つかの間の喜び

大雪の後、春のような暖かさと雨、それでも15日の午後から久しぶりの太陽を見たのに
16日の午後には、もう又雪が降り始めた斑尾高原です。
以前のように、積もり方は少ないですが
つかの間の喜び・・・・・で終わりました。

この大雪は、残念な事故が多かったです。
この、飯山地域でもいくつかの事故があり、そのニュースを聞くたびに複雑な気持ちになります。
おらっち達は、冬雪が無ければ商売になりません。
この地域も、昔から雪を利用した産業で活性化をして来ました。

飯山市の観光の考え方の中に、”雪は飯山の宝物”としてのとらえ方があります。
観光産業に携わることのない人たちは、この様な雪の降り方、雪が及ぼすマイナス影響を体験する中で、はたして宝物と思うことが出来るでしょうか。

斑尾高原の中の宿泊施設の中にも、14日の暖かさによって屋根の上に積もっていた雪が落ち、そのために建物の破損が発生した処が数件あります。

34年間、様々な変化に対して知恵を出し合い、互いに汗をかきながら対処して来ましたが
自然の変化には、私たちはどうしようも出来ないんですね。

昨日から、第二弾のスキーインストラクターやってます。女子高生10人引き連れて、声がかすれるほどしゃべりまっくってます。
明日,もう一日ありますが、ちょっとだけでも晴れて雄大な景色みせてやりたい!
今日一日、吹雪の中でした。おまけにガスも出て視界は最悪
でも、生徒さんの明るさと、ノリの良さに救われ楽しかったです。
明日ために

量もほどほど

2006年元旦 なんて良い天気なんだ。
2005年12月から降り続いていた雪が止み、そして久しぶりに太陽の顔をみて、アァ2006年は、良い年になるんだ…ワン

と思いきや…本日3日、朝から雪かきの一日でした。
今日の雪の積もり方は… 異常です。
道路は大混乱・斑尾高原から長野駅までの直通バスは
予定の1時間15分を大きくオーバーして、3時間10分を要したとか。
長野市内も雪でのろのろ・・・

何でも多けりゃ いいってもんじゃねえんだよォ

って猛吹雪の中、除雪機のハンドル握って鼻水流しながら
叫んでしまいました。
夜、この吹雪の中、JAZZ聞きながら酒飲みに来てくれたお客さんに感謝。
シングルモルトのBOWMORE12年 1杯 サービスしちゃいました。
この酒のヨード感で風邪ひかないように…なんちゃってって。

天気予報では、斑尾高原の上空は10日くらいまで雪が降るんだってよォ。
何でも、ほどほどが一番。
明日も、朝から除雪がんばります。

斑尾高原とリュードルフィア線(Luehdolfia Line)・・・あるじのガイド

リュードルフィアとは、ギフチョウ属の学名です。

ギフチョウは明治16年、岐阜県益田郡金山町祖師野にて、名和昆虫博物館(岐阜市)の初代館長「名和 靖」氏によって発見された。岐阜県にちなみギフチョウ(岐阜蝶)と名付けられました。

220余りの種類が棲んでいる日本の蝶の中でも、ギフチョウはゼフィルスと並んで最も人気のある蝶であります。

(ゼフィルス=本州では6月から7月にかけて年に一度のみ出現し、卵で越冬するシジミチョウの1群の25種(日本国内では)を蝶の愛好家はゼフィルスまたは略してゼフと呼んでいる。年に一度しか会えないこと、緑色にメタリックに輝く種類が多いことから人気がある。また、高い所にととまる種類が多いため目にする事が少ない。)

ギフチョウ属の蝶は早春まだ残雪が残っている頃、人里近くの雑木林から飛び出す小型で可憐な美しいアゲハチョウ科の蝶であり、そのために春の女神とも呼ばれています。

ギフチョウ属で日本に生息するギフチョウは、ギフチョウとヒメギフチョウの二種で、この二種が日本列島のほぼ中央で住み分け、西日本にギフチョウ、(Luehdorfia japonica)東日本にヒメギフチョウ(Luehdorfia puziloi)が分布しています。

