毛無山スノーシューハイク

昨日、スノーシューハイクで毛無山、この辺では大平峰とも呼んでいますが・・
毛無山は1022m、火山斑尾山の寄生火山で斑尾山の北側に位置しています。斑尾山とこの毛無山の溶岩の流れによって出来たのが、沼の池(希望湖)なんです。

天候に恵まれ、9時「まだらお高原山の家」出発。「沼の池」(希望湖)の上を縦断、湖の上が歩けるんです。
別に一面結氷硬いシャーベットの上を歩いてるんです。
だから、スコップで穴か掘れるんです。

ワカサギ釣りならぬ・・・冬のバス釣りでも出来そう・・ですが
そんなことすれば、いい加減にしろ!!って言われそう。・・・・ですが
寒い間は釣れません。      深~ィところで春待ってるんでしょうね。

毛無山の頂上からの眺めは最高でした。
参加された方も、そのすばらしさに登ってきた疲れを忘れしばし見とれていました。

西に妙高山、そこから左に黒姫山・戸隠山・飯綱山、遠くには北アルプス、南側の正面に斑尾山の北斜面が、斑尾山の左遠方には八ヶ岳、その手前からはすそ長く根子岳(2207m)四阿山(2354m)土鍋山(1999m)御飯岳(2160m)志賀の笠岳(2075m)横手山(2305m)志賀山(2036m)寺子屋山(2125m)岩菅山(2295)正面に高標山(1747m)そこから左になだらかにカヤノ平、遠くに鳥甲山(2038m)苗場山(2145m)、そして城蔵山(1675m)大次郎山(1662m)野沢温泉スキー場の上、毛無山(1649m)と続きその稜線は栄村を通る千曲川に落ちている。

北側は、黒岩山から鍋倉山(1289m)と続き関田山脈の終わりまで、稜線の交わる奥には雪で今だ真っ白に八海山(1778m)方面が見渡せます。

眼下には千曲川をはさんで、野沢温泉村・飯山市・木島平村・中野市・山の内町・須坂市までがみえます。

スノーシューハイクに参加された方のブログにそのすばらしさを見ることができます。

毛無山から見る東に野沢の毛無山、西にARAIスキー場のある大毛無山、昔から木のない山をそう呼んだんだと思います。だから全国のいたるところに毛無山はあります。

希望湖から湿原にかけてと毛無山の南斜面には、カモシカの足跡がいっぱい見ることが出来ます。
ホウノ木やミズキの木の芽が膨らみかけてたり春を感じさせる物も見ることが出来た約3時間のたのしい楽しいハイクでした。

しかし、夜になると鼻がぐしゅぐしゅ、目はなみだとかゆみというおまけがついてしまいました。

八ヶ岳

長野県を代表する新聞に「信濃毎日新聞」がありますが、その中の特集という紙面に連載されている「八ヶ岳」というのがあります。
題字は「田部井 淳子」さんのものです。
田部井さんは斑尾にも2度いらしておられますが、斑尾高原のトレイルと信越トレイルのイベントでした。
2度とも、おらっちが現地のガイドとしてご一緒させていただいています。

18日の紙面で「八ヶ岳」も50回になりました。
今回は、八ヶ岳に入る登山者の安全を守る諏訪地区山岳遭難防止対策協会の隊員の方々の現況が書かれています。

山に入る人たちの状況や学校における山岳部の実態、山で起こる事故に対処する隊員の問題など・・・・

やはり直面している問題は、高齢化という問題のようです。
主要な母体である山岳会員の減少と高齢化傾向が原因の一つでもあるといえます。

遭難救助となると年のことは忘れ、「気持ちを切り替え、誰も泣き言を言わない」という人ばかりという頼もしくもあり尊敬さえも感じる。

下界にいる我々には想像も付かない、意志と体力と使命感をもった人たちの集まりのような気がします。

山が好きだけでは勤まらないしごとであります。

この記事の最後に、諏訪地区遭体協の隊長が、「ほそぼそとも山岳会の入ってくる若者を少しずつ育てるしかない、山岳救助は命を預けあう厳しい面があるのだから、本当の山好きにこそ入って来て欲しい」と期待を込めて呼びかけている。と結ばれています。

ちなみにこの隊長は、おらっちの実兄であります。
この冬も事故が無いことを願うばかりです。

北信五岳ーおまけー志賀高原の山々

北信五岳を見渡せる志賀高原
斑尾山・妙高山・黒姫山・戸隠山・飯綱山を北信五岳と決めるのに、眺めた場所と思われる志賀高原。
おまけに、この山々の話をちょこっと!!。

志賀高原には、火山が多くあり新旧二つに分けられています。
横手山(2305m)・東館山・竜王山・焼額山・笠岳(2076m)などは古い火山であり、これらは長い間に自然の浸食をうけ火山体の一部は削り取られ不完全な火山体になってしまっていて火口の跡もはっきりしなくなっています。
これに対し、志賀山や鉢山は浸食を受けていなくて火山体が噴出当時のまま残されている新しい火山であります。

横手山は約65万年前に活動し、火口は松川の源流部で硫黄鉱山の跡付近と推定されていて、火口の西側である長野県側の外輪山はほとんど浸食により削り取られ残っていませんが、山頂から群馬県側には火山体の一部が残っています。
竜王山・焼額山・東館山は志賀高原の北側につながる火山で、いずれも70~90万年前に活動していたとされていて、笠岳は約170万年前に形成されたドーム状の火山で、この火山だけは溶岩を回りに流さず地下から上がってきたマグマが地表近くで冷え固まって出来た「溶岩円頂丘」と呼ばれる火山です。

