斑尾高原って何県・・・?

斑尾高原観光協会が発行しているパンフレットや、斑尾高原の宿泊施設が独自に自己の施設紹介等の広告・宣伝に使用する時の住所は、
長野県飯山市斑尾高原 が使われています。
しかし、
斑尾高原のほぼ中央を、長野県と新潟県の県境が走っているんです。
飯山方面からの道路から斑尾高原に入ると、上りきった正面に案内看板と
”MADARAO RESORT” のプレートが花に囲まれた芝生の中にあります。通称 ロックガーデンと呼んでます。
現在は3メートル近い雪の下ですが・・・
道路右側には、観光協会が管理するビジターセンター「まだらお高原 山の家」があります。
ロックガーデンを右折しますと神秘的な湖「希望湖」、春は水芭蕉・リュウキンカ等が咲き、秋まで様々な花が見られる「沼の原湿原」方面になります。

希望湖方面からロックガーデンに向かって、道路の右側側溝が県境で
そのまま斑尾高原ホテル方面の道路の右側側溝と続き、ホテル前の三叉路まで伸びています。
車の場合は飯山から、この三叉路までは長野県を走ってる訳です。
道路から様々なお店が並ぶ駐車場に入ると、そこは新潟県になるんです。
県境は、斑尾高原ホテルのほぼ中央を走り、ゲレンデに抜けチャンピオンコースを斑尾山の北の峰に上り、稜線を西の峰からタングラムスキー場との境を万坂峠に下っています。
斑尾山山頂は、長野県です

現在、斑尾高原の行政区としては、新潟県妙高市斑尾区には77施設、長野県飯山市斑尾区に50施設となっています。

斑尾高原の開発当時は、現在のように道路が妙高市まで通り抜けが出来ず、飯山からの道路のみで、他地域に行くには飯山経由だったんです。
住人家は新潟県になるんで、営業許可申請は上越の保健所になるんですが、電話や新聞は飯山市になり、手紙なんか
おらっちから高原ホテルに正式住所で手紙をだすと、先ず飯山郵便局から妙高郵便局に当然まわります。しかし妙高方面から道路が無い為配達できません。そこで、飯山郵便局に差し戻され、そこからの配達になるため、隣に出した手紙が約一週間かかったという笑い話のような本当の話があります。
現在も、道路を隔てて中部電力と東北電力に分かれているため、どちらかが停電でもどちらかは電気が点いていたり、場所によってテレビも長野の放送・新潟の放送と違ってたりしています。

開発当時、飯山からの道路のみということで、斑尾高原は「飯山市斑尾高原」とし全国に宣伝活動をした訳です。それが現在も使われています。

ちょっと晩酌の量多かったかなァ~
何かまとまんねー文章だらだら書いちゃいました。

斑尾の住人は歴史が好き

斑尾高原の住人です。
一番の古株で、ひょっとしたら「古だぬき」かも・・・
タヌキという動物は昔からキツネと同様「人を化かす」なんて言われて来ていますが、タヌキは結構臆病でその姿は愛嬌があるんです。
そんなところは、ひょっとしたら住人にダブルかも知れません。
1972年に斑尾高原は開発され34年間、古だぬきは昼な夜な高原中を徘徊し
いろんな情報をポンポコ腹に詰め込んできました
それをこれから少しづつ
物語風に…?  書き込んで行きたいと思います。

樽本地区について・・・あるじのガイド

斑尾山の北側、沼の原湿原から関川に流れ込む土路川に沿って、上流から上樽本、中樽本、下樽本と言う集落が続く、更にその下流に土路と言う集落があり、全体を豊葦地区と呼んでいる。

古代の官道「東山道」の支路として考えられる中で、現在の豊葦地区の歴史は平安時代にさかのぼると考えられます。

この地区の歴史的資料は少なく、どの位の資料があったかは不明であるが、明治35年の春の大火により、唯一歴史資料が集められていたとされる中樽本村の公民館が総戸数25軒中20軒と共に焼失し、更に解明は困難になっています。