ヒメギフチョウは細かく分けると、北海道に棲むエゾヒメギフチョウ(Luehdorfia puziloi yessoensis)と信州を中心に棲むLuehdorhia puziloi inexpecta)とに分けることが出来る。幼虫の形態が多少違います。

その他に、中国にはシナギフチョウ(Luehdolfia chinensis)オナガギフチョウ(Luehdolfia lonngicaudata)などが棲息している。ロシアのウラジオストック近辺には、エゾヒメギフチョウのルーツではないかと思われるウスリーヒメギフチョウ(Luehdorfia .puziloi.puziloi 原名亜種)が棲息している。しかし、これらは日本のように調査が徹底されておらず、まだ生態など未知の部分が多く、その面での魅力もある蝶であります。

 

ギフチョウとヒメギフチョウの棲息の境界線をリュードルフィアライン(線)と呼んでいます。リュードルフィア線は、両種とも分布しない空白地帯とされているが、斑尾高原は、日本で四箇所しかない両種が混生する地域の一つとして注目されてきています。

ギフチョウ属は、日本に棲息するチョウの中で最も古い形質をもつとされており、交尾に際し雌の腹端に受胎嚢(じゅたいのう)を形成し、雄の腹端に似せることで再交尾を防ぐという特徴があります。

古い形質をもつことと美しいことなどから、詳しく研究、調査から大陸から北周りの経路で日本に侵入したヒメギフチョウからギフチョウが分化したことが解ってきた。そして、分化した原因の一つに食草にあることが言われています。

新潟県の混生地では、ギフチョウがコシノカンアオイを、ヒメギフチョウがウスバサイシンを食べて育つこと確認されているそうです。混生地の一つである姫川渓谷の大網や大所ではコシノカンアオイは生育せず、そのためギフチョウはウスバサイシンを食べ、時には同一の葉に両種の卵が産み付けられるのが確認されています。これは、ギフチョウがヒメギフチョウから分化した証拠の一つとされていて、ヒメギフチョウは成虫になると、約一週間しか生存できない為、見かける機会が少なくなっています。

ギフチョウは、レッドデーターブックにおいて、絶滅危惧Ⅱ類とされています。

 

斑尾高原では

北西斜面にコシノカンアオイが、南東斜面にウスバサイシンが多く生育しているが、ウスバサイシンが一部北西斜面のスキー場の中にも入り込んでいるのを見ます。

一般に後から分化した種の方が環境への適応があるとされていて分布を広げていて、ギフチョウの場合も、コシノカンアオイとの関係から生息域を広げたと考えられます。

斑尾高原での混生は、隔離され残ったヒメギフチョウの分布域にギフチョウが侵入してきたと考えられているようです。

開発によりコシノカンアオイもウスバサイシンも残っている所が限られているが、ここ数年ギフチョウを確認する事が多くなっています。斑尾高原ホテルの西側やペンションの近くのコシノカンアオイに卵が確認されており、高原中央の駐車場でもギフチョウが飛ぶのを確認しています。

こうした文章を載せると、とんでもない族(やから)がアミをもって山にはいってきます。 が斑尾高原では、数十人のレンジャーが巡回パトロールにより監視をし、チョウの生息域を守るための活動を行っています。

食草がある所の近くに、カタクリ、ショウジョウバカマ、スミレ類、ツツジなど紫系の花があるところでは見かけるチャンスがありますが、これは、紫系の花から好んで吸蜜するからであります。

 

また、土路川の下流域には、6月中旬から8月下旬まで「国蝶」として知られているオオムラサキが見られることがあります。標高が高くなると食樹のエノキ(榎=ニレ科)がなくなるため河畔に沿って生育していると考えられます。

