妙高山・その2の2

妙高山にまつわるお話は、あるようで無いし、無いようであるんじゃないかと思いいろいろ調べまくっていますが・・・・。
<タム>さまには、いろいろと情報ありがとうごじゃります。

さて、昔々能登半島から北陸地方の日本海側の地域を、越と呼んでいた時代があったんです。
大化の改新(645)の頃です。
越(高志・古志)と呼ばれ、7世紀末に北陸地方が高志の前(くち)越前・高志の中(なか)越中・高志の後(しり)越後の3つに分かれました。
大宝2年(702)には、頚城・魚沼・古志・蒲原の4郡が越中国から越後国に移されています。

その後、越中の国は能登半島が編入し天平18年(746)には、越中国守として万葉の歌人、大伴家持(大伴旅人の長男718~785)が就任しています。
万葉集の中で家持は、越中を「越中守」・「越中国守」・「越中風土」と漢字で表現しているが、万葉仮名で発音する場合は、すべて「コシ」であります。

この時代の越中(高志の中)を代表する山として妙高山は、高志(こし)の中山なかやま)と呼ばれたとありますが、万葉集の中では高志の中山とか妙高山とか名香山とかは一つも詠まれていません。越後の中で詠まれているのは弥彦です。2かしょで詠まれています。

妙高山は古くは「越(こし)の中山(なかやま)」と呼ばれた。その中山が名香(なか)山となり、名香山では漢詩などに詠み込むのに具合が悪いので、音読みして名香山(みょうこうざん)となり、さらに字を飾って妙高山となった。現にこの山の麓には、名香山(なかやま)村の名を存している。
「日本百名山」 深田 久弥薯より

とある。
名香山村と言うのは1955年4月10日に妙高高原村になり、1956年9月30日に杉野沢村が合併し、1969年10月1日妙高高原町になっています。
2005年4月1日新井市になっています。

古代には、高志の中山・越の名香山と呼ばれ、中世には木曽義仲、戦国時代には上杉謙信が仰ぎ見た妙光山、そして現在は越後富士と呼ばれている妙高山。
木曽義仲が、山頂に阿弥陀如来像を安置し、上杉謙信も信仰した山を「妙光山」としたのも、朝日に輝く妙高山(須弥山)を見れば解るような気がします。

妙高山・その2の1

そろそろ、妙高山の続きにとりかからねば・・・。
妙高山って何時頃から妙高山・・・? と呼ばれたんでしょう。

仏教からの呼ばれ方と地域的は呼ばれ方などいろいろ考えられます。
仏教からの考えは、・・・とっても長くなります。
それでなくても、おらっちの話の長いのはご存知の所ですが・・・・

そもそも、日本に仏教が伝わったのは何時のことなんでしょう。
いまさらの事ではありませんが、昔からこれには多々説があったようです。日本史上において最も古い議論は、約1200年ほど前の弘仁年間(810~824)だったらしい。
最澄の552年説と護命の538年説とであります。
いずれも、「日本書紀」(日本最古の歴史書、神代から第41代持統天皇(女性天皇)までの出来事を漢文でまとめ720年に完成)の内容やその他の書物の中に書き留められている事柄によってであるんですが、第29代天皇「欽明天皇」の時代です。
百済(くだら)の国(朝鮮の古代の国で新羅(しらぎ)・唐の連合軍に攻められ660年に滅んだ。仏教がさかんで多くの僧や技術者が日本に渡来し住み着いた)の聖明王が、仏教・経典・僧などを欽明天皇年間に遣わしたと記されていることによるものです。
双方が唱える説の要因から見ると538年が信憑性が高いとされているが、「日本書紀」は欽明元年を540年としているんです。
「元興寺縁起」や「法王帝説」を基にしている信憑性のある説とすれば、538年に欽明天皇の代が始まってなければいけないことになるんです。

仏教、いわゆるお釈迦さまの教えの中に宇宙に関する考え方があり、直径が太陽系程の大きさの円盤が3枚重なった上に、高さ約132万kmの山が乗っていてこれが一つの世界としています。
この山を「須弥山・しゅみせん」と呼んでます。須弥山はサンスクリット語のスメールの音写であり、三蔵法師「玄奘」はこれを「妙高山」と漢訳したんです。

「玄奘」三蔵法師(600?~664)はインドの旅から戻ったのは、645年の1月です。約20年を持ち帰った経巻657部1335巻の漢訳に捧げ、旅の様子を弟子に口述筆記させ「大唐西域記」としてまとめたものが、後に「西遊記」となったんです。

と、いうことで妙高山として日本に入ったのは、664年以降、遣唐使が仏教の漢訳を持ち帰り、何らかの容にて誰かがこの地を修行中に、その容姿から須弥山「妙高山」と名付けたのでは・・・・・。

インドの須弥山とされる「カイラス山」は西チベットにそびえる標高6714mの独立峰で、外輪1周53kmが巡礼の路となっている。平均4000m~5000mくらいの非常に厳しい条件の路のようです。カイラス山の容姿・地域の地形はまさに妙高山にそっくりです。白山から火打山・妙高山までの修行の路も似ている部分です。黒姫山・飯綱山・戸隠山と続いていたのかも・・・・。

日本に妙高山ってもう一つあるんです。 知っていましたかぁ~。
兵庫県丹波市春日町市島町にあるんです。標高は564,8mでやはり山頂にはお寺があり、修験道の霊地として開かれたとあります。

ちょっと長くなってきたぞ~
細かいことを書いていくと今夜中には終わらないかも・・・・
地域的は説は・・・・明日かな?

