シリーズに復帰ー北信五岳ー妙高山

やっとの思いで復帰です。
何がやっとなのかはわかりませんが・・・・・
二ヶ月ぶりくらい・・・・?
しかし、5回シリーズだなんてイッチャッタカラ年内にはシリーズ完結しなくっちゃ
そこで、いやっと言うくらい書きまくってきた・・・そしていまだに気になる妙高山

いつもと違って、本来の山のお話・・・・

妙高山(2454m)は妙高連峰と総称されてる中心で、赤倉山・三田原山・神奈山・前山と名付けられた外輪山が囲んでる典型的な複式火山なんです。
複雑な地形を造ってるのは、新しい火山の下には古い火山が隠されていて、その下にはもっと古い火山が見つかってるんですよ。
妙高山は三世代の火山が重なり合っているんで
そういうことで複雑なんです。

親亀の背中に~小亀を乗せて~
小亀の背中に~孫亀乗せて~

孫亀が現在見えてる妙高山って言うことかな・・・?
なんちゅう例え・・・なんだ。

数千年前まで噴火を繰り返していて、今の地形(孫亀)が出来たのは約4千年前の大噴火で、火山灰は黒土のなかに黄色いゴマのような火山灰があることが特徴なんだって。
その時の火砕流の一部を、関山の国道沿いの崖に見ることができます。崖には大きな白っぽい岩石が多く混ざっていて、この岩石を「関山石」って呼ぶんだそうです。
斑尾山から妙高山までは、直線距離約15,5km
奥に見える火打山(2462m)までは約20,5kmです。
妙高山は日本百名山にも選ばれていて、その山容から越後富士とも呼ばれてるんだよ~~。

あと三回・・・がんばるぞ~   近々黒姫山にいきたいと思いま~す。

北信五岳ー斑尾山

斑尾山は火山です。薬師岳を主峰(1381,8m)とし、火山としては高いものではありません。第3紀から第4紀(170万年前)という遠い地質時代に出来た斑尾火山群で、西方に妙高山、火打山などからなる妙高火山群、北方に鍋倉山・黒倉山などからなる関田山脈があります。
周辺の山の中では、最も古い火山で浸食が非常に進んでいます。眺める方向からはとても火山とは思えません。

北信濃の人々は、「ヤクシサン」「マダラオヤマ」「マダラオサン」「マダラヤマ」などと呼ばれ、飯山地域のお年寄りは、「マドロ」とか「マドロオ」とも呼び、古くから親しまれている山です。

古い時代には、信濃の国では斑山(まだらやま)・越後では斑尾山(まだらおやま)と呼ばれていました。

斑尾山の最高峰は「薬師岳」でその西方の峰を「大明神岳」北方の峰を「北峰」斑尾高原の宿泊施設がある方向からは山頂のように見えるため「仮山頂」と呼び、この3峰に囲まれた西側は急な崖のようになっていて、噴火口を思わせたりしますが、岩石等などから噴火口壁ではなく、爆裂火口であると言われています。

東側に残る火山斜面を基に、接峰面図から等高線を西側に延長し、周辺の丘陵や山地の接峰面図の等高線を接続する方法があるらしいが、その方法で斑尾火山の浸食される前の地形を復元すると浸食前の斑尾山薬師岳は約1900mの高さがあったと考えられるといいます。
斑尾火山は、だいたい100万年前の火山で、40~30万年前に周辺に火砕流を流れおとし活動を終えたとされています。

薬師岳から4方に尾根が延びているが、最も大きな尾根は西側に延びていて、寄生火山である「割ヶ岳」に続く「石原山」(1100m)「釜石山」(1020m)の峰があります。
南東の延びる尾根は、「大平山」(1170m)「扇平」で終わっています。
東北の尾根は、急に下り裾野状山麓を造り、昭和10年代は牧場として、47年には斑尾高原リゾートとしてオープンしています。
北の尾根は、万坂峠に至り、袴岳に接しています。

斑尾火山は山自体が小さいわりに側火山が多く、山麓を取り巻くようにありますが山の中腹には一つもありません。
側火山は、西に、城山(842m)倉山(1064m)その南に、城の越山・赤田山・花ヶ入山・の小トロイデがあり、
西南に、割ヶ岳・柴津山・石乗山・その南に薬師岳・舟岳と多くあるのに対し
東側は、郷路集落の西に、月夜岳(869m)沓津集落跡の西南側に小トロイデの干草場(910m)のみになってます。

