、4月8日斑尾高原の中に8人のお坊さんを顕賞して石像が建てられました。
その石像には、青連坊 林西坊 専念坊 大林坊 佛道寺 西念坊 有曽坊
堂尊院と名づけられています。
この八体の石像は、仏教の正しい悟りへの道である「八正道」の正見(しょうけん)正思(しょうし)正語(しょうご)正行(しょうぎょう)正命(しょうみょう)正精進(しょうしょうじん)正念(しょうねん)正定(しょうじょう)を表していて、それが刻まれています。これらを拓本しながらの八坊巡拝(はちぼうめぐり)がひとあじ違った旅の記念になります。

「東山道」・・・・古代の国の分け方の呼び名であり、この場合は「とうさんどう」といい国の国府を結ぶ幹線路を呼ぶ時は「あずまやまみち」となる。
東山道(あずまやまみち)は、古代の都と東国をむすぶ重要な道であった。
大宝律令(701年)によって定められた令制東山道に対し、それ以前の東
山道を古(こ)東山道という。
東山道は、
陸奥(むつ・青森、岩手) 羽前(うぜん・山形)
羽後(うご・秋田、山形) 陸中(りくちゅう・岩手、秋田)
陸前(りくぜん・宮城、岩手) 磐城(いわき・福島、みやぎ) 岩代(いわしろ・福島) 下野(しもつけ・栃木)
上野(こうずけ・群馬) 信濃(しなの・長野) 飛騨(ひだ・岐阜) 美濃(みの・岐阜) 近江(おうみ・滋賀)
の13国からなり「あずまやまみち」は近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の8ヶ国を結ぶ約1000キロの幹線路として整備され、15キロ程度ごとに駅家が設置された。各駅には馬10頭が置かれていた。幹線路は近江勢多駅から陸奥国府を通り、胆沢城に至るルートである。
信濃国の経路は、美濃国坂本駅から信濃坂(中央アルプスの最南端、恵那山北部の神坂(みさか)峠、東山道の最大の難所でもあった。峠の頂上にある「神坂峠遺跡」からは、全国でも例を見ない数千点もの「幣」が見つかっている。幣は旅の安全を祈願し、旅人がささげた石製の模造品で、多くが鏡、剣、玉の三種の神器をかたどったもので、三つを一組にして紐を通し、木などに結びつけていたとされている。難所だった神坂峠の前後、美濃国「坂本駅」と信濃国「阿智駅」(下伊那郡阿智村)の間は約40キロも離れていた為、通常の2、3倍の馬が置かれていたと言われている。
また、万葉集に、防人(さきもり)として九州に旅立った信濃の若者の、「ちはやぶる神の御坂(みさか)に幣(ぬさ)まつり いわふ命は母父(おもちち)がため」 と残されている。作者は、埴科郡の神人部子忍男(みわひとべのこおしお)である。はるばる九州に埴科郡からおもむく途中、無事に神坂峠の頂上に着いたことを神に感謝した。信濃に別れを告げる峠の頂上で、あわせて故郷に残してきた父母の無事も神に祈ったのである。
阿智駅から、伊那郡を天竜川沿いをさかのぼり、育良(いらか:飯田市)・賢錐(かたぎり:上伊那郡中川村)・宮田(みやだ:上伊那郡宮田村)・深沢(ふかさわ:上伊那郡箕輪町)の各駅を経て善知鳥峠(うとうとうげ:松本平と伊那谷の境界をなす峠、標高889m)を越えて筑摩郡に入り、覚志(かがし:松本市芳川村井町、平安時代から信濃国府が置かれた)を経て、錦織駅(にしごり:上水内郡四賀村、保福寺峠えの重要な駅、越後国への東山道北陸路の分岐点)へ。
また、信濃坂が難路であったため、和銅六年(713年奈良時代初期)、駅路でない直路の吉蘇路(きそじ)を通り覚志駅(松本市)で伊那からの道と結んでいる。
保福寺峠・・・筑摩郡と小県郡を結ぶ重要な峠、保福寺峠の北の尾根にあり標高1345m、東山道の難所で険しい道であった。明治になってイギリスの登山家ウエストンが、この峠で北アルプス連峰を望み、その荘厳さに感動し「日本アルプス」と命名した場所である。
錦織駅から本道は東に方向を変え、保福寺峠を越え、小県郡浦野駅(うらの:小県郡青木村又は上田市浦野)に出て、亘理駅(わたり:上田市西部、対岸は中之条、千曲川を渡る重要な駅)で千曲川を渡り、佐久郡清水駅(しみず:小諸市西部)、長倉駅(ながくら:軽井沢町か御代田町付近)経て、碓氷峠を越え、上野国坂本駅に至る。