周辺地域の歴史的資料から考えるに、起源は今から1000年前、「東山道」の支路が整備された頃と思われます。

「平家物語」に木曽義仲(1154~1184年)と不和になった源頼朝が義仲を討つために信濃に出陣すると、義仲は「依田」の城(長野県丸子町)を出て信濃と越後の境にある熊坂山に、寿永2年(1183年)陣を構えたとあり、又その前、1180年に依田城を本拠地にして、1181年(治承5年)6月14日横田河原(長野市)にて、越後の豪族「城助茂」(じょうすけもち)を討伐し、翌15日には関山を通り、越後国府(上越市)に入り、越後守となっている。この時妙高山に一光三尊阿弥陀如来を安置したと記録にあります。

越後国府に入った義仲は、北陸を固めるために各地の城を築かしています。

また、寛冶3年(1089年)に作られたとしている、「往昔越後之図」別名「寛冶之図」と呼ばれるものがあるが、この図によれば、妙光山(妙高山)、関川、大田切、小田切、松崎、大鹿の地名が記されていて、これらを見ても、これらの時代に先人が入植していたものと考えられます。

上樽本の集落成立は、同地区の小出家の過去帳に小出家の祖は源平時代の武将で一族を率いて、豊臣、徳川に仕え信濃守に従ったとあり、豊臣滅亡後は、戦乱の余波を受けて一族を率いて樽本に逃げ込み、焼畑農業を行い、開拓をして住みついたと伝えられています。

小出家の祖である秀政は、秀吉と同じ尾張中村の生まれで、小出秀政と長男、吉政は慶長5年(1600年)の関が原の戦いでは西軍につくが、二男の小出秀家が東軍方として活躍し、その功にて秀政、吉政も許され、但馬出石藩6万石の旧領を任せられています。しかし、出石の小出宗家は世継ぎがなく断絶してしまい、その後徳川家康の勢力が強大となり、豊臣との対立抗争の時代になるが、どうした事情か大阪夏の陣 (慶長20年、1615年)には徳川勢についています。その後元和5年(1619年)秀政より三代目、吉政の二男吉親(よしちか)が初代、京都園部藩城主となり小出家は、その後10代にわたり園部藩を領しています。10代小出英尚(ふさなお)は、慶応3年(1867年)12月に入京して市中見廻り役を務め、鳥羽・伏見の戦いには参加せず、情勢によっては明治天皇を園部城に移すという新政府の戦略に応じ、翌年1月から城郭の緊急改造を行っています。その後吉親は信濃守に国替えをしたとあり、小出家一族もこの吉親に同行し樽本に居残ったと言われます。小出家の守り神である観音堂(もぐさ観音)は信濃国田上の分霊とされていて、小出家の過去帳最古の法名は寛永7年(1630年)で、小出吉親の時代と大体一致しています。

 

上樽本は、周りを山に囲まれ人目につかず、守るには容易な地であり、また土地が肥え、農作物が豊かで充分自活できる環境に着目したのではないでしょうか。

開拓当時、土路川の西側に小出家が、東側と下樽本に木賀家が番人として見張り、敵の侵入に備えたという記録があります。

 

木賀家の祖も、源平時代の武将であると思われます。源頼朝の家臣で木賀善司吉成という文武に優れた武士で、ある時病にかかり死期を迎えようとしている時、老僧に「西の方の温泉がある、それに浸かればきっと良くなる」と言われ、老僧と共に箱根の地まで来、老僧が「涌甘露消減除衆病悩」と唱えると温泉が湧き出し、建久4年(1193年・鎌倉時代の始まり)のことである。善司はありがたく温泉に浸かると病が治った。以来、この温泉を木賀と呼びこの地を木賀の里と呼ぶようになったと伝えられています。現在も箱根に木賀温泉はあり、木賀の里というバス亭もあります。

 

小出家、木賀家双方の祖が源平時代の武将であり、源頼朝の家臣とするならば、木曽義仲の討伐のためにこの地に来たものか、それとも義仲と共にこの地にきて、何らかの事情にて山深く移り住んだものとも考えるとしたとき、小出家の歴史のある戦乱を避けこの地に移り住んだとある時代より古い時代に、両家の祖はこの地に移り住んでいたことになります。

