黒姫山の由来

その1
信濃の国中野の城主、高梨民部大輔摂津守政頼に黒姫という大変美しい一人娘がいました。このお姫様に、沓野奥四十八池の総大将で志賀高原の大沼池主、黒竜(大蛇)が恋をして、黒姫が16歳の時「嫁入り願いたい」と政頼に申し入れたから城中は大騒ぎになりました。
「蛇身にして姫を申し受けようとは何事ぞ、黒竜を撃ち殺せ」となったが、黒竜は炎を吹き大軍を引き連れ大雷雨とともに高梨城に攻め寄せてきた。
高梨城では、弓矢、鉄砲で応戦し黒竜を撃ち殺したが、四十八池からの洪水と雷雨によって高梨城は滅亡しました。
このため黒姫は、亡くなった人々や悲恋に滅んだ黒竜の霊を慰めようと姫獄山に登り黒姫弁財天に諸願を祈り、蛇に恋された自分を恥じて山頂近くの池に身を投じてしまいました。7月17日のことであり、その山は以後黒姫山とよばれるようになりました。
中野市や黒姫山山麓では、黒姫の冥福を祈る黒姫祭を毎年7月17日に行なっています。

その2
大沼主の大竜(黒竜)が若武者に姿を変え、高梨城主に黒姫を「嫁入り願いたい」の申し入れに「馬の競走に勝ったら姫をやろう」と言ったが、城側の策略によって若武者は落馬してしまった。これをうらんだ黒竜は、洪水と大雷雨で城を押し流そうと企んだ。その結果惨憺たる状況の高梨城周辺を見た黒姫は、約束を守らなかった父親を責め護身の鏡を空に投げ上げ黒竜の心を静めようとしました。
黒雲と共に黒竜が現れ背に黒姫を乗せ、鏡に導かれるままに五つの山の中で一番美しい山の頂に飛んだ。
鏡の落ちたところが鏡池であるといわれています。
黒姫は、罪の無い人々を苦しめたことを責め、黒竜は涙を浮かべ許しを得て、以後黒姫と黒竜は誌や幸せに過ごしたといいます。

中野の高梨氏は戦国時代の永正ころになると、平安時代末期以来中野に繁栄してきた中野氏を滅ぼし、現在の小布施・中野・山之内・木島平を支配圏におさめる強大な勢力に発展し本拠地を移したとされています。
鎌倉時代の高梨氏は、諏訪神社上社関係の文書に山田郷・北高梨・林屋・上浅野・小島郷などが所領とされています。そして北高梨を本拠としていたようであります。
高梨氏は武士団として、鎌倉幕府の滅亡や北条氏の没落、南北朝の内乱では足利尊氏の属して、北信濃の押さえとして勢力を増し所領を拡大していったと思われます。
文明・応仁年間(1467~86)になると中央の戦乱が地方まで波及し信濃でも守護小笠原政秀が討たれるなど北信濃も戦国的様相が深まりました。
高梨氏は、越後と近いことから戦国時代の当主高梨政盛は越後の長尾能景に娘を嫁がして、その子為景は能景のあとをうけ越後守護代になっています。
為景は守護の上杉房能の政策を公然と批判、政策をめぐり対立、永正4年(1507)房能を殺害、高梨政盛もこれに加担しています。

ちょっといつもの癖が出てしまいましたが
高梨のその後は、我が郷土飯山にも関係しますが・・・・次の機会に
そでないと、延々つづいてしまうのです。

この高梨氏館跡は土中に10棟余の建物跡があり保存状態も良く
空堀と土塁に囲まれた東西約130m、南北約100mの12400平方メートルが国史跡の指定を文化審議会が答申したばかりです。

このように、高梨氏は善光寺周辺から15世紀半ばから上杉家と共に16世紀末に会津に移るまで北信濃に大きな影響を与えていたのです。

長くてすみません。・・・・・・
第2ダン・・・おたのしみに!!。

史料では永禄2年(1559)3月に高梨の居城が落城となっていますが・・・この時代の・・黒竜は、信玄の北信制圧の将・・春日弾正なのか・・・?

その2 からは長尾為景なのか・・・?

