北信五岳と妙高山の事

妙高山その1・その2の続きはちょっとまってください。
少々長くなりそうなんで・・・・。

ところで妙高山の標高って・・・知ってる?
資料を開くと、2454mと2446mとあるけど、どっちが本当?
どっちも間違いではないんだよね~。

元々は、三角点を基準に(妙高山は一等三角点)日本独自の方法で標高などを計測してたんだけど、長い間の地殻変動や科学の進歩などによる機械(GPSなど)など計測方法も変わったり世界共通の地図なんかが必要になり、平成3年に国土地理院が、最高地点の位置や標高などを今までと違う方法(ジオイド測量)で調べまとめたんです。
新しく、全国の主要国道に2kmおきに三角点を設置して調べているとのこと。
平成14年に世界測地系の基準にあわせ法改正をし、30年ぶりに標高や緯度・経度が変わったんです。・・・・って!。

日本の水準点は東京湾の平均水位でその数字は変えることなく、より厳密な高さの計算手法を採用したんだそうです。

前の三角点を中心に等高線などを入れ計算した時は、妙高山の標高は、2445,96m(北の峰)
今は、三角点にとらわれず最高地点南の峰2454m(北緯36度53分29秒・東経138度06分49秒地点)なんです。

北信五岳は、斑尾山・妙高山・黒姫山(2053,4m)・飯綱山(1917,4m)・戸隠山を呼びますが、
それぞれが2000m級の山なのに、なんで1381,8mの斑尾山が入ってたり、北信(北信濃)なのに新潟県の妙高山(2454m)がはいってるんだ。
入れるんだったら何で妙高より高い火打山(2462m)じゃないの・・?。
戸隠山(1904m)も西岳(2053m)高妻山(2353m)乙妻山(2318m)をおさえて入ってるんだろう。

北信五岳とは、何時、誰がそう呼んだんでしょう。
北信五岳は、志賀高原・草津方面の山から(峠から)正面に見た山々を言うらしいです。
これらの山々は山脈を造らず、単独峰が点在する北信の美しい山々です。

おらっちたちも、志賀の渋峠なんかから良く見るよね。

よくみると、高いとこから見るんで斑尾山も、他の山にひけをとらない高さに見えるし、妙高山も,見た限りでは新潟県とも長野県とも解らないし火打山、焼山も陰になって見えないんです。
同じように、西岳も高妻山も隠れています。

昔、志賀の山を越えて草津に出て前橋・高崎を通り江戸に出る街道(草津街道)として、草津と湯田中・渋双方の温泉に行く街道として、それと善光寺参り、また産物運搬の大切な脇街道で通行する人も多かったと記録されています。

江戸時代、富倉街道の道路修復記録の中にも草津温泉の人々から寄付があったとの記録があるように、越後の人々も北信濃経由で草津に湯治行ったものと思われます。

志賀の厳しい峠を越える時、ようやく信濃に入ったんだ、国境まで来たんだとこの山並みを北信州の五つの山を、北信五岳と何時しか呼んだのでは・・・・。

妙高山・その2

妙高山・その1から裸形上人(らぎょうしょうにん)でちょっと広がりが出るような気配です。

300年も生きてることがおかしいよねって思っていたんですが
熊野のお寺の寺伝によれば、
「この浜辺に漂着したインドの裸形上人が那智の滝で修行し、滝つぼから黄金の観音像を引き上げ、この寺院を開いたという。上人は720年生きた後浜辺から船出し、観音の浄土「補陀洛島」(ふだらくじま)へ去ったと伝えられる」

とのことがありました。

しかし、いくら極めた人でも270年は生きないだろう。
では、裸形上人とは固有名詞ではないのでは・・・・?

裸形とはなんじゃ。
裸で修行をする僧たち・・・ジャイナ教だ!

裸形上人とは一人でなく、何人もそう呼ばれる僧がいたんだ。
「南インドの霊山「補陀洛迦」サンスクリット語でポータカラに住み、観音信仰を広めた為、土地の人たちはその長(極めた人?)を裸形上人と呼んだ。」

このインド人たちは、シュメール系のドラヴィダ族では無いかと・・・

何所が妙高山・その2だ!。
妙高山出てこ無いじゃん・・・・てか。

今日はこの辺で勘弁して・・・起きてることが困難です。
インドの歴史が効いたのかも
次は絶対、・・・妙高山。

妙高山・その一

様々なところに表示されていることについて不思議なこと・・・・気が着きました。
天気の良い日には必ず見ている妙高山ですが、その紹介文は、この様になっています。

「妙高山は、古くから信仰の対象として山の神と仏教の思想とが習合した信仰の厚い山と言われています。その歴史は、今から約1300年前の和銅元年(708年)に裸形上人が妙高山頂を極め、開山したのが始まりとされています。」