斑尾高原で確認される蝶として、食肉蝶のゴイシジミがいます。ゴイシジミは幼虫時、アリマキ(アブラムシ)の幼虫のみつを吸い、成虫になるとアリマキ自体も食べます。これらを含めて、斑尾山周辺では、約80種におよぶ蝶が棲息しているとされています。

カンアオイ=カンアオイの名前の由来は、カンアオイの葉が厚いために寒い冬の間も枯れないことから、寒葵 と呼ばれた。日本には、50~60種類ものカンアオイ類があると言われている。その葉に出来る模様の美しさから、江戸時代には観賞用として盛んに栽培された。斑尾に見られるコシノカンアオイの、コシ は「越」で越後や北陸地方に分布するものである。

ウスバサイシン=「薄葉細辛」は、カンアオイの仲間で、カンアオイより葉がうすく、根茎が細く辛味が強いから名付けられたもので、カンアオイ、サイシン共に根茎は「せき、たん」の薬草としても用いられています。

斑尾高原の植物・・・あるじのガイド

 

斑尾山を頂点とし、東南の山麓が豊田村、東側が秋津、飯山、大川地区となり、飯山盆地の海抜は平均320メートルとすれば山頂は1381,8メートル、その中間900メートルから1000メートルが高原地帯で最も開発が進んだ所となっています。

斑尾山の植物は、低山帯(標高500m~1500m)の植物で占められていて、代表的なものはブナで、ミズナラ、カエデ、シラカンバ、クリ、サクラ、などが混じっています。

斑尾山の木は伐採が繰り返され結果、ブナの大樹はほとんど見られないが、ブナの幼木は山麓から山頂まで見られています。

現在も山頂から高原地帯にかけブナ林の他、周辺の林がコシノカンアオイを育てギフチョウの生息を可能にしています。

ブナの他、ミズナラが多くその中にイタヤカエデ、ウリハダカエデ、ホウノキ、サワグルミなどが大樹に成長しています。

伐採の後に植林も盛んで、中腹から山麓にかけてはカラマツにより大部分が占められ斑尾本来の植生ではないように思われ、植林の多くはカラマツで、次いでスギが多く、山麓にはアカマツも見られます。

伐採後、植林されず放置された所には、陽地植物であるシラカンバの侵入が見られ各地にシラカンバが多く、春や秋にその白さが良く目立ちます。

斑尾山系での植物の特徴は、亜高山帯(海抜1500~2500m)植物とされている種類が多く見られること。植林地以外に針葉樹林帯が無いのに、ゴゼンタチバナのような林床植物があること。標高800m付近に数は少ないがダケカンバがありシラカンバ、ウダイカンバ、ヤエガワカンバが混生している。また、ユキツバキが北と北東斜面を中心に、林床に多く見られるのも多雪地帯の裏日本型の植生を物語っていると思われます。

斑尾山腹の湿原や湿性草原にはカキツバタ、ノハナショウブの群生も見られます。

 

斑尾山麓がリゾート開発されるにあたり、開発による植生の変化や自然破壊が懸念され現状を詳細に調査し今後に備え比較する基準や郷土の自然を後世に伝える目的で、1971年から3年をかけ、飯水教育委員会創立90周年の記念事業の一つとして、自然調査特別委員会の方々が貴重な調査結果をまとめています。

この時の調査では、シダ植物 7科。裸子植物 5科。双子葉植物、古生花被植物 62科。後生花被植物 24科。単子葉植物 12科。の110科506種の植物が確認されていて、中ではキク科の植物(ヒメジョオン・フキ・ヨモギ・ハンゴンソウ・ノアザミ・サワヒヨドリ・ヨメナ・ヤナギタンポポなど)が最も多く、次にバラ科(ワレモコウ・ヘビイチゴ・ナナカマド・シモツケソウ・ウワミズザクラ・アズキナシ・エゾヤマザクラなど)次にシソ科(ウツボグサ・ジャコウソウ・ツル二ガグサ・ハッカなど)となって平地の植物と同じような傾向であり、又この中には、11科24種の帰化植物が含まれていました。リゾートである斑尾高原ではガーデニング行為は重要な要素でありますが、しかし、これにより外来、または観賞用の花が高原に帰化していくことが問題でもあります。