支路として
出羽路―陸奥柴田郡から分岐して出羽国府を通り秋田城に至るルート。
飛騨路―美濃から飛騨国府に至るルート。
北陸路―信濃から越後国府に至るルート。
斑尾山麓の西側を通る北陸路は「延喜式」によると四駅家が設定されたとある。錦織駅から分かれ北に向かい、更級郡麻績駅(おみ:上水内郡麻績村)を経て、犀川を亘理駅(わたり:長野市丹波島、塩崎付近)で渡り多古(たこ:長野市三才から田子付近)沼辺(ぬのへ:上水内郡信濃町野尻または古間)の四駅である。また「延喜式」によると和銅四年(711年)畿内にまとまって新駅が設置され養老三年(719年)に東北に十箇所の新駅が設置されていることから[東山道]もこの八年間に整備されたものではないでしょうか。
源平盛衰記によれば、寿永二年(1183年平安時代終期)に、木曽義仲が熊坂山(信越国境、妙高高原町東側)に陣をとった記録があることから、この頃から関川に沿った通路(現在の国道18号線)が開かれたと思われる。
古道は多くの山の尾根など、展望のきく所を選んでいることからみると、多古から牟礼をへて芋川に出て御所入から梨久保、親川を通り、堀越、踏津、堂平、分道をへて沼に至るか、あるいは、古間から、荒瀬原、涌井、を通って親川にでて沼までの二つのコースが利用され、沼から越後樽本をへて長沢を通ると越後国府に至ることができる。
沼辺が野尻または古間とすれば信濃国府から越後国府に至る道は関川沿いにあったことになる。難所の多いこの道より山の尾根を通る道ならば斑尾山の南東麓を通り奥沼部落(沼の原湿原)の萩原宿の辺が、別の資料によれば沼辺ではないかとも言われている。
当時、越後の国府は頚城郡にあったことが確実視されている。おそらく関川の本流に近い所に位置されていたと思われる。そうすれば沼辺から先は妙高村を通り、水門(みなと=現、直江津市)に通じていたのではないか。「延喜式」に越後国府を目指す東山道支路が沼辺までしか記載されなかったのは、越後国府を頸城郡に移した時期が、大宝2年(702)に越中国所属の四郡を越後国へ編入し、和銅5年(712)に越後国の出羽郡を越後より分け、出羽国とした直後で越後国府への官道の整備が遅れ、未完成の資料にて「延喜式」が編さんされたと考えられる。

このコースの一部が斑尾高原のトレッキングトレイルになっています。
この萩原宿は大変繁盛して、分道、堂平は萩原宿の新田として出来たとも言われている。江戸時代享保年間には七十五戸の家があったことも記録されている。関川沿いの道の往来が盛んになるにつれ、この山道が衰退し、堂平、分道、萩原宿の寺院も寂れ八人の僧侶が立ち去ることになった。関川沿いの道の整備からみると百年くらいの間に徐々に衰退をしたものと思われる。しかし、平安の時代から奥沼部落(萩原宿)が廃村(大正末期)になるまでの約1200年の間、繁栄と衰退を繰り返すも官道として重要だったことには違いないと思われます。

この駅路東山道の原初の道(古東山道)は、信濃坂を越えてから、天竜川沿いに北上して、宮田駅をすぎて北東に向かい、杖突峠(つえつきとうげ:伊那郡と諏訪郡の境をなす峠、標高1247m)を超えて山浦(やまうら:茅野市)へさらに東北に進み雨境峠(あまざかいとうげ:蓼科山西北麓、諏訪地方と佐久地方を結ぶ重要な峠)を超えて佐久郡に下り、佐久平を北東に進み碓氷坂に至ったと推定されています。

筑摩郡を経由する道は、大宝二年(702年、飛鳥時代終期)に開通の記録があり、東山道の最大の難所は、南の信濃坂峠、北の碓氷坂及びその中間にある保福寺峠であったが、東海道には幾つかの大きな川があったこともあって、大和朝廷における、陸奥、出羽の開発にあたって次第に重要な道となり、奈良時代の中ごろまでは主要道路とされていたに違いないと考えられます。