ここで疑問なのは、708年に誰かが妙高山頂を極め開山したのは良いのですが、
裸形上人というのが問題になるのです。
裸形上人という人は、インドの人で仁徳天皇の時代に熊野の海岸に漂着した人とされているんです。
仁徳天皇は第16代天皇で、その年代といえば313年から399年なんです。
もし、その年代からちょっと外れたとしても、708年に妙高山に登った時は年齢が約300歳になってしまうんです。

熊野に神が祭られたのは崇神天皇の頃(紀元前97年~紀元前30年)と言われてるし、熊野の神社や寺には、裸形上人が開祖として関係してるし・・・どうなってるんでしょうね。

妙高山に関しては、インドから漂着した裸形上人とは別の裸形上人を名乗った人であるか、この時代にこの地方に関係のある「泰澄法師」(682年生まれ) 「行基」(668年生まれ) 「役行者」(634年生まれ)の誰かか・・・?。

708年とすれば、泰澄法師は26歳・行基は40歳・役行者は74歳である。

違いのあるのは、それぞれの伝承で当然とは思いますが
こんな話いっぱいあるんで
おらっち、おしゃべりガイドとしては話題等には事欠かないのであります。

モリアオガエル

袴湿原で話をしようと思ってたら、近くでモリアオガエルが産卵を始めてしまいました。
モリアオガエルは木の上に産卵する事で知られてます。
モリアオガエルは、山の中の人が来ない処で産卵をして、イメージは結構神秘的なところがあるんだけど

山の家の下、某スキー場に勤務の○辺氏の家の下、大きなカーブの道路わきの水溜り上です。
なんでこんなとこに・・・・
今、産卵の真っ最中です。

実は4年前からこの時期に決まって産卵してます。

あの、泡みたいなのは、メスが産卵の時に出すんではなく、メスが産卵したのをオスが数匹で後ろ足でかき回して泡にするんです。
卵が木の上で乾かないように泡で守ってるんだよね。

産卵時は、一匹のメスに4~6匹がとっついてます。

木の上の泡の中でおたまじゃくしになって時期がくると下の水溜りに落ちていくんです。
水溜りに落ちてかえるになるんですね~。

近くだから見に行ってください。
けっして棒なんかで突っつかないこと!。

かえるになる頃、かえるをねらってヘビちゃんなんかが来たりするんだ。

さあ~行くかぁ~

あんまりの景色にちょっと休憩時間・・・オーバーしちゃいました。
万坂峠までルピナストレイルを下ります。

次の峰、袴岳がはっきりと確認できます、  え~あすこまで行くの~。
ルピナストレイルの右手には、栃の木・ウダイカンバ(鵜明松樺)・シラカンバ・ダケカンバ(岳樺)など大きな木があります。栃の木には円錐形に白い花が咲いてます。ウダイカンバは岐阜長良川の鵜飼の時に船の上で焚くかがり火に使う木なんだよ。燃えやすいけど長持ちするんで使われるらしい、だから鵜っていう漢字が使われてるんだね。
斑尾高原周辺には四種類のカンバの木があるんだ。
カンバの木は本来、標高や地域によって生態がちがうんだけど斑尾はほとんど同じ地域に四種類を見ることが出来る貴重な地域なんだよ。
特にダケカンバ(岳樺)は亜高山帯(2000m~2500m以上)にあるんだけど斑尾には860mくらいのところに30cmくらいの太さの木を見ることができるんです。
珍しいのは、ヤエガワカンバです。
木の皮が亀甲模様のようになっててそれがぼろぼろ剥げるんです。40年程前の調査では何本も確認されたとありますが、現在は、希望湖の南西に大きなものが一本と、ゲレンデ近くに直径20cm~30cmくらいのものが4本あるだけです。(おらっちが見てるものは)・・・・

ルピナストレイルのルピナスは、誰が・何時頃・何のために植えたんでしょう・・・か。
ルピナスは繁殖力が強くどんどん増えます。山に自然と生えるものではないので生態系を崩します。ニュージーランドでもルピナスが問題になっていて、多くの人たちによって抜き取り運動がはじまってるようです。

お客様を迎える斑尾リゾートとしては、春から秋まで施設の周りを花で飾りたいという気持ちが、また近年のガーデニングの動き等により花を中心にいろいろな植物が持ち込まれ、種となって繁殖して行くという矛盾の中にいることも確かです。
それと、山野草人気からおおくの植物が盗掘され斑尾高原周辺から無くなっているのも事実です。
おらっちのあんな花もある、こんな花もあるなんて書くと教えてるようものってこともあるよね。

万坂峠からの花街道・・・・・どうしようかな?

ともかく・・飯・めし!   で昼ごはん。