この調査以降、斑尾山麓での本格的自然調査は行われておらず、植生の変化や絶滅に近い植物、多くの帰化植物が入り込んでいると思われます。2005年春、関田山脈をつなぐ「信越トレイル」がオープンしますが、これにおいて植物の調査も行われるので植生の変化が解明されるのを期待したいところです

 

八坊塚在住の小澤 氏の調査によれば、2003年7月現在として、被子植物・双子葉植物 72科、単子葉植物 11科、裸子植物 1科で84科、322種が確認されています。

 

ブナ林について ( ブナ=別名 シロブナ・ソバグリ)

斑尾山では600m前後より、刈り払った後よりの幼木が多く、スキー場には切り残されたブナの大木も見られます。山頂付近のブナは30~40cmくらいが主で見事なブナ林になっているが、ブナの寿命は400~500年といわれています。6~7年に一度雪が花粉で黄色くなるほどの花を咲かせ、大量の実を落とし、翌年の春には地面を埋め尽くすほどの芽を出します。何万と出る芽の中で巨木として残るのは数本といわれています。開花するほどの木になるまで最低でも40~50年、結実するには最低60~80年かかります。

ブナ林を始めとする落葉広葉樹林は、山の貯水池とも呼ばれ、針葉樹林の5倍にも及ぶ水資源を涵養するといわれ、「ブナの大木は、水田1反歩(約1000平米)8~10表のコメ生産の水を養う」ともされています。

 

ブナの繁殖・・・ブナは同じ固体が雌花と雄花を同時に咲かせる「雌雄同株」で健全な種子を付けるには、異なる個体から受粉する「他家受粉」が必要で、花を咲かせても、他家受粉出来ず自家受粉してしまったり、虫による害に遭うなどして健全に結実出来ない場合が多い。開花した雌花の総数に対して健全な種子の割合が30~40%を超えると、その年は豊作とされていて、ブナは数年のサイクルで種子の豊作と凶作を繰り返す(マスティング現象)が、その仕組みは解明されていないようです。

 

ブナの実は、タンパク質や脂質を豊富に含み栄養が豊富な香実です。タンニンなど

の有害物質を含まないので人間もそのまま食べられる物だから、動物、昆虫にとっては重要な食料です。特にネズミ類は、ブナの豊作年に大量の実を食べ、冬を乗り越え

春の繁殖期を迎えます。このため、豊作年の翌年ネズミが大発生します。ブナは自分たちを増やす為に、実をつけずネズミを減らす為にマスティングを行っているともいわれています。

実は甘く、刺のある小さな「いが」の中に、栗色の三角錐の形をしたそばの実に似た種があることから、「ソバグリ」とも呼ばれています。

ブナ・・・・水分が多く腐りやすく役に立たない木ということから木へんに無と書きブナと読む。

ブナ・山毛欅・・・ケヤキに幹が似ているが葉に毛があるのがブナであることからブナと読む。

 

ホオノキについて

 ホオノキは成長すると高さ20メートル、葉の長さは30センチ、花は花径15センチ程になり何もかも大柄です。かってはホオカシワと呼ばれていたもので、カシワとは食べ物を盛る意味であるので、食器として使われていたことが解ります。

木材部は質が軟らかく細やかなことから、昔は刀の鞘や下駄の歯、鉛筆材やマッチの軸などに利用されています。

薬用には、夏の土用の頃、幹の皮を剥いで日干しにしたものを、腹痛、吐き気、下痢などに1日10~20グラムを煎じて服用する。解熱には成熟した果実を日干しし、1日10~20グラム煎じて服用する他、夏に採取し日干しした葉を粉末にし酢で練ったものをリュウマチ患部に貼る利用法もあります。