国の分け方は、蝦夷(えぞ)=北海道(ほっかいどう) 東海道(とうかいどう) 北陸道(ほくりくどう) 畿内(きない) 山陰道(さんいんどう) 山陽道(さんようどう) 南海道(なんかいどう) 西海道(さいかいどう)と呼んでいた。
「延喜式」・・・・飛鳥時代から奈良時代にかけ地方を含め国が出来初め、それらを治めるため広い分野で律令が行われる様になっていた。
「養老律令」の施行細則を集大成した古代の法典であり、「延喜五年」(905年)に藤原時平ほか11名の委員によって編集が開始されたのでこう呼ばれている。
その後も修訂が加えられ、40年後の康保4年(967年)に施行され、全50巻、条数は3000条、1~10巻(神祇官関係の式) 11~40巻(太政官八省関係の式)
41~49巻(その他の官司関係の式) 50巻(雑式)と律令官制に従い配列されている。

この様な正しい心にて人生を送りたい
・・・・・と思う・・・あるじの解釈

「八正道」・・・・釈迦は人生の様々な「苦」から抜け出す方法として八つの正しい道を解き明かしています。これが、正見、正思、正語、正行、正命、正精進、正念、正定という方法です。全てに「正」の字がついているのは「正しい」とし「真理に合った」・「調和のとれた」考えや見方、行動をさしています。

青連坊―正見― 自己中心的な見方や、偏見をせず正しい見方をする事。で多くの人と出会いいろいろな事を知ろう。
林西坊―正思― 自己本位に偏らず物事を考えること。例えば自分だけの為に意見を通したり、自分の意に添わないと怒ったり、不平、不満の気持で自分を通したりしないで、相手を大切に、本当の友達になろう。
専念坊―正語― 常に真理に合った言葉使いをする事。嘘や、悪口、口から出任せのいいかげんな言葉、都合や立場で使う二枚舌は止めて、心をこめて話し合い仲良くなろう。
大林坊―正行― 本能に任せる行動ではなく、正しい行いをする事。むやみに生き物の生命を絶ったり、盗みをしたりしない。悪いことは悪いと認められる素直な人になろう。
佛道寺―正命― 衣食住その他の生活財を正しく求める事。人の迷惑になる仕事や、世の中の為にならない職業によって生計を立ててはいけない。正しい生活にはやさしい心が必要、人の心を考える、やさしい心を大切にしよう。
西念坊―正精進― 自分に与えられた使命や目指す目的に対して正しく励み、努力する事。自分の目的を持って、がんばることの楽しさを知ろう。
有曽坊―正念― 正しい心を持ち、自己本位による区別をせず、真実の真相を見極め心を正しい方向に向ける事。自分が見たり、聞いたりしたことをしっかりと注意をして覚え、毎日の出来事、人との出会いを大事にしよう。
堂尊院―正定― 心の状態が正しい状態に定まり、決心が外的要因や変化に迷わされない事。定は心が落ち着いているという意味でしょう、穏やかな気持ちでいろいろな事を考えてみよう。
昔人に思いを馳せ、山郷の生活、時代の流れ、   仏教の諸行無常
斑尾高原では、歴史の浪漫と心のやすらぐひと時も体験できます。

あるじが、お勧めする八坊巡拝(はちぼうめぐり)の時間
1 朝食前の(6時~8時くらい)2時間
理由・・・時期にもよりますが雲海がすばらしいのと高原のすがすがしい空気に心が洗われる。適度な距離なので昨夜のアルコールが抜け、朝食が美味しく食べられる。
2 夕食前の(4時~6時くらい)2時間
理由・・・天候にもよりますが夕焼けがすばらしく、一日を振り返るのに雰囲気がある。適度な運動で、夕食が美味しく食べられ、アルコールがさらに進む。
拓本ができる斑尾高原 八坊巡拝の栞・・・・150円 で販売しています。

(2004年夏)

斑尾山の山名起源と薬師伝説・・・あるじのガイド

斑尾山は、「マダラオサン、マダラオヤマ、マダラサン」と呼ばれたり、単に「マドロオ」とも呼ばれ、奥信濃の人々には古くから親しまれています。
また、四季おりおりに、変化する山容の美しさ、人々の心に安らぎを与え、唱歌「ふるさと」に唄われているようにその広大な山麓の山なみは、ふるさとの山としての性質をも持ち、ゆったりとしたあたたかみを与えてくれる山です。