源平時代の武将として一族を率いてこの地に入植したとしたら1200年前後となり、1550年前後には樽本城等が出来、集落が形成し始めていたはずであります。小出家の祖吉親が信濃に国替えし、一族とこの地に来たとすれば1630年前後となり、小出家の祖政重(秀政の父)が尾張の国中村の出身と、どういうつながりがあるのだろう。当時越後を治めていた平氏の「城助茂」(じょうすけもち)と源氏との争いは、義仲が城助茂を討つ前からあり、この時越後に入った源氏の武将にも関係があるのかもしれません。

小出氏をさかのぼると、藤原為憲という人の周りからはじまる。桓武天皇(かんむてんのう・737~806年)の皇子「葛原親王」の孫に「平 高望」(たいらのたかもち・889年平の姓を賜る)の子「平良文」(たいらのよしふみ。平将門の叔父にあたる家柄)の娘と藤原椎幾との子が藤原為憲であります。

藤原為憲の7世「行政」(二階堂の姓を名のる)の9世の孫の「時氏」が信濃国伊那群に住むようになって「小出氏」を称した。その時氏の孫「祐重」が尾張国愛智群中村に住むようになったと記録にあります。

「多聞院日記」(たもんいんにっき・興福寺の学侶・多聞院英俊法印の日記)には、「小出播磨守は大政所の妹を妻にして、太閤一段の御意合なり」と記され、「寛政重修諸家譜」にも、秀政の室を「豊臣太閤秀吉の姑」としています。同じ尾張国中村の出身として早くから秀吉に仕えていたと思われ、岸和田城主になったのは、天正3年(1585年)である。秀吉の死のときは、片桐旦元と共に秀頼の補佐を依頼され、関が原の戦いの時は、秀頼の補佐として大阪城に居たらしく、秀吉の信頼も厚かったと思われます。

信濃国伊那郡に住むようになった「小出氏」が源平の時代の流れ、源氏・平氏の様々な経緯により、この地に来たのではないかと考えます。

 

木賀氏もさかのぼると、後醍醐天皇(ごだいごてんのう・1288~1339年・第96代天皇)の第8皇子「宗良親王」(むねながしんのう・1311~1385年)の子「タダナガ親王が至徳3年(1386年)源朝臣姓を賜ることにはじまり、それから4世貞安の時、祖父江氏・富田氏と共に、木賀氏を称しています。祖父江氏は尾州津島を中心に活躍し織田家に仕えています。

「宗良親王」も南朝勢力の挽回の為、全国を戦い歩き文和元・正平7年(1352)には南朝から征夷大将軍に任ぜられたともいい、越後を転戦して興国5年(1344)には信濃国大河原(長野県伊那大鹿村)に南朝武士「香坂高宗」を頼り、正平10年(1355)には越後から信濃諏訪に抜けています。「宗良親王」は30余年ここ信濃伊那群大河原を拠点にしていたために「信濃宮」と呼ばれています。

小出家・木賀家とも年代は違うが信濃国伊那に関係があり、これは東山道・古東山道において、伊那という地が関東・越後・関西など各方面に分かれる要所であり、信濃国府の近くでもあり、政治的、戦略的などに関係があったのではと考えられます。

 

両家の祖の言い伝えが1180年代(源平時代・平安時代終期)に始まり、次に歴史に出るのは1590年代(安土桃山時代)からであり、この間の、鎌倉時代、(1199~1335年)室町時代(1336~1570年)は戦国時代であります。越後の国上杉と信濃までを治める武田、の戦いの他、越後内での勢力争い等の中で慶長12年(1608年)に福島城(上越市港町)に移るまでの約250年間は動乱の時代でありました。

 

春日山に近い樽本城は、信越国境に近いことから重要な役割を果していたようです。城主は上杉謙信の臣下で「樽本 弾正」と伝えられ、大字樽本甲字城に所在した中世の山城であり、現在は城跡中央に薬師堂がまつられています。春日城を守るために頸南地域には、確認されているだけでも35の城館跡を数えています。