北信五岳ー黒姫山

黒姫山(2053m)は斑尾山から直線距離にして13kmです。
斑尾山の頂上からは、また大明神岳からは目の前に見えます。
典型的なコニーデ火山(現在はこういう呼び方はしないそうですが)で見事な円錐形の山です。
ですから、その山容から「信濃富士」ともよばれ、頂上には半円形の外輪山があるんです。
なだらかに見えるんですが、約4万年前に起きた水蒸気爆発によって出来た外壁の一部であり、このときの爆発で山頂は大きく崩れ、北西方向に岩塊を押し出しています。現在も北麓には、数十メートルもある岩が多くあります。
黒姫山の東側山腹にやや小さい丸い小山「御鹿山」がありますが、この山の溶岩の上には約7万年の火山灰が堆積していて、この様な古い火山が山麓を取り巻いていて、約10万年前くらいには標高の低い所で火山が活動していとと推定されています。
これらの古い火山を、「前黒姫火山」って呼んでるんです。

黒姫山の由来は・・・・・
黒姫山にはいくつかの伝説があります。
黒姫というお姫様にからむ伝説から呼ぶようになったと地元の人たちは話しますし、寛仁4年(1020)恵信という僧侶が、万民豊薬・仏法興隆を祈願して、黒姫弁財天の像を刻んで奉納したことから黒姫山というようになったとも言われています。

その他の伝説は、次回に・・・・・

シリーズに復帰ー北信五岳ー妙高山

やっとの思いで復帰です。
何がやっとなのかはわかりませんが・・・・・
二ヶ月ぶりくらい・・・・?
しかし、5回シリーズだなんてイッチャッタカラ年内にはシリーズ完結しなくっちゃ
そこで、いやっと言うくらい書きまくってきた・・・そしていまだに気になる妙高山

いつもと違って、本来の山のお話・・・・

妙高山(2454m)は妙高連峰と総称されてる中心で、赤倉山・三田原山・神奈山・前山と名付けられた外輪山が囲んでる典型的な複式火山なんです。
複雑な地形を造ってるのは、新しい火山の下には古い火山が隠されていて、その下にはもっと古い火山が見つかってるんですよ。
妙高山は三世代の火山が重なり合っているんで
そういうことで複雑なんです。

親亀の背中に~小亀を乗せて~
小亀の背中に~孫亀乗せて~

孫亀が現在見えてる妙高山って言うことかな・・・?
なんちゅう例え・・・なんだ。

数千年前まで噴火を繰り返していて、今の地形(孫亀)が出来たのは約4千年前の大噴火で、火山灰は黒土のなかに黄色いゴマのような火山灰があることが特徴なんだって。
その時の火砕流の一部を、関山の国道沿いの崖に見ることができます。崖には大きな白っぽい岩石が多く混ざっていて、この岩石を「関山石」って呼ぶんだそうです。
斑尾山から妙高山までは、直線距離約15,5km
奥に見える火打山(2462m)までは約20,5kmです。
妙高山は日本百名山にも選ばれていて、その山容から越後富士とも呼ばれてるんだよ~~。

あと三回・・・がんばるぞ~   近々黒姫山にいきたいと思いま~す。

妙高山・その2の2

妙高山にまつわるお話は、あるようで無いし、無いようであるんじゃないかと思いいろいろ調べまくっていますが・・・・。
<タム>さまには、いろいろと情報ありがとうごじゃります。

さて、昔々能登半島から北陸地方の日本海側の地域を、越と呼んでいた時代があったんです。
大化の改新(645)の頃です。
越(高志・古志)と呼ばれ、7世紀末に北陸地方が高志の前(くち)越前・高志の中(なか)越中・高志の後(しり)越後の3つに分かれました。
大宝2年(702)には、頚城・魚沼・古志・蒲原の4郡が越中国から越後国に移されています。

その後、越中の国は能登半島が編入し天平18年(746)には、越中国守として万葉の歌人、大伴家持(大伴旅人の長男718~785)が就任しています。
万葉集の中で家持は、越中を「越中守」・「越中国守」・「越中風土」と漢字で表現しているが、万葉仮名で発音する場合は、すべて「コシ」であります。

この時代の越中(高志の中)を代表する山として妙高山は、高志(こし)の中山なかやま)と呼ばれたとありますが、万葉集の中では高志の中山とか妙高山とか名香山とかは一つも詠まれていません。越後の中で詠まれているのは弥彦です。2かしょで詠まれています。