ユキツバキについて

飯山市の花として又新潟では県花として知られています。飯水地方では、瑞穂、木島地区には見られないが全地区に見られ特に関田山脈側に多く見られます。斑尾では希望湖周辺や大平峰北側に多く、南にいくほど少なくなり山頂を境として南側にはほとんど見られない。ツバキは本来暖地の植物で寒い冬の越し方に関係があると思われます。ユキツバキのユキは深雪地帯に自生することを意味し、深い雪に適応した植物あることが判ります。低木で弾力性に富み、雪の中で伏せるようになり雪の中の暖かさで冬を越すのが特徴であり、したがって、雪が無かったり少なくて、寒風にさらされる場所には見られなくなっています。

斑尾山は希望湖方向から山頂に近づくほど雪が少なくなる現象があります。これは関田山脈の北側には山が無いことや、西側の妙高山など高い山などによる風の方向などによるものと思われ、ユキツバキの分布も雪の積雪量に関係があると思われます。

薬用には、半開きの花を採って陰干しにしたものをよく刻んで保存しておく。吐血に1日4グラムを煎じ食前に服用したり。滋養強壮や便通を整えるのに、茶さじ1杯に熱湯を注ぎ砂糖を適量加え飲むと良い。また、火傷には粉末をごま油やツバキ油で練って患部に貼る利用法もあります。

 

カンバの類について

カンバの仲間は、寒地性の植物でほとんどが本州中部以北に見られます。シラカンバ(白樺・別名 シラカバ)、ウダイカンバ(鵜松明樺・別名 サイハダカンバ マカバ・マカンバ)、ダケカンバ(岳樺・別名 ソウシカンバ)、ヤエガワカンバ(八重皮樺・別命 コオノオレ)の4種とも斑尾では見られます。ダケカンバは本来、亜高山帯に生育する植物であり、希望湖南側のヤエガワカンバは大きさと共に希少価値の高いものです。現在スキー場の近くに、太さ約30cm 高さ約15mのものが5本確認されています。斑尾山東側1000m付近と希望湖周辺でダケカンバとシラカンバが混生しているが珍しい現象であり、ウダイカンバはスキー場の東中腹と北中腹に多く見られます。

 

ササ タケ類について

万葉文献に「雪国の山に生ずる小竹にして信濃に多し」と記述されているのは、スズタケであり、信濃の枕詞「みすずかる」の語源ともなっているように長野県を代表するササです。しかし、スズタケは県南地方に多く、奥信濃ではほとんど見ることはなく、ほとんどが、チシマザサとクマイザサです。

標高500~600m以下にあり笹もちや笹寿司に使われるのはクマイザサであり、標高600m以上にあり、ネマガリダケと呼ばれているのがチシマザサであります。冬の豪雪で茎の下のほうが曲がっているのでこの様に呼ばれているのでしょう。本来、根曲がり竹と呼ばれているが本来は笹であり、たけの子ではなく「笹の子」であります。斑尾山東側斜面やスキー場内にも多く見られます。5月から6月にかけ目を出すタケノコはアクがなく、山菜の王様とされ、茎は竹細工としてカゴやザルなどにりようされます。クマイザサは葉が出揃うと9枚になる事から名づけられ、葉が広く大きいので、昔から食べ物を包むのに利用されています。

薬用として、両者の葉を集め日干しにしたものを煎じるか、葉が出揃ったばかりの頃は、これをミキサーにかけ利用します。荒れた胃や胃もたれに1日20~30グラムを服用。またこの液でうがいをすれば口臭予防になり、湿疹や痔にはこの液で患部を洗浄すれば効き目があるとされています。

 

ナラの類について

コナラとミズナラがあり、コナラは主に標高700m以下に多く、ミズナラはそれ以上に多い。両種の違いはいろいろあるが、わかり易いのは、葉の表から見ると葉柄がほとんど無く見えるのがミズナラ、葉の表から見て1cm前後の葉柄が見えるのがコナラであります。斑尾一帯はミズナラがおおく、大木もありこの地の代表樹木のひとつであり、葉の上に肉質の赤い玉が着いているのを見かけるが、虫こぶといって虫の巣です。割って中を見ると中心部に小さな虫がいます。

