6月13日「沼・万坂線期成同盟会」が発足、
話し合いの中から斑尾山麓を長野県の保健休養地として、
みずみずしい自然の恵みを都会の人々に提供しようではないか。
昭和39年(1964)8月飯山市は市制10周年、10月1日には東海道新幹線が開通、10日からは第18回オリンピック東京大会開催(94ヶ国 5541人の選手が参加)、11月9日佐藤栄作内閣が成立など日本経済は大きく動き始めました。
40年代に入り、驚異的な高度成長を遂げた日本経済と共に、行政側より開発の動きが始まり、12月信越経済協議会において、斑尾山麓地域の開発計画が浮上、長野県と新潟県とを結ぶ林道沼・万坂線の道路改良を足がかりに、昭和40年(1965)6月8日「林道沼・万坂線期成同盟」が結成されたが観光開発のためには土地提供という形での地域の協力が必要であったため、計画ははかどりませんでした。
しかし、行政の動きと共に地域住民の側でも斑尾山麓の開発を推進しようという気運が次第に高まりつつあったのです。
シリーズでちょっと長くなりそうです。
昭和29年(1954)飯山市が誕生し、32年3月31日大田(現戸狩)観光協会、34年2月23日黒岩(現信濃平)観光協会が設立され、35年7月8日飯山市観光協会が設立されました。
スキーが観光の中心に成りつつある途上でも飯山市の出稼ぎ者の実数は、35年797人など深刻な過疎の問題を抱えていたのです。
斑尾山麓の開発によりこの問題の解決の糸口にしようと話が始まった昭和38年(1963)6月に開催された飯山市観光協会総会の場において、上野喜一氏から当時、有名無実であった大平観光協会を生かすためにも、斑尾山麓、沼の池周辺を観光開発地としての要望があり、行政を含めた現地の視察が行われました。 つづく。
大正2年(1913)1月12日と3月
飯山中学校(現飯山北高)の寄宿生が斑尾山にスキー登山。
昭和7年(1932)1月30日~31日
第10回全国スキー選手権及び第6回明治神宮スキー大会予選会が神明が丘に雪不 足のため、分道スキー場で開催。選手と役員は分道と堂平に分宿。
昭和8年(1933)11月16日
分道スキー場にヒュッテが完成。 分道に飯山最初の民宿が2軒誕生。(ご飯とみそ汁付きで一泊50銭,1軒5~6人の宿泊であった。)
昭和9年(1934)
1月6日 飯山、田口(妙高高原)間約20kmスキーツアーコース開きを分道スキー場ヒュッテにて開催。
1月28日、飯山、斑尾、田口スキーツアーコース開きでツアー実施。
2月18日、名古屋鉄道局主催の、田口、斑尾、飯山間スキーツアーで、女性子供を含め80名余りが完走。
昭和16年(1941)
2月16日 全国皆スキーに併せ飯山町民スキー行事で、坊主山と分道にてスキー行事実施。
昭和32年(1957)
3月10日 田口、斑尾、飯山スキーツアーが復活し、33年3月2日、34年3月1日、36年3月19日、42年3月19日と実施されている。
100年以上前から斑尾山でスキー行われていたのです。
斑尾という文字が飯山スキー史に登場するのは、明治45年(1912)1月23日飯山で市川達譲氏が初スキーをした日と同日、陸軍高田13師団の田口より斑尾、大川を経て飯山までのスキー行軍が行われた時であります。
田口(妙高高原)より古海、袴岳南斜面、万坂峠、沼の原湿原(湿原西トレイル)、毛無山東斜面、沼の池(希望湖)、大川、藤の木、飯山までの行軍です。
1月24日には片山稲荷西北斜面にて飯山町民にたいしてのスキー実演が行われたそうです。
長野県にスキー伝わったとされる1月23日に行われた二つの出来事は偶然だったんでしょうか。
市川達譲氏が、スキーをしたのが陸軍高田師団より後だとしたら、飯山スキー史は変わっていたかも知れません。