標高 1381,8mの薬師岳を主峰とした斑尾山は、第三紀から第四紀(170万年前)という遠い地質時代に出来た火山を中心とした斑尾火山群であり、西方には、妙高山(2446m)、火打山(2462m)などからなる妙高火山群、鍋倉山(1289m)、黒倉山(1242m)などからなる関田山脈が、長野県と新潟県の県境にまたがっています。
主峰が薬師岳と呼ばれているように、これにまつわるいくつかの伝説や山名起源説があり、山麓の人達には、ある種信仰の山の性格も持ち合わせていると言えます。
薬師岳の伝説は、和銅5年(713年 飛鳥時代の終期)泰澄法師(たいちょうほうし 白鳳11年(682年)、飛鳥時代中期、福井県生まれ、養老元年717年霊夢によって白山登拝を決意し、開山。人形、仏像彫刻では日本最初の達人ともいわれています。役小角(えんのおづぬ634年~)後の役行者(えんのぎょうじゃ)とならび修験道の二派とされていますが、泰澄は白山を道場とし、役行者は大峰山を道場とした。)が、越前より越後に赴く際、五輪山(米山 993m)の麓の大樹の下にて仮眠した時、神の夢告に五輪山の西南斑尾山に至る間、濁水奔流して人々大いに苦しみ、これを防ぐことも出来ず困難しているが、薬師如来を安置し、崇敬するならば濁水は清流となるであろうと告げられた、夢覚めて、一本の香木から二体の薬師如来を刻み、一体を五輪山に、一体を斑尾山に安置し奉仕すると、濁流は清く澄んだと言い伝えられています。

また、泰澄法師ではなく行基(ぎょうき・668~749飛鳥~奈良時代・民衆に仏教を広める傍ら、灌漑用水、橋の工事など交通の便を良くするなどの活動で民衆から”菩薩”と敬われる。743年聖武天皇に協力し東大寺大仏造立の必要性を説いた。国で最初の僧として最高の位である”大僧正”を受ける。又野沢温泉の湯を発見したとの一説もある。)とされてもいて、斑尾山の頂上近くの平らな石に座り栴檀の木(せんだんの木・ビャクダンの異称)で二体の薬師如来像を刻み、一体は里人たちが寺を造立し安置、真言宗堀能寺と名づけた。もう一体は、お告げを受けた五輪山の頂上にまつったとの説もあります。

米山(五輪山)の米山薬師(よねやまやくし)は、泰澄が開山したと伝えられ、米山薬師を護るのは、柏崎の別当寺密蔵院です。正式名称は「日本三薬師・別当密蔵院」と呼ばれており、神奈川県伊勢原にある宝城坊の日向薬師(ひなたやくし)、高知県大豊町にある豊楽寺の柴折薬師(しばおりやくし)とならび日本三大薬師の一つとされています。宝城坊は716年、豊楽寺は724年に、ともに行基が開山したと言われている。三河の鳳来寺薬師(役行者の兄弟といわれる利修仙人作)、日向の法華岳薬師(養老2年718年行基作)、越後の米山薬師を三大薬師と呼んでいるものもあります。725年には泰澄法師と行基は会っており親交を深めたと記録されています。

堀能寺はその後、荒れかけたが康平6年(1063年平安時代中期)に、源 頼義(みなもとのよりよし988~1082・鶴岡八幡宮を創建)が陸奥を平定し奥羽から凱旋の途中、薬師の霊験なるを聞き多くの寄進をして坊舎を修造し「荒千坊」と名づけた。地名の荒瀬原は、これに由来するとされています。

現在、山頂に祭られている小さな石の祠は、下荒瀬原即心院の奥の院にあたり、高さ約60センチ、横約45センチで中には13体の石仏がはいっていて、12薬師とされといることから一体は別の物なのか、又は、薬師如来と12神将(十二支にもたとえられている)であろうとも考えられます。
この石仏を、祠より出して、また元のように入れようとしても最後の一体はうまく収まらないと言い、出したまま下山し過日行くと、元のように自然と収まっていると言う伝説があます。また、この薬師にいたずらをすると天気が悪くなると伝えられ、雨が降ると里のお年寄りは、「だれかまた薬師様をいびったな。」といったものだとも言い伝えられています。

天長8年(831年平安初期)斑尾山が崩れ多くの岩石が麓まで落ちてきた。行基が薬師如来像を刻む為に座った石の一部も崩れたが、12薬師はその石を使い彫ったとも伝えられていて、斑尾山でも特に岩石が露出していて崩れた様な場所として、山頂より西に300m程に大明神岳(1350m)という峰があるが、ここが山頂近くの平らな石の場所ではあるまいか・・?眺望もすばらしい場所であり、しかし現在は、この場所から五輪山(米山)を見ることは出来ません。崩れる前は薬師岳山頂と同じような高さの峰であったろうか。