トチノキについて

この種は、トチノキ科 トチノキ属 トチノキの1種1属1種であり、全国に見られるが斑尾山腹(スキー場トチノキコース沿いに大木が残っていて、ブナと並び代表樹木のひとつであったと思われます。

 

ウチダシミヤマシキミについて

ミカン科のミヤマシキミ属ミヤマシキミの型が違うもので、葉の表面の脈が打ち出されたようにへこんでいます。これはあまり見られないものだが、斑尾山中腹や希望湖周辺に多く見られます。

 

ゴゼンタチバナについて

専門書などによれば、本州中部以北の高山帯、亜高山帯の針葉樹林内等に植生とあるが斑尾山では、標高1200m付近のブナ帯に生育しているのが珍しいとされています。

 

アカミノイヌツゲについて

モチノキ科で本州中部以北の高山に植生するものであるが、斑尾山山頂北側に群生しています。高さ3m幹数十センチの大きいものも見られ、ハイイヌツゲとの違いは、実が赤いこと、葉が広くハイイヌツゲのように深緑色でなく鮮緑色で光沢があることであります。

 

希望湖(沼の池)には、1971年当時の調査では、食虫植物のタヌキモ、ヒツジグサも確認されたとありますが、現在は、幾多の改修工事により、水中に植物はほとんど見られなくなっています。

沼の原湿原・・・あるじのガイド

斑尾山の北約3キロメートル、標高870メートル、関川の支流土路川の源流部に位置する湿原が沼の原湿原と呼ばれています。

湿原は小丘陵によって東湿原と西湿原に分かれていて、東湿原が約4,5ヘクタール、西湿原が約14,5ヘクタールです。

二つの湿原は北方で一緒になり形のくずれた馬蹄形をしていて、東湿原の東縁と西湿原のほぼ中央に川が流れています。

東湿原が最も湿潤で西に向かうにつれ乾燥化が進んでいます。

南に斑尾山、西に寄生火山の袴岳、東には小丘陵をへだて沼の池があり、北へは土路川が下りそれに沿って、上樽本、中樽本、下樽本、土路の集落が点在しています。

年間降水量は、約2500ミリ、最深積雪量は3メートルを超え、日本海に近く裏日本型の気候で降雪量も多く、春遅くまで雪が残っていて湿原と川の水源は雨水と湧水によるもので、冬の豪雪が湧水をつくっていると思われます。

西湿原中央を流れる川の源流は、斑尾山北斜面の伏流水であり、年間を通し水量が変わらない湧水の場所が湿原西トレイル沿いに一ヶ所あります。万坂峠に近く300年を思わせるトチの木の根元から季節を問わず変わらぬ湧水量と水温5度程を保っています。

樽本の伝説に、蓮如が親鸞の遺跡を訪ね布教の途中、上樽本にさしかかったとき、目の病で困っているお婆さんに会った。蓮如は気の毒に思い「山の中腹に薬泉があるから、それで目を洗いなさい」と言った。さっそく山に行き薬泉を探し当て、目を洗うとたちまち傷みが取れ楽になったということです。

まさにこの薬泉の場所ではないかと思わせるような湧水の場所であります。

 

かって、湿原地域には沼部落、奥沼部落があり、奥沼部落は現在の湿原の位置とされ萩原宿と呼ばれ享保年間(1716~1735江戸時代中期)は最も栄え、75戸をかぞえた記録があります。沼部落は沼の池付近とされ、大正初期まで池の近くに峠の茶屋あったようです。この峠道を「樽本越」と呼び、上杉謙信の軍勢が川中島の戦いの為にこの峠を越えた記録もあり、信濃の国と越後の国との物資、文化の交流に大切な宿場として賑わいを見せ、様々な面で重要な街道の歴史があったと思われます。延喜式によるところの東山道・北陸路の駅家「沼辺」(ぬのへ)ではないかともいわれています。