南東に延びる尾根の先にある「大平山」(1170m)は、文部省唱歌「ふるさと」で、うさぎ追いし、かの山と唄われている山です。そこから流れでる川、斑川が、こぶな釣りし かの川なんです。

決して、かの山は斑尾山で(斑尾山でも間違いではないが、高野辰之先生が想い詠ったのは大平山だと付け加えてほしい)、かの川は千曲川だなんて、私達斑尾高原の者は訪れるお客様に説明をしないでください。

私達や飯山の人たちが、地域の情景が文部省唱歌として唄われていると話すとしたら、高野辰之先生が小学校の教師時代に飯山に下宿していた時の千曲川周辺の情景を描写した「朧月夜」(おぼろづきよ)だと思いますが・・・・。

北信五岳・・・5回シリーズです。
次回は、妙高山でいきたいと思います。

復帰・第1戦

飯山市一帯が森林セラピー基地に認定され、その取り組みの一つとして「健康への旅」のモニターツアーが行なわれています。斑尾高原では7月に2回、今月に入り18日から20日にかけ3回目のツアーが行なわれています。

ツアー日程の中に、到着日の14時から「斑尾高原”母の森”のご案内}があります。
赤池周辺のブナの森の中をトレッキングをしたり、また普段経験が出来ないようなゆったりとした時間をすごし、心穏やかな癒やしを森からの贈り物として感じていただこうと8名のお客様をご案内したんです。

復帰後の第1戦であります。
朝からのウォーミングアップはOK。膝の状態も心配なさそうです。心配なのはこの天候の暑さです。
ガイドの内容は、普段のトレッキングガイドと違い、歩くことは少なく森の中で30~40分心静かに過ごすことへのガイドです。
おしゃべりガイドで有名なおらっちとしては・・・・・それが一番つらい!!。

森へのトレイル・・・立ち上がりは順調であります。
いよいよ森への入り口から階段が・・・・・クリーンナップの登場といったところ。
なんとか緊張感をもちマイペースで勝利投手の権利をつかむ付近まで・・・

先をあせるわけではないが、時間がたたない!
何をしよう・・・・得意な話をしてもいいのか・・・セラピーって言うからにはそのようは話じゃなければまずいんかな~・・・

ブナの木はとっても強く過酷な自然条件のなかで生き残り私達人間にたくさんの恵みを与えてくれてるんです・・・・

自然からの気を体に取り込み、私達の体が本来持っている免疫力を高めることに効果があると言われる、大きくゆっくり複式で呼吸してみましょうか・・?

ゆったりと木になったつもりで、ヨガにある木のポーズしてみましょうか・・・

ここ斑尾高原て言う所は、歴史的にはこんなところなんです・・・。

斑尾山は・・・妙高山は・・・湿原は・・・ミズバショウは・・・

って、いつもの調子よりはゆったりと・・・声のトーンも落としめ・・・そして・・にこやかに。

てなわけで、なんとか完投。   完封とまではいかないが・・・反省点もいっぱい。

25日にはまたまた、登板予定。
相手打線は・・・・お互い気持ちの良い、心に残る・・試合に!
練習試合なんで、勉強・勉強・・・・です。

妙高山・その2の2

妙高山にまつわるお話は、あるようで無いし、無いようであるんじゃないかと思いいろいろ調べまくっていますが・・・・。
<タム>さまには、いろいろと情報ありがとうごじゃります。

さて、昔々能登半島から北陸地方の日本海側の地域を、越と呼んでいた時代があったんです。
大化の改新(645)の頃です。
越(高志・古志)と呼ばれ、7世紀末に北陸地方が高志の前(くち)越前・高志の中(なか)越中・高志の後(しり)越後の3つに分かれました。
大宝2年(702)には、頚城・魚沼・古志・蒲原の4郡が越中国から越後国に移されています。

その後、越中の国は能登半島が編入し天平18年(746)には、越中国守として万葉の歌人、大伴家持(大伴旅人の長男718~785)が就任しています。
万葉集の中で家持は、越中を「越中守」・「越中国守」・「越中風土」と漢字で表現しているが、万葉仮名で発音する場合は、すべて「コシ」であります。

この時代の越中(高志の中)を代表する山として妙高山は、高志(こし)の中山なかやま)と呼ばれたとありますが、万葉集の中では高志の中山とか妙高山とか名香山とかは一つも詠まれていません。越後の中で詠まれているのは弥彦です。2かしょで詠まれています。