川中島の戦いの為、上杉の軍勢がこの地を通り信濃に向かった記録もあります。

しかし、樽本に住む、本来武士の系統の人々がどのように戦国の世に関わったかは不明であります。

 

この樽本地区が、忍びの者的性格をもつ里の可能性を想像します。古くから戸隠講がこの地区にも発達しており、九頭竜権現に対する信仰があったと思われ、戸隠の山伏や衆徒により情報の交換、様々な教えが伝えられたのではないか。その証としてこの地にも「烏踊り」が独特の歌詞にて伝えられています。時代により豊臣、徳川双方に仕えたこと、もう一つの地域名「豊葦村」の葦は、草にも例えられた忍びの者の例えに関係があるのでは、また、武士の系統である者が、重要な陸路の近くで農民に姿を変え、田畑を耕して信越国境の道筋警備をしていたことなど、戦乱時代、周辺の勢力争いの中に重要な役割を持ち影響を与えたのでは、また情報を元に一族を守るため戦乱の世の流れを読んで来たとも想像できます。

 

現在、樽本地区を守り、住む人々は70歳を超える高齢の人が多いが、言葉使い、気品の高さ、人への接し方などは、祖が武士であることを思わせるに疑いようのないところであります。

信濃の国の山を越え、そして奥沼部落跡(沼の原湿原周辺)を通り、樽本に入る所に越後方面を見渡せる高台がある、樽本地域、頚城平野、春日山、日本海、佐渡島、そして、入り組む山なみは、様々な歴史の移り変わりを想像できる絶景の場所であります。

 

豊葦村=伝説、口碑によると約1000年前とされ、正長年間(1428~1429年)に信濃の奈良沢村と樽本村の国境を両国の立会いで定めたとされている。

樽本村=古くから山を越え信濃との交通路があり交流も盛んであった。江戸期から明治22年(1889年)までの村の名である。江戸初期は上樽本村と別れていたが、のちに樽本村一村となる。天和4年(1684年)には、樽本と記されている。

 

この頃より国境の争いが活発になり、元禄15年(1703年)信濃の国水内郡、北条村、顔戸村、富倉村、奈良沢村と越後の国頚城郡、小沢村、平丸村、長沢村、樽本村とが山婆獄、経塚平、斑尾山にかけて、境界を争った。原因は、国境を越え、薪や材木をみだりに切り出した事にあったと記録にはあります。

元禄15年11月22日幕府の判決は越後の言い分となり、現在の県境とほぼ同じものであります。

豊葦の地名由来・・・あるじのガイド

豊葦という地の由来を探し、さかのぼると、舎人親王(とねりしんのう676~735年 天武天皇の皇子)がまとめた「日本書紀」(720年)や、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ 7~8世紀頃生没年不詳)によませた天皇家の歴史や神話を、奈良時代になって元明天皇の命令で、太安万侶(おおのやすまろ ?~723年)がまとめた現存する最古の歴史書「古事記」(712年)全3巻の内、上巻の神代の物語、日本神話から始まります。

宇宙ができはじめたころ、天上の高天原(たかまがはら)には様々な神が現れ、瞬時に姿を消していき、これらの神は単身で現れたが、やがて男女対になった神々が次々に出現し、最後に伊邪那岐命(いざなきのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の男女2神が現れたのです。
伊邪那岐命と伊邪那美命は、天津神(あまつかみ・高天原に生まれた神々)からさずかった天沼矛(あめのぬぼこ)を雲の上の天浮橋からさしおろして、海の水をかき混ぜた。引き上げた矛の先からしたたり落ちた子塩が固まり、オノゴロジマ(於能碁呂島)が出来ました。二人はこの島におり、男神の体の余分な部分と女神の体の不足している部分を合わせ、日本列島の形をなす大小8つの島が生まれたとされています。
天浮橋=(あめのうきはし)天に浮く橋であり高天原と葦原中国を繋ぐ空間的な接地であると考えられ、空にかかる「虹」の様なものとイメージされる。
天沼矛=(あめのぬぼこ) イザナギが海へと突き刺した矛。そこからオノゴロジマが生まれた。それは、性行為を暗示しているとも言われている。互いの体の余分なところ、不足しているところを合わせる部分も同様である。