志賀山は熊の湯と大沼池の中間にある火山で、志賀山と裏志賀山の二つの峰をもち、山頂付近の火口跡は池や沼、湿原になっていて、この火山の火山の活動は約25万年前に始まり、最後は約5万年前くらいと推定されています。
最初の活動は激しく安山岩質の溶岩、火砕流、火山泥流を大量に流し、その地層は湯田中温泉の地下まで分布し、地表の分布は上林温泉付近で止まっています。
噴出物の流れた跡には凸凹の地形が出来、凹地には水が溜まり湖沼が出来ています。琵琶池、丸池、蓮池、木戸池、三角池などはこれによって出来た池です。

志賀山の溶岩は、幕岩付近で角間川をせき止め湖を造ったとされ、平床、出ノ原湿原などの平坦地はこの湖の湖底であり、石の湯周辺にたまった地層はこの湖に堆積したもので、その厚さは55mにも及ぶとされています。

新期の活動は、大量の安山岩の溶岩で四方に流れ、当時と余り変わらない状態で残っています。西側に流れた溶岩流は、岩のしわが大きな渦巻状になっていて流れの方向をよく示しています。信州大学自然教育園は、この渦巻状の溶岩がつくる台地の縁にあたり、その南側に広がる「おたの申す平」はこの溶岩の中心部をしめているのです。

斑尾山からは東には鳥甲山(2038m)直線距離にして27,5km 36,5kmには苗場山を望むことが出来ます。
斑尾山から見て志賀高原の笠岳の右、白根山の方向先約200kmが東京になります。

北信五岳ー戸隠山

やっと、最後の戸隠山まできました。
これで、北信五岳・・・・の説明責任果たしました。

戸隠山とは、表山(八方睨・1911m)をいいます。表山の三角点は八方睨(はっぽうにらみ)ではなく、八方睨から3~400m北によった地点、別名岩戸山です。
乙妻山(2318m)・高妻山(2353m)の山域、西岳(2035m)・五地蔵山(1995m)・九頭龍山(1883m)を中心とした山域からなる戸隠連峰のひとつです。
一不動から戸隠山、西岳までは絶壁の岩稜が屏風のように連なっていて、蟻の戸渡り、剣の刃渡りと名付けられた難所です。
神話では天照大神が隠れた時、手力男命がこじ開けた天岩戸が飛んできた山といわれています。
戸隠山は、海底が隆起して出来た山です。
戸隠山からはホタテガイをはじめ多くの貝の化石が見つかっていて、遠くから山を見るとうっすらと縞模様が観察でき水中に堆積した地層で出来ていることが想像できます。
奥社周辺の岩は、火山が噴火した時の溶岩の破片や火山灰等が固まった硬い岩で出来ていて、この中に砂や泥の地層そしてその中に貝の化石が見られ海底火山の名残を見ることが出来ます。

約500万年前、北信一帯は日本海につながる海であり、海底で火山が大規模に噴火し、その後約200万年前頃から大地の変動を受け盛り上がり成長していったと考えられています。
硬い岩であるために岩の屏風のような山並みになり、崩れやすい部分は洞くつのようになり修験者の修行の場となっていったのでしょう。

斑尾山の山頂から直線距離、約21kmです。

北信五岳ー飯綱山

飯綱山(1917m)は穏やかな山容で見た目には独立峰に見えるんですが、
霊仙寺山(レイセンジヤマ1875m)瑪瑙山(メノウヤマ1748m)などからなってるんです。
奈良時代から山岳宗教の零場、飯綱修験道として知られ飯綱権現や飯綱忍法の発祥の地でもあり、山頂近くには飯綱神社があります。
登山道には多くの祠もあります。

修験道の地は戸隠のほうが知られていますが、飯綱や黒姫の方が先という見方もあります。山の近くの往来が激しくなったころに、修行の場を求め奥の戸隠山の方に移って行ったようです。

二重式火山で、現在の山頂になっている部分は外輪山にあたり、約25万年まえから噴火を始めたと思われています。
何回かの噴火を繰り返し、溶岩や火砕流が積み重なって富士山型の成層火山に成長し、もっとも高くなったときは標高2500mくらいと推定され、その後約20万年前水蒸気爆発により山の西半分が崩れ、約15万年前ころから新しい噴火が始まり、怪無山、高デッキ、天狗山などの小さな火山が溶岩ドームを造りながら噴火したと考えられています。
飯綱山の最後の噴火は、約5万年前とされていて、火山の噴火は黒姫山、妙高山の方に移動していったと推定されているんです。

斑尾山山頂から飯綱山山頂まで直線距離にして約16.5kmです。

飯綱山は正式には 飯縄山 であります。
飯縄は「飯砂」であり、「天狗の麦飯」(学名・テングノムギメシ)と呼ばれる土中の菌類が多く産出していて、それが山名になったとも言われています。
明治中期に絶えてしまったんですが、天保年間(1830~1843)に出された「善光寺道名所因会」というものの中に、「上面の砂を取り除き、岩の際を手にてすくい出せば麦飯のごとく、栗飯のごとく、採って服するに柔らかにして、何の香なく、風味とてなし・・・・」と飯砂のことを書いてあります。