北信五岳と妙高山の事

妙高山その1・その2の続きはちょっとまってください。
少々長くなりそうなんで・・・・。

ところで妙高山の標高って・・・知ってる?
資料を開くと、2454mと2446mとあるけど、どっちが本当?
どっちも間違いではないんだよね~。

元々は、三角点を基準に(妙高山は一等三角点)日本独自の方法で標高などを計測してたんだけど、長い間の地殻変動や科学の進歩などによる機械(GPSなど)など計測方法も変わったり世界共通の地図なんかが必要になり、平成3年に国土地理院が、最高地点の位置や標高などを今までと違う方法(ジオイド測量)で調べまとめたんです。
新しく、全国の主要国道に2kmおきに三角点を設置して調べているとのこと。
平成14年に世界測地系の基準にあわせ法改正をし、30年ぶりに標高や緯度・経度が変わったんです。・・・・って!。

日本の水準点は東京湾の平均水位でその数字は変えることなく、より厳密な高さの計算手法を採用したんだそうです。

前の三角点を中心に等高線などを入れ計算した時は、妙高山の標高は、2445,96m(北の峰)
今は、三角点にとらわれず最高地点南の峰2454m(北緯36度53分29秒・東経138度06分49秒地点)なんです。

北信五岳は、斑尾山・妙高山・黒姫山(2053,4m)・飯綱山(1917,4m)・戸隠山を呼びますが、
それぞれが2000m級の山なのに、なんで1381,8mの斑尾山が入ってたり、北信(北信濃)なのに新潟県の妙高山(2454m)がはいってるんだ。
入れるんだったら何で妙高より高い火打山(2462m)じゃないの・・?。
戸隠山(1904m)も西岳(2053m)高妻山(2353m)乙妻山(2318m)をおさえて入ってるんだろう。

北信五岳とは、何時、誰がそう呼んだんでしょう。
北信五岳は、志賀高原・草津方面の山から(峠から)正面に見た山々を言うらしいです。
これらの山々は山脈を造らず、単独峰が点在する北信の美しい山々です。

おらっちたちも、志賀の渋峠なんかから良く見るよね。

よくみると、高いとこから見るんで斑尾山も、他の山にひけをとらない高さに見えるし、妙高山も,見た限りでは新潟県とも長野県とも解らないし火打山、焼山も陰になって見えないんです。
同じように、西岳も高妻山も隠れています。

昔、志賀の山を越えて草津に出て前橋・高崎を通り江戸に出る街道(草津街道)として、草津と湯田中・渋双方の温泉に行く街道として、それと善光寺参り、また産物運搬の大切な脇街道で通行する人も多かったと記録されています。

江戸時代、富倉街道の道路修復記録の中にも草津温泉の人々から寄付があったとの記録があるように、越後の人々も北信濃経由で草津に湯治行ったものと思われます。

志賀の厳しい峠を越える時、ようやく信濃に入ったんだ、国境まで来たんだとこの山並みを北信州の五つの山を、北信五岳と何時しか呼んだのでは・・・・。

妙高山・その2

妙高山・その1から裸形上人(らぎょうしょうにん)でちょっと広がりが出るような気配です。

300年も生きてることがおかしいよねって思っていたんですが
熊野のお寺の寺伝によれば、
「この浜辺に漂着したインドの裸形上人が那智の滝で修行し、滝つぼから黄金の観音像を引き上げ、この寺院を開いたという。上人は720年生きた後浜辺から船出し、観音の浄土「補陀洛島」(ふだらくじま)へ去ったと伝えられる」

とのことがありました。

しかし、いくら極めた人でも270年は生きないだろう。
では、裸形上人とは固有名詞ではないのでは・・・・?

裸形とはなんじゃ。
裸で修行をする僧たち・・・ジャイナ教だ!

裸形上人とは一人でなく、何人もそう呼ばれる僧がいたんだ。
「南インドの霊山「補陀洛迦」サンスクリット語でポータカラに住み、観音信仰を広めた為、土地の人たちはその長(極めた人?)を裸形上人と呼んだ。」

このインド人たちは、シュメール系のドラヴィダ族では無いかと・・・

何所が妙高山・その2だ!。
妙高山出てこ無いじゃん・・・・てか。

今日はこの辺で勘弁して・・・起きてることが困難です。
インドの歴史が効いたのかも
次は絶対、・・・妙高山。

妙高山・その一

様々なところに表示されていることについて不思議なこと・・・・気が着きました。
天気の良い日には必ず見ている妙高山ですが、その紹介文は、この様になっています。

「妙高山は、古くから信仰の対象として山の神と仏教の思想とが習合した信仰の厚い山と言われています。その歴史は、今から約1300年前の和銅元年(708年)に裸形上人が妙高山頂を極め、開山したのが始まりとされています。」

ここで疑問なのは、708年に誰かが妙高山頂を極め開山したのは良いのですが、
裸形上人というのが問題になるのです。
裸形上人という人は、インドの人で仁徳天皇の時代に熊野の海岸に漂着した人とされているんです。
仁徳天皇は第16代天皇で、その年代といえば313年から399年なんです。
もし、その年代からちょっと外れたとしても、708年に妙高山に登った時は年齢が約300歳になってしまうんです。

熊野に神が祭られたのは崇神天皇の頃(紀元前97年~紀元前30年)と言われてるし、熊野の神社や寺には、裸形上人が開祖として関係してるし・・・どうなってるんでしょうね。

妙高山に関しては、インドから漂着した裸形上人とは別の裸形上人を名乗った人であるか、この時代にこの地方に関係のある「泰澄法師」(682年生まれ) 「行基」(668年生まれ) 「役行者」(634年生まれ)の誰かか・・・?。

708年とすれば、泰澄法師は26歳・行基は40歳・役行者は74歳である。

違いのあるのは、それぞれの伝承で当然とは思いますが
こんな話いっぱいあるんで
おらっち、おしゃべりガイドとしては話題等には事欠かないのであります。