妙高山は古くは「越(こし)の中山(なかやま)」と呼ばれた。その中山が名香(なか)山となり、名香山では漢詩などに詠み込むのに具合が悪いので、音読みして名香山(みょうこうざん)となり、さらに字を飾って妙高山となった。現にこの山の麓には、名香山(なかやま)村の名を存している。
「日本百名山」 深田 久弥薯より

とある。
名香山村と言うのは1955年4月10日に妙高高原村になり、1956年9月30日に杉野沢村が合併し、1969年10月1日妙高高原町になっています。
2005年4月1日新井市になっています。

古代には、高志の中山・越の名香山と呼ばれ、中世には木曽義仲、戦国時代には上杉謙信が仰ぎ見た妙光山、そして現在は越後富士と呼ばれている妙高山。
木曽義仲が、山頂に阿弥陀如来像を安置し、上杉謙信も信仰した山を「妙光山」としたのも、朝日に輝く妙高山(須弥山)を見れば解るような気がします。

妙高山・その2の1

そろそろ、妙高山の続きにとりかからねば・・・。
妙高山って何時頃から妙高山・・・? と呼ばれたんでしょう。

仏教からの呼ばれ方と地域的は呼ばれ方などいろいろ考えられます。
仏教からの考えは、・・・とっても長くなります。
それでなくても、おらっちの話の長いのはご存知の所ですが・・・・

そもそも、日本に仏教が伝わったのは何時のことなんでしょう。
いまさらの事ではありませんが、昔からこれには多々説があったようです。日本史上において最も古い議論は、約1200年ほど前の弘仁年間(810~824)だったらしい。
最澄の552年説と護命の538年説とであります。
いずれも、「日本書紀」(日本最古の歴史書、神代から第41代持統天皇(女性天皇)までの出来事を漢文でまとめ720年に完成)の内容やその他の書物の中に書き留められている事柄によってであるんですが、第29代天皇「欽明天皇」の時代です。
百済(くだら)の国(朝鮮の古代の国で新羅(しらぎ)・唐の連合軍に攻められ660年に滅んだ。仏教がさかんで多くの僧や技術者が日本に渡来し住み着いた)の聖明王が、仏教・経典・僧などを欽明天皇年間に遣わしたと記されていることによるものです。
双方が唱える説の要因から見ると538年が信憑性が高いとされているが、「日本書紀」は欽明元年を540年としているんです。
「元興寺縁起」や「法王帝説」を基にしている信憑性のある説とすれば、538年に欽明天皇の代が始まってなければいけないことになるんです。

仏教、いわゆるお釈迦さまの教えの中に宇宙に関する考え方があり、直径が太陽系程の大きさの円盤が3枚重なった上に、高さ約132万kmの山が乗っていてこれが一つの世界としています。
この山を「須弥山・しゅみせん」と呼んでます。須弥山はサンスクリット語のスメールの音写であり、三蔵法師「玄奘」はこれを「妙高山」と漢訳したんです。

「玄奘」三蔵法師(600?~664)はインドの旅から戻ったのは、645年の1月です。約20年を持ち帰った経巻657部1335巻の漢訳に捧げ、旅の様子を弟子に口述筆記させ「大唐西域記」としてまとめたものが、後に「西遊記」となったんです。

と、いうことで妙高山として日本に入ったのは、664年以降、遣唐使が仏教の漢訳を持ち帰り、何らかの容にて誰かがこの地を修行中に、その容姿から須弥山「妙高山」と名付けたのでは・・・・・。

インドの須弥山とされる「カイラス山」は西チベットにそびえる標高6714mの独立峰で、外輪1周53kmが巡礼の路となっている。平均4000m~5000mくらいの非常に厳しい条件の路のようです。カイラス山の容姿・地域の地形はまさに妙高山にそっくりです。白山から火打山・妙高山までの修行の路も似ている部分です。黒姫山・飯綱山・戸隠山と続いていたのかも・・・・。

日本に妙高山ってもう一つあるんです。 知っていましたかぁ~。
兵庫県丹波市春日町市島町にあるんです。標高は564,8mでやはり山頂にはお寺があり、修験道の霊地として開かれたとあります。

ちょっと長くなってきたぞ~
細かいことを書いていくと今夜中には終わらないかも・・・・
地域的は説は・・・・明日かな?