国生みが済むと、様々な神を次々と生んでいき最後にヒノカグツチノカミを
生む時、イザナミは火傷を負い死んでしまいます。イザナギは、地底の「黄泉
国」(よみのくに=正しくは「よもつくに」と読む。日本神話の死の国でありイザナミ
が支配している。暗く邪霊などが住み「黄泉平坂」=よもつひらさか・で現世と分けら
れています。坂すなわち境でありイザナギにより道を塞がれ自由に行き来できなくなっ
たこの境を護るのが道祖神であるとも言われている)にイザナミを訪ねるが、その
醜さに逃げ出し黄泉国と現世の境、黄泉平坂を大岩で塞いでしまいます。イザ
ナギは身を清める為の禊(みそぎ)をすると、捨てた杖や衣服から次々と神々
が生まれ、最後に左目を洗うと、高天原を治める「天照大神」(あまてらすおお
みかみ)、右目を洗うと、夜の国を治める「月読命」(つきよみのみこと)、鼻を
洗うと、海原を治める「須佐之男命」(すさのおのみこと)が生まれました。
しかし、長女の「天照大神」は、2人の弟の狼藉(ろうぜき)や傍若無人さ
を怒り、事を起こしています。

「月読命」(ツキヨミノミコト)は、食物を管理する「保食」(ウケモチ)と
いう神を殺害する悪神として表されています。天照大神は弟の月読命の行為に
激怒し勘当してしまいます。以後太陽と月は昼と夜に分かれて住む様になった
と言う「日月離反」の発祥であります。殺害されたウケモチの体からは多くの
穀物が生まれ、それらは、アマテラスによって人間にもたらされています。そ
のためツキヨミは悪神とされながら人間に食をもたらした恩人でもあります。

「須佐之男命」(スサノオノミコト)の狼藉に怒ったアマテラスは天上の岩窟
天の岩屋戸に引きこもり「天の岩屋戸」事件となる。

この事件が収拾すると、スサノオはヒゲを切られ、爪を抜かれて天上を追放
され出雲(島根県)の国、肥河(ひのかわ)の上流、鳥髪(とりかみ)に降り
大蛇ヤマタノオロチの生贄にされそうになっていた「奇稲田姫」(クシナダヒメ)
を助け、ヤマタノオロチを退治することになります。その後、二人は一緒にな
り、須賀(島根県大原郡)に宮を造り平穏にくらします。スサノオの活躍は、
天界、地上界、冥界と広域にわたる。亡き母を恋い求めてやまない幼児性と傍
若無人な振る舞い、怪力と巧妙な知恵が混じり荒々しい姿を創り上げています。
日本武尊(やまとたけるのみこと)と共に、日本神話の代表的な英雄でありま
す。
スサノオの六代目の子孫に「大国主神」(おおくにぬしのかみ)がいるが、出雲
大社の祭神であります。

オオクニヌシ(大国主)は出雲に行く前、兄のヤソガミ(八十神)に連れ添
い因幡(いなば)国(鳥取県)にて、兄たちにいじめられたイナバのシロウサ
ギを救います。ウサギの予言に嫉妬した兄たちに、オオクニヌシは何度も殺さ
れかけ、祖先のスサノオがいる堅洲国(かたすくに)に逃げ、スサノオの娘ス
セリビメノミコト(須勢理毘売命)と出会いむすばれます。2人はスサノオか
ら授かった支配者の象徴となる太刀と弓を持って地上界に戻り、悪い兄弟たち
を追い払い出雲国を治めることになります。

しかし、高天原を統治するアマテラスオオミカミ(天照大神)は、下界も自
分の子供が治めるべきと考え、雷と剣の神タケミカヅチノカミ(建御雷神)と
船の神アメノトリフネノカミ(天鳥船神)を派遣し、オオクニヌシの息子のタ
ケミナカタノカミ(建御名方神)との力比べの勝ち、オオクニヌシノ一族は地
上の国を譲ることになります。この国譲りは、皇室が祖先神とあがめる天照大
神への出雲国の服従を意味しており、大和朝廷と地方豪族との関係を反映して
いると思われます。

