希望湖のバス釣り

希望湖の解禁が5月13日にずれこんじゃたけど
この残雪とこの天気じゃ・・・しょうがないね。

釣りといえば、いっぱい釣るか・・・でっかいのを狙うかだけど
希望湖で釣る奴は、でかいのを釣ったんだと自慢するのが多いいと違う・・・?。

希望湖でわかさぎだの・・・バスの餌にされるはかない命の魚達にも
気持ちよく釣られたいと思う気持ちはあるよね。

だから、バスの大物を釣って自慢げにしてる奴に
おらっちなんか・・・・
でっかいのを一匹釣った奴に、小魚いっぱい釣って紐に通してそいつの
前にいって言ってやったぜ
「ヘン、たった一匹か」って
これって・・・・負け惜しみってやつ!。
小魚だって・・同じ魚だ~い。

負け惜しみ・・・もうひとつ。

バス釣りのことなら誰にも負けね~様なこといってる奴に
「どうだ、こんなデッケエのつったことね~だろう」   ッて自慢されたんで

おらっち、「へ~ 、それでっけえんだ。
そのくれえのでっけえと思わなかったんで、クソッ~こんなの又かよって言ってリリースしてたぜ」。

へッ  ざま~みろ!。

去年のある日の希望湖での話でした。

今年こそは、餌つりでもなんでも良いからでっかいのを釣って・・・写真撮って
奴の前で、何気なくヒラ~リと写真見えるように落としてやる。

もうすぐ、その季節。     

斑尾高原の水芭蕉

AE(アドベンチャーエデュケーション)プログラムのファシリテーターとして三重県の曽爾高原にある国立少年自然の家まで行ってきました。
奈良育英高校の新一年生と楽しく遊んできました。
曽爾高原は、名張市から車で約30分ほど山の中に入った所です。名張市の隣には上野市がありますが、上野市は松尾芭蕉が生まれたところです。
1644年伊賀の国上野赤坂村(三重県上野市赤坂町)で生まれ、幼名は金作、その後「宗房」と名乗り、俳句発表初期の頃(1675年頃)の号は「桃青」でありました。
1681年春、38歳の時門下の「李下」よりバショウの木を一株譲り受け、庵に植えたそうです。そのバショウの葉の広がりが見事なことから、何時しかバショウ庵、「芭蕉庵」と呼ばれるようになりました。
「ばせを植ゑてまづ憎む萩の二葉かな」    と詠んでいます。
1682年、39歳の時初めて公に「芭蕉」の号を使用しています。

バショウは、中国原産の多年草です。草といっても大型で、大きなものは幹の部分だけで2.5mにもなり、全体では4mにもなるバナナの木に似ていて、小さなバナナに似た実をつけます。
大きく目印にもなり日陰の提供や雨をしのぐ事から「旅人の木」ともよばれ、そんな事からも「芭蕉」を号としたのかもしれません。

バショウの学名は、「ムサ・バショウ」で、命名したのは、あのシーボルトなんです。
シーボルトは、江戸時代の生活道具や生物の標本をいろいろオランダに持ち帰っていますが、朱鷺や100年前、1905年に絶滅したニホンオオカミの剥製も含まれていて、シーボルトが送った朱鷺の剥製に1871年「ニッポニア・ニッポン」の学名がつけられたんです。
また、ニホンオオカミの剥製は、日本に3体・イギリスに1体・オランダに1体あるだけだそうです。

成長した葉がバショウの葉に良く似ていて、水辺に咲くことからミズバショウと呼ばれる「水芭蕉」はバショウが名付け親とも言えるんです。

斑尾高原の沼の原湿原や希望湖のまわり、あちこちの水辺には合わせて10万とも20万株とも言われる水芭蕉が咲きます。
雪解けと共に競って花を咲かせます。沼の原湿原でも湧き水が雪を溶かしたところから咲き始めました。
咲き誇る「水芭蕉」の美しさはもちろんですが、シーボルトや松尾芭蕉のことも振り返りながらの一味違った
「高原の花めぐりトレッキング」も楽しいものです。

斑尾高原の自然や動植物、地域の歴史文化、その名前や成り立ちをちょっと違った角度から見たりするととっても興味深くなります。
時間がいくらあっても足りない・・・?
そんなおもしろい話と高原の花畑・・・ご案内いたします。

私とJAZZ

私がJAZZを始めて聞いたのは、中学に入った頃だった。テレビのある番組のバックミュージックで流れてきたものだった。
ちょっと変わった拍子でありしかしその軽快なスイング感とメロディーがとっても新鮮で、いままで聞いたことの無い音楽だった。
それが、「テイク・ファイブ」という曲だと知ったのは三年八ヶ月もたってからです。
中学生時代、JAZZを聞くなんていう機会がまったく無かったし、興味もなかったのもあったからです。
中学時代は、日活映画の小林旭・石原裕次郎のシリーズ物で高校時代は加山 雄三の「若大将シリーズ」に夢中。音楽といえばベンチャーズを筆頭にエレキギターもの中心。
ある時、友人のところのレコードで懐かしい「あの曲」を聴き、曲名が「テイク・ファイブ」と知り、これがJAZZっていうジャンルだと知ったのであります。
結構多くの人が、テイクファイブという曲名は知らなくても、メロディーは耳にしたことあると思うし、一度聞いたらわりと忘れない曲だと思います。