しかし、時代の流れによって厳しい山道を越える必要がなくなると共に、街道がさびれ宿場として衰退や、江戸時代の天明(1782年天明2から6年間)・天保(1833年天保4から6年間)の大飢饉、特に天明3年(1783)7月の浅間山の大爆発はこの地方にも多大の影響があり、冷害による凶作と重なりこの頃より徐々に離村する人が出てきたと思われます。

 

現在湿原となっている所は、集落の耕作地跡であって、今でもヨシ群落の広がる湿原には昔の水溝の跡や、水田の畦と思われるものが残っていて、集落の位置は、標高850m 位の高冷地で、高冷地での米作が可能になったのはかなり後世であることを考えると、かっての住民は、作物として何を作り、何を主食としていたのだろう。

記録、文献を見ると、これより以前にもこの場所は、東山道の支路として幾多の繁栄と衰退を繰り返したものと思われます。

 

大正15年(1926)には3戸が残っていたが、中央電気会社(現 東北電力)が貯水池としての利用が計画され、土地買収が行われ離村しています。(計画は戦争により中断し現在に至り平成16年に妙高村が東北電力より買収している)

第二次大戦中に湿原の一部で水稲、大豆などが作られたことがあり、湿原の中に畦や水路の名残が見られます。

このように、古くから人的行為が加えられて来た為に、ブナ帯に属するが、大きなブナ林はみられず、湿原周辺にはミズナラの二次林が多く、東北側には広い範囲でカラマツが植林され、直径40センチを超えるものも見られる。ミズナラについては、その大きさから、山仕事にかなりの労働比重をかけ日々の生計を営んでいたのではないかと思われます。

約200年の湿原化によって、多くの植物が育ち、植生上からみても貴重な地域になっている。湿原内には、一部にイボミズゴケなどが分布するものの、ヌマガヤの少ない中間湿原とされていて、大部分は、ヤマアゼスゲを伴うヨシ群落で、典型的な火山山麓のヨシ湿原です。湿原南の万坂峠に近い部分は、湿生のノリウツギ、ハンノキ、メギ、キンキマメザクラなどの低木林が分布し、乾燥が進んでいる地域はレンゲツツジやツゲが林床となっているシラカンバ林になっています。

中央を流れる小川や周辺の流水部には、数十万株の水芭蕉をはじめリュウキンカの群落が分布し、滞留水域にはミツガシワが広がっています。これらの群落の間に、オオイヌノハナヒゲ、ミカヅキグサ、ミヤマシラスゲ、アイバソウ、カキツバタなどの群落が入り混じり、その中に、点々としてトキソウ、オオ二ガナ、などが散生していて、湿原内だけでも八十数種の植物が報告されています。ここ十数年のうちに特に乾燥化が進み、ハイイヌツゲ、ズミ、ノリウツギ、など雑木の増殖、ヨシ、ススキなども乾燥化に拍車をかけ本来の植生が変わりつつあり、又乾燥化による水路の変化も影響していると考えられています。

この湿原は、耕地跡に二次的に出来た湿原ではあるが、放置された期間が長く自然度が高い、湿生植物が多種類で、群落規模が大きいことがこの湿原の特徴とされています。

上越地方では珍しい、カラコギカエデやメギもこの湿原に自生していますすし、

野ウサギ、タヌキ、キツネ、リスなどの動物。最近ではツキノワグマやカモシカの出没もあります。トンボなどの昆虫類、野鳥(赤ゲラ、アオゲラ、ヒヨドリ、カッコウ、ホトトギス、ウグイス、セキレイなど豊富であります。

 