大国主命(おおくにぬしのみこと)や須佐之男命(すさのおのみこと)等の
神々が高天原から降臨した出雲国の様な地、高天原と黄泉の国の間にある人間
が住む世界を「葦原中国」といい、四方を高い葦で囲まれた世界であると考え
られていて、高天原に対し豊葦原とされています。

高天原と豊葦原の関係

高天原には3つのイメージがあり、
第一は、天上界と地上界という抽象的区分での天上界という意味での「高天原」
で、対する地上界が「豊葦原の水穂の国」で、日本列島全体を意味する
第二は、高天原は、宇佐、中津地方を中心とする邪馬台国そのものである。
第三は、高天原が、卑弥呼を盟主とする九州北部から西中国にかけての九州王
朝(倭国)である。これと葦原中国と対比する場合が多く、この葦原中国
とは、出雲を中心として勢力があった出雲王朝を意味している。

葦原中国も、
第一、天上界(高天原)に対する地上界としての日本列島全体。
第二、出雲神話における、出雲を中心とする中国地方。
第三、三世紀邪馬台国時代における、中津、宇佐地方を中心とする豊の国を天下の中心とする北部九州

この様に、神々が降臨する地、日本列島を別の呼び方で、「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらみずほのくに)とか「蓬莱」(ほうらい)ともある。

天照大神が、他の神に降臨を命ずる場合、
「豊葦原之千秋長五百秋之水穂(とよあしはらのちあきのながいほあきのみずほの)国」、千秋長五百秋は千年も五百年もで、いつまでもという意味、水穂は瑞々しい稲穂。 豊葦原という長く久しく稲穂の実る国に行くこと。と命じている。

越後の南、周りを山で囲まれ人目につかない土地に入植した先人達が、これから住む場所の地名を考える時、神を尊び敬い、神の近くに居たいと思うのは当然のことで、自然条件の厳しい所ではなおのことである。皇室の歴史や神々の神話をまとめた「古事記」が編さんされ約300年を経過した中で、これらに通じた先人、または「天の岩屋戸」にまつわる戸隠の修験者によって伝えられた、歴史、神話の中より一族の住む場所を「豊葦」と位置づけ呼ぶようになったものと考えられます。

これらから、豊葦村は、伝説、口碑にあるように約1000年前(平安時代中頃)に始まっていると考えられ、樽本村が呼ばれるようになるのは、春日山代を守るため、謙信、景勝時代の天正12年(1584年)の書状に、「信州口や春日山城大手口の砦を厳重に警戒するよう」と命じている。しかし、天文22年(1553年)には川中島の戦いの為に豊葦村・樽本を抜ける街道が戦略目的路と利用されています。この時代に豊葦村に、山沿いにある信州口の砦として城が出来、謙信の家臣「樽本 弾正」(たるもとだんじょう)が城主となり城の周りを位置付ける為に、上・中・下と分けこの地を自分の性をとり樽本と呼び始めたのではないか。城主「樽本弾正」であるが、弾正とは本来、人名ではなく律令制度の役職の位で、正五位と言うのが弾正である。つまり上から五番目ということで「弾正大弼」(だんじょうだいひつ・正五位の上)と「弾正小弼」(だんじょうしょうひつ・正五位の下)という使われ方をしている。城主・樽本は、謙信の五番目くらいの家臣であったと推察できます。