妙高山は古くは「越(こし)の中山(なかやま)」と呼ばれた。その中山が名香(なか)山となり、名香山では漢詩などに詠み込むのに具合が悪いので、音読みして名香山(みょうこうざん)となり、さらに字を飾って妙高山となった。現にこの山の麓には、名香山(なかやま)村の名を存している。
「日本百名山」 深田 久弥薯より

とある。
名香山村と言うのは1955年4月10日に妙高高原村になり、1956年9月30日に杉野沢村が合併し、1969年10月1日妙高高原町になっています。
2005年4月1日新井市になっています。

古代には、高志の中山・越の名香山と呼ばれ、中世には木曽義仲、戦国時代には上杉謙信が仰ぎ見た妙光山、そして現在は越後富士と呼ばれている妙高山。
木曽義仲が、山頂に阿弥陀如来像を安置し、上杉謙信も信仰した山を「妙光山」としたのも、朝日に輝く妙高山(須弥山)を見れば解るような気がします。

妙高山・その2の1

そろそろ、妙高山の続きにとりかからねば・・・。
妙高山って何時頃から妙高山・・・? と呼ばれたんでしょう。

仏教からの呼ばれ方と地域的は呼ばれ方などいろいろ考えられます。
仏教からの考えは、・・・とっても長くなります。
それでなくても、おらっちの話の長いのはご存知の所ですが・・・・

そもそも、日本に仏教が伝わったのは何時のことなんでしょう。
いまさらの事ではありませんが、昔からこれには多々説があったようです。日本史上において最も古い議論は、約1200年ほど前の弘仁年間(810~824)だったらしい。
最澄の552年説と護命の538年説とであります。
いずれも、「日本書紀」(日本最古の歴史書、神代から第41代持統天皇(女性天皇)までの出来事を漢文でまとめ720年に完成)の内容やその他の書物の中に書き留められている事柄によってであるんですが、第29代天皇「欽明天皇」の時代です。
百済(くだら)の国(朝鮮の古代の国で新羅(しらぎ)・唐の連合軍に攻められ660年に滅んだ。仏教がさかんで多くの僧や技術者が日本に渡来し住み着いた)の聖明王が、仏教・経典・僧などを欽明天皇年間に遣わしたと記されていることによるものです。
双方が唱える説の要因から見ると538年が信憑性が高いとされているが、「日本書紀」は欽明元年を540年としているんです。
「元興寺縁起」や「法王帝説」を基にしている信憑性のある説とすれば、538年に欽明天皇の代が始まってなければいけないことになるんです。

仏教、いわゆるお釈迦さまの教えの中に宇宙に関する考え方があり、直径が太陽系程の大きさの円盤が3枚重なった上に、高さ約132万kmの山が乗っていてこれが一つの世界としています。
この山を「須弥山・しゅみせん」と呼んでます。須弥山はサンスクリット語のスメールの音写であり、三蔵法師「玄奘」はこれを「妙高山」と漢訳したんです。

「玄奘」三蔵法師(600?~664)はインドの旅から戻ったのは、645年の1月です。約20年を持ち帰った経巻657部1335巻の漢訳に捧げ、旅の様子を弟子に口述筆記させ「大唐西域記」としてまとめたものが、後に「西遊記」となったんです。

と、いうことで妙高山として日本に入ったのは、664年以降、遣唐使が仏教の漢訳を持ち帰り、何らかの容にて誰かがこの地を修行中に、その容姿から須弥山「妙高山」と名付けたのでは・・・・・。

インドの須弥山とされる「カイラス山」は西チベットにそびえる標高6714mの独立峰で、外輪1周53kmが巡礼の路となっている。平均4000m~5000mくらいの非常に厳しい条件の路のようです。カイラス山の容姿・地域の地形はまさに妙高山にそっくりです。白山から火打山・妙高山までの修行の路も似ている部分です。黒姫山・飯綱山・戸隠山と続いていたのかも・・・・。

日本に妙高山ってもう一つあるんです。 知っていましたかぁ~。
兵庫県丹波市春日町市島町にあるんです。標高は564,8mでやはり山頂にはお寺があり、修験道の霊地として開かれたとあります。

ちょっと長くなってきたぞ~
細かいことを書いていくと今夜中には終わらないかも・・・・
地域的は説は・・・・明日かな?