植生に悪影響が出ない程度の保全策も必要であるし、自然観察園としての構想を進める時期でもあると考えます。2004年には、湿原の乾燥化防止作業の一貫として、昔の水路を利用した水入れ及びハンノキの試験的伐採、ツゲ等雑木の除去の作業により、2005年の春には湿原化した場所に多くのミズバショウが復活しました。乾燥化から湿原化に戻すことにより植物の生態系がどのように変化していくのかも見守りたい所です。

 

 

マメ知識

ミズバショウとシーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 1796~1866)の関係。

シーボルトは1796年ドイツに生まれる。医師である両親の影響を受け医学を学ぶかたわら動物学、植物学、民俗学に興味をもち大学で学ぶ。1822年オランダ大使館の医師としてバタビア(現ジャカルタ)に務め、1823年に日本の長崎出島にオランダ商館の医師として来日、日本人に医学、植物学を教える。当時はオランダ人でなければ来日が無理の為オランダ人に成りすましていたらしい。江戸への4年に一度の旅の中で、植物採集や地理を調べ、1828には富士山の高さを測っており、その時は3794メートルと記されている。この年、日本地図等の持ち出しが発覚し1830年日本追放となる。1858年オランダとの間で通商条約が結ばれ、1859年に再来日、1862年に帰国している。長崎滞在時は、「おたき」(瀧1806~1859)という妻と「いね」(イネ1827~1903)という娘がいて、「いね」は日本最初の女医であり「オランダおイネ」として知られている。

シーボルトが出島に来る前に、出島にはケンベルやシュンベルクが来ていて植物の種を盛んに収集、東洋の珍しい香辛料を探していたらしい。ケンベル(1690年来日)は植物学に詳しくシーボルトも影響を受けている。ケンベルやシーボルトは日本の植物をオランダをはじめヨーロッパに紹介していて数々の植物に名前をつけている。

ケンベルはウメ、ヤマブキ、シュウカイドウ、サザンカをヨーロッパに紹介。

イロバモミジ、フジ、テッセン、ウツギ、アジサイはシーボルトが命名者である。

特にアジサイには、「おたきさん」学名ヒドランゲア・オタクサとなっている。

バショウ=学名「ムサ・バショウ」中国原産の多年草である。草といっても大型で幹の部分だけで2,5メートルにもなり全体では4メートルにもなりバナナの木に似ており小さなバナナができる。大きく目印にもなり木陰も提供する為に「旅人の木」とも呼ばれる。このバショウの学名もシーボルトが命名者である。成長した葉がバショウに良く似ており、水辺に咲くことからミズバショウ(水芭蕉)と呼ばれる。バショウは水芭蕉の名づけ親である

シーボルトは多くの江戸時代の生活用品や生物の標本をオランダに持ち帰っているトキ(朱鷺)や1905年に絶滅したニホンオオカミの剥製も含まれていて、シーボルトがオランダに送ったトキの標本に1871年学名が「ニッポニア・ニッポン」になった。ニホンオオカミは、1905年(明治38)が日本で最後の捕獲の記録であり、ニホンオオカミの剥製は現在、日本に3体、イギリスに1体、オランダに1体あるのみである。

 

松尾芭蕉

松尾芭蕉は1644年伊賀上野赤坂村(三重県上野市赤坂町)に生まれ、幼名は金作、のちに宗房と名乗り、俳句発表初期の頃(1675)の号は「桃青」であった。1681年春、38歳の時、門下の「李下」よりバショウを一株譲り受け庵に植え、その葉がみごとなことから評判になり「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、「ばせを植ゑてまづ憎む萩の二葉かな」と詠んでいる。1682年 39歳のとき初めて公に「芭蕉」号を使用している。1688年8月11日 45歳の時、美濃の国から信濃の国更科に、仲秋の名月を見るために訪れ、長野善光寺に立ち寄り浅間山の麓を抜け、江戸に戻っている。このときの旅を「更科紀行」として残している。

更科の姨捨山にかかる月は平安時代から多くのものに詠まれており、芭蕉が訪れた後もその評判は各方面に知れ渡り、この月を見るのが風流とされ多くの旅人が訪れるようになる。