JAZZとな何ぞや・・・とか詳しいことは知らないが、どんな場所・状況・雰囲気・気持ち・あらゆるものにすんなりと入ってくる音楽であることは確かのような気がします。

「テイク・ファイブ」は
ジャズ史上はじめてミリオンセラーを記録した曲で、ディブ・ブルーベック(p)の「タイム・アウト」というアルバム(1959年6月~8月NYで録音)で発表されています。
曲を書いたのは、ブルーベックのカルテットに参加していた、ポール・デスモンド(as)で、ブルーベックのカルテットは1951年サンフランシスコで結成、しかし当時はクラシックの影響が強く、スイングしないと言われ人気は無かったようです。1950年半ばよりライブ活動をジャズ・クラブから大学のキャンパスに移し、当時ジャズクラブに出入り禁止されていた大学生に、ジャズの魅力を知ってもらおうと「カレッジ・コンサート」と呼ばれたライブは、「ジャズは低俗な音楽」という一般常識をくつがえし、カルテットも絶頂期をむかえています。

斑尾のジャズ・フェスも一回目に出演の「カーメン・マクレエ」(Vo)がテイク・ファイブを唄い、四回目のステージには、ディブ・ブルーベックカルテットが出演、ポール・デスモンド(as)・ジーン・ライト(b)・ジョー・モレロ(ds)から30年程の変遷を経て、ビル・スミス(cl)・クリス・ブルーベック(tb・b)・ランディー・ジョーンズ(ds)のカルテットで斑尾のステージに出演しています。クリスはディブの息子です。

はじめて聞いた、きっかけの曲を自分達が企画したジャズ・フェスのステージに招へい出来、見て、聞け、親しくパーティーも出来たのも何か因縁めいたものを感じます。

春遠し沼の原湿原

あちらこちら下界では、やれ桜だの菜の花だのッて花の話題です。
沼の原湿原のミズバショウの様子が気になり、午前中、風は少々強いが太陽も出てたので行ってきました。

アクアパークまで車で行き、そこからは道路が3mちかい雪のため歩きです。
さすがにこの時期の雪はブーツのしたの雪まで動く為歩き難い。
スノーシューを着けるととっても楽ちんに・・ランランランてな具合にあるけます。
太陽は出てるが雪面を吹く風は結構冷たく
オーバーかなって思った装備が役立って・・・いざ出発。

まず思っていたより雪の多さに・・「すッげええっぺえあるじゃん」と独り言。
湿原入り口周辺の看板は上の横棒がようやく出たくらい。少なくても2mはまだ雪があります。
入口の橋は1.5mくらいの雪はあるものの健在、その先の中央トレイルと湿原との道標は、雪面から20cmくらい下に頭が確認できる、やはり2m前後はあるんだ。湿原の中央を流れる川はまだ雪の下で川の位置は確認できません。
地形を知っていなければちょっと危険かも・・・
というのは雪の下を流れる川は雪解けによって水量が増え、水温によって雪を溶かし、空洞のような状態になってるからです。

ですから、知らないでその上に乗った場合雪の層が薄くなってる場所では落ちる可能性があるんです。
もう少し気温が高い日が続けば川の部分は自然に溶け落ちて地形がはっきり解るんですが・・・。

湿原の中の水が沸いてるような所は雪が溶け落ち、ミズバショウの目が出始めています。すっぽりとまるでクレーターのように溶け落ちていて、雪の断面をみると2mくらいの壁になっています。

湿原の奥、例年ミズバショウが早く咲き始める場所も、水が動いている所だけ溶け落ちています。
ここには、ミズバショウが咲きはじめていますが花はまだ小さく、咲いた後に霜に遇ったらしく先がすべて茶色く焼けていました。

天気予報では、今夜も標高の高いところは雪の可能性とか言ってますので沼の原湿原の花の見ごろは何時になるんでしょうか。
今年は、予測がたちません。

やはり、湿原東トレイルの湿原への入口の橋、昨年電柱4本で架け替えたんですが、やはり今年の雪の量には耐え切れず4本とも折れていました。時機を見て架け替えです。

草木が伸びると歩けない湿原の奥や、山すそ、ふだん見えない大きなダケカンバの木、2時間ほど歩き回ってきました。

高原の茶室「無心庵」

今日の、斑尾高原は朝から雨降りです。
あちこちで、さくらの状況が伝えられますが、雨が雪に変わったりする斑尾高原では桜の話題はいつになるんでしょうか。

この分では、桜・ミズバショウ・リュウキンカ・タムシバ・などみ~んな一緒の花見時になるのかも・・・・。  そして、残雪も。
この地方の開花予想は、一週間から十日くらいずれるかも。
飯山市の「菜の花祭り」の会場は5月3日のオープンに合わせ、地元の人たちは雪消しに精を出しています。

この春から、我が家では茶室にてお抹茶を楽しんでいただこうと思ってます。
そうなんです、我が家にはお茶室があるんです。
高原のお茶室は、「無心庵」・・・むしんあんと名付けられています。

1973年、ペンションの一角に創設されました。当時親しくお付き合いをさせて頂いておりました飯山市にある「正受庵」という寺の第十一世住職 酒井盤山和尚が「初心に戻り、無からすべてを考える処」を意味し、「無心庵」という名を下さいました。

「正受庵」は臨済宗の宗派に属し、禅宗のお寺です。
禅宗の中には臨済宗・曹洞宗・黄燐宗の三つの宗派がありますが、この寺は臨済宗のメッカだと言われていて、臨済宗では貴重な寺院とされています。
日本の臨済禅を雪国・飯山でただ一人で担っていたのが、道鏡恵端禅師・通称正受老人と呼ばれた和尚であり、この和尚の禅室が正受庵と呼ばれたのであります。

高原の緑の中で、小鳥のさえずりを聞きながら
お手前など気にせず、心にも休息の時を「無心庵」で過ごしませんか。

山野に咲き乱れる花達の季節は・・・・・もうそこ。