他に薬師像を納めた堀能寺が天授元年(1375年室町時代初期)火事にて消失し、幾多の歴史を経て元和元年(1615年)即心院と改められている。その後、慶安4年(1651年江戸時代初期)薬師仏像が焼失する事を懸念し、磐石の一片で石堂および石仏を造り、本像に換えて斑尾山頂上に安置したとも伝えられています。
山頂の祠の右側には”慶安四卯未四月”と刻まれており、左側には”享和元酉未六月”と刻まれているのが確認できます。
(慶安四年=1651年 江戸時代初期)
(享和元年=1801年 江戸時代中後期)

斑尾山の山名起原も様々なものがあり、その一つに空海(774~835年奈良時代終期~平安時代初期、没後921年に後醍醐天皇より弘法大師をおくられる)が全国布教の途中、観経の写経をこの山の峰に埋めたのが「曼陀羅の峰」まんだらほう=まだらほー=まだらお とも考えられ伝わっている。
その他、春雪の消え方が斑模様に残ることから斑山などと様々です。

江戸時代の古文書には、信州では斑山と呼び、越後では斑尾山と呼んでいたと記録されています。又袴岳(1135,3m)毛無山(1022,4m)も斑尾山の寄生火山であり、袴岳は、古文書に斑尾山袴峰と記録されています。
斑尾山周辺の地域には、この山に関係した言伝えや、伝説が数多く残されています。

小菅神社は役小角(えんのおづぬ)が飛鳥時代中頃、天武8年(679年)に来山したことから始まっています。
斑尾山麓の伝説に、北国街道を信濃に入った修行僧は、初め黒姫山麓に道場を構えたが、交通路に近く俗化したので、二派に別れ、一派は戸隠山に、一派は斑尾山に上がったともあります。
小菅神社はその後、行基が参詣し馬頭観世音を彫り、安置し、弘仁11年(820年平安時代初期)には弘法大師が東国への布教の際小菅山にて修行したとあります。
信濃と越後を隔てる関田山脈の中でも南端で独立した山として何らかの意味を持ち、又なだらかな山麓は交通路としても便利だったのではないかと思われます。

役行者、行基、泰澄、弘法大師の歴史からみると、日本仏教初期、山岳信仰の時代は薬師岳と呼ばれ、その後仏教が庶民化していく時代から斑峰、斑山、又は斑尾山と呼ばれて来たのでは と想像できます。いずれにしても、斑尾山の歴史は飛鳥の時代に始まっています。

 

斑尾山

斑尾山は、火山である。火山の最高点は1381,8mであり、火山としては、それほど高いものではない。侵食が非常に進んでいて、眺める方向からは、とても火山には見えない地形となっている。西側から見ると、火山斜面が残ってなく火山岩で構成される稜線は細く、シャープであり周辺の山地や丸みをおびた尾根とは異なる。
しかし、東側ではわずかに火山斜面が谷間にわずかに残り、北東側には、比較的火山斜面が残り、それに続く火砕流堆積面が広くは無いがあり、斑尾高原として地域が出来ているのがその場所である。
東側に残る火山斜面をもとに、接峰面図から等高線を西側に延長し、周辺の丘陵や山地の接峰面図の等高線と連続する方法で、斑尾火山の侵食される前の地形を復元してみると、侵食前は約1900mの高さがあったと考えられます。
しかし、斑尾火山の南西部の釜石山付近は、等高線が外に突出し同心円にならないことから、この地域は斑尾火山と別の火山があった可能性が考えられる。そして、寄生火山ではなく、斑尾火山より古い別の火山である可能性も、周辺の地層研究から考えられる。調査の方法、結果から斑尾火山は100万年前の火山であり、40~30万年前に周辺に火砕流を流下して活動を終えたと考えられる。
野尻湖周辺道路の樅が崎や松が崎などの岬で斑尾山の古い溶岩を見ることが出来る。

飯縄山

飯縄山は、二重式火山で現在の山頂になっている部分は外輪山にあたり、約25万年前から噴火を始めたと思われる。何回かの噴火を繰り返し、溶岩や火砕流が積み重なって富士山型の成層火山に成長し、最も高くなったときは標高2500メートルと推定される。その後、約20万年前、水蒸気爆発により山の西半分が崩れ、約15万年前から新しく噴火が始まり、怪無山、高デッキ、天狗山などの小さな火山が溶岩ドームを造りながら噴火した。飯縄山最後の噴火は約5万年前とされ、火山の噴火は黒姫山、妙高山の方に移動していったと推定されている。