沼の池(希望湖 のぞみこ)・・・あるじのガイド

斑尾火山の流動性に富む溶岩流の末端のへこみに水をたたえたもので、西側は毛無山(大平峰)と溶岩の末端でさえぎられています。

池の東方に湧水がある他、川と言えるほどの流れ込む川はなく、ほとんどが雪解け又は雨水による伏流水からの湧水であり、透明度は4~5mくらいあります。周りは

大部分が国有林で、スギ、ミズナラ、カラマツなど様々な樹木に覆われ斑尾山を映し出す神秘的な湖であり、斑尾高原を訪れる人々には人気のスポットの一つでもあります。

記録には、約430年前の天正時代(安土桃山1573~1591)に初めて壕を開き、文化2年(1806江戸時代中期)堤防にて水面を広げ、天保6年(1836)改築、安政2年(1856江戸時代終期)に大修築とあり、近年になっても幾たびかの修築があり、昭和28年に設立された下水内中部土地改良区が、昭和28年から36年の8年間に1678万円の費用にて総延長365メートルの堰堤工事が完成し、現在に至っています。南北740メートル、東西380メートル、周囲2440メートル、最深部11メートル、平均5メートル、最大貯水量48万5900トンであり、沼の池の水は、飯山市柳原、外様両地区の農家約400戸、約200ヘクタールの水田で稲作が出来、地域にとっては重要な水であります。湖北側の島の様な場所に弁財天が祭られていて、その石碑には、文化2年、天保10年の文字が刻まれているのが確認でき、古くから「命の泉」としての関わりがしのばれます。

享保年間(1716~1735江戸時代 将軍吉宗の時代)は、飯山にて水田耕作が盛んであり、皿川下流では沼池からの水量では足りず、また、飯山全体でも水不足であり用水問題は深刻であったようです。

飯山の中でも沼の池から流れる皿川の水は、大川、山口、藤ノ木等の村々と愛宕、伊勢町、有尾、市ノ口、小佐原の五ヶ所との間で争論が絶えなかったとあり、飯山町、奈良沢、愛宕町、小佐原等において用水不足のため溜池を築きたいが用地が無く、越後樽本村地籍の内前坂に溜池を築こうと、同村と交渉、越後国頚城郡樽本村庄屋又兵衛と信州水内郡飯山町の奈良沢、愛宕町、小佐原、上町の各組頭との間にて、年十両にて承認、契約の記録が残っています。

 

いずれにしても、飯山は水不足の問題を抱えていました、その為に山間の湧水、自然の小さな沼から流れる水を利用し稲作をしたものと思われ、分道、堂平、牛ヶ首等は山間の傾斜地を広げて耕作を行ったと思われます。

 

観光協会として中部土地改良区の旭用水委員会より借り受け、ボートやフィッシング、周遊トレッキング等で観光に使用し、昭和56年(1981)には、沼の池から希望湖(のぞみこ)と改名し現在に至っています。

 

標高 約850メートル、雪解けから5月初め頃までは周辺に多くの水芭蕉が見られ、池の南側に飯山市の天然記念物にも指定され、北信地区では数箇所しか見られないと思われているヤエガワカンバの大木があります。胸高幹囲2,5メートル、樹高は約20メートルあります。カバノキ科で樹皮が重なってはがれる為に、八重皮樺(やえがわかんば)の名があり別名・コオノオレともいい環境省のレッドデータブックにも絶滅危惧種に指定されている貴重な木です。

半島の様に張り出した場所には、樹齢300年を思わせる,胸高幹囲3,8m 樹高約18m 直径1,3mブナの巨木もあります。またこの地域の特異性としては、シラカンバ林の中にダケカンバが混生していることとウチダシミヤマシキミが多いことなどがあります。

 

沼の池に関わる伝説

昔、柳原の南條部落に「こく衛門」という男がおり、この男乱暴者ではあったがなかなかえらい男でもありました。川中島の戦いの後、上杉謙信は武田信玄の軍勢に追われ安田の渡しまで逃げてきたが、その時、こく衛門が渡しの綱を切って信玄の追っ手を足止めし、謙信を越後に逃がしました。謙信は命の恩人である「こく衛門」を呼び、「望みの物はなんでも与えるから好きな物を言え」といったところ、こく衛門は柳原地域が水に不便をしているのを思い、「他になにも望みはありませんが、沼の池をいただきたい」と言いました。謙信は、こく衛門の望みを聞き入れ沼の池を彼に与えました。当時沼の池は、越後領であったが、水は信州側に流れ落ちるようにしたのです。

謙信にまつわる、安田の渡しでの綱きりについては、様々な説があります。安田の渡しは「綱きりの渡し」とよび、これに架かる橋は今も別名「綱きり橋」と呼ばれています。