黒姫山

黒姫山はやや丸みをおびた円錐型の火山であり、頂上は半円形の外輪山をつくっている。なだらかに見えるが約4万年前に水蒸気爆発をおこして出来た外壁の一部である。この時の爆発で山頂は大きく崩れ、北西方向に岩塊を押し出した、現在も北麓には数10メートルもある岩が多くある。黒姫山の東側山腹にやや小さく丸い小山、御鹿山がある、この山の溶岩の上には約7万年前の火山灰が堆積している。この様な古い火山が黒姫山の山麓をとりまいていて、約10万年前には標高の低い火山が活動していたと推定される。これらの古い火山を前黒姫山火山と呼んでいる。

妙高山

妙高山は、新しい火山の下には古い火山が隠されていて、その下にもっと古い火山が見つかっている。妙高山は三世代の火山が重なり合って出来た為に、複雑な地形を造っている。数千年前まで噴火を繰り返しており、今の地形が出来たのは約4千年前の大噴火で、火山灰は黒土の中でも黄色いゴマのような火山灰であることが特徴で、その時の火砕流の一部を関山の国道沿いの大きな崖に見ることが出来る。崖には大きな白っぽい岩石が多く混ざっている。この岩石を「関山石」と呼んでいる。

戸隠山

戸隠山は海底が隆起して出来た山である。戸隠山からはホタテガイをはじめ多くの貝の化石が見つかっている。また遠くから山を見ると、うっすらと縞模様が観察でき水中に堆積した地層で出来ていることもわかる。奥社周辺の岩に見られるように火山が噴火した時の溶岩の破片や火山灰などが固まった硬い岩で出来ていて、この岩の中に砂や泥の地層、貝の化石がみられ、海底火山の名残と考えられる。約500万年前、北信一帯は日本海につながる海であった。海底で火山が大規模に噴火し、その後約200万年前から大地の変動を受け盛り上がり続け成長していった。硬い岩であるために、岩の屏風のような山並みになり、崩れやすい岩の部分は洞窟となり、修験者の修行の場となった。

志賀高原の山々

志賀高原には、火山が多くあり新旧二つに分けられる。横手山・東館山・竜王山・焼額山・笠岳などは古い火山である。これらは長い間に自然の浸食を受け、火山体の一部は削り取られ不完全な火山体になっており、火口の跡もはっきりしなくなっている。
これに対し、志賀山や鉢山は侵食を受けてなく、火山体が噴出当時のまま残されている新しい火山である。
横手山は、約65万年前に活動し、火口は松川の源流部で硫黄鉱山の跡付近と推定されている。火口の西側にあった長野県側の外輪山はほとんど削られ残っていないが、山頂から群馬県側には火山体の一部が残っている。竜王山・焼額山・東館山は志賀高原の北側につながる火山で、いずれも約70~90万年前に活動していた。笠岳は、約170万年前に形成されたドーム状の火山で、この火山だけは溶岩を回りに流さず、地下から上がってきたマグマが地表近くで冷え固まって出来た「溶岩円頂丘」と呼ばれる火山である。
志賀山は、熊の湯と大沼池の中間にある火山で、志賀山と裏志賀山の二つの峰をもち、山頂付近の火口跡は池や湿原になっている。この火山の最初の活動は、約25万年前にはじまり、最後は約5万年前と推定されている。最初の活動は激しく、安山岩質の溶岩、火砕流、火山泥流を大量に流し、湯田中温泉の地下まで分布し、地表の分布は上林温泉付近で止まっている。噴出物の流れた跡には、凸凹の地形が出来、凹地には水がたまり湖沼が出来た。琵琶池・丸池・蓮池・木戸池・三角池などはこの様な池である。
志賀山の溶岩は、幕岩付近で角間川をせき止め湖が出来た。平床・出ノ原湿原などの平坦地は、この湖の湖底であり、石の湯周辺に分布する水平にたまった未固結の地層は、この湖に堆積したもので、その厚さは55メートルもある。
新期の活動は、大量の安山岩の溶岩で四方に流れ、四方とも当時と余り変わらない状態で残っている。西側に流れた溶岩流は、岩のしわが大きな渦巻状になっており、流れの方向をよく示している。信州大学自然教育園は、この渦巻状の溶岩がつくる台地の縁に当たり、その南に広がる「おたの申す平」は、この溶岩の中心部を占めている。
(2004年夏)