北信五岳ーおまけー志賀高原の山々

北信五岳を見渡せる志賀高原
斑尾山・妙高山・黒姫山・戸隠山・飯綱山を北信五岳と決めるのに、眺めた場所と思われる志賀高原。
おまけに、この山々の話をちょこっと!!。

志賀高原には、火山が多くあり新旧二つに分けられています。
横手山(2305m)・東館山・竜王山・焼額山・笠岳(2076m)などは古い火山であり、これらは長い間に自然の浸食をうけ火山体の一部は削り取られ不完全な火山体になってしまっていて火口の跡もはっきりしなくなっています。
これに対し、志賀山や鉢山は浸食を受けていなくて火山体が噴出当時のまま残されている新しい火山であります。

横手山は約65万年前に活動し、火口は松川の源流部で硫黄鉱山の跡付近と推定されていて、火口の西側である長野県側の外輪山はほとんど浸食により削り取られ残っていませんが、山頂から群馬県側には火山体の一部が残っています。
竜王山・焼額山・東館山は志賀高原の北側につながる火山で、いずれも70~90万年前に活動していたとされていて、笠岳は約170万年前に形成されたドーム状の火山で、この火山だけは溶岩を回りに流さず地下から上がってきたマグマが地表近くで冷え固まって出来た「溶岩円頂丘」と呼ばれる火山です。

志賀山は熊の湯と大沼池の中間にある火山で、志賀山と裏志賀山の二つの峰をもち、山頂付近の火口跡は池や沼、湿原になっていて、この火山の火山の活動は約25万年前に始まり、最後は約5万年前くらいと推定されています。
最初の活動は激しく安山岩質の溶岩、火砕流、火山泥流を大量に流し、その地層は湯田中温泉の地下まで分布し、地表の分布は上林温泉付近で止まっています。
噴出物の流れた跡には凸凹の地形が出来、凹地には水が溜まり湖沼が出来ています。琵琶池、丸池、蓮池、木戸池、三角池などはこれによって出来た池です。

志賀山の溶岩は、幕岩付近で角間川をせき止め湖を造ったとされ、平床、出ノ原湿原などの平坦地はこの湖の湖底であり、石の湯周辺にたまった地層はこの湖に堆積したもので、その厚さは55mにも及ぶとされています。

新期の活動は、大量の安山岩の溶岩で四方に流れ、当時と余り変わらない状態で残っています。西側に流れた溶岩流は、岩のしわが大きな渦巻状になっていて流れの方向をよく示しています。信州大学自然教育園は、この渦巻状の溶岩がつくる台地の縁にあたり、その南側に広がる「おたの申す平」はこの溶岩の中心部をしめているのです。

斑尾山からは東には鳥甲山(2038m)直線距離にして27,5km 36,5kmには苗場山を望むことが出来ます。
斑尾山から見て志賀高原の笠岳の右、白根山の方向先約200kmが東京になります。

北信五岳ー戸隠山

やっと、最後の戸隠山まできました。
これで、北信五岳・・・・の説明責任果たしました。

戸隠山とは、表山(八方睨・1911m)をいいます。表山の三角点は八方睨(はっぽうにらみ)ではなく、八方睨から3~400m北によった地点、別名岩戸山です。
乙妻山(2318m)・高妻山(2353m)の山域、西岳(2035m)・五地蔵山(1995m)・九頭龍山(1883m)を中心とした山域からなる戸隠連峰のひとつです。
一不動から戸隠山、西岳までは絶壁の岩稜が屏風のように連なっていて、蟻の戸渡り、剣の刃渡りと名付けられた難所です。
神話では天照大神が隠れた時、手力男命がこじ開けた天岩戸が飛んできた山といわれています。
戸隠山は、海底が隆起して出来た山です。
戸隠山からはホタテガイをはじめ多くの貝の化石が見つかっていて、遠くから山を見るとうっすらと縞模様が観察でき水中に堆積した地層で出来ていることが想像できます。
奥社周辺の岩は、火山が噴火した時の溶岩の破片や火山灰等が固まった硬い岩で出来ていて、この中に砂や泥の地層そしてその中に貝の化石が見られ海底火山の名残を見ることが出来ます。

約500万年前、北信一帯は日本海につながる海であり、海底で火山が大規模に噴火し、その後約200万年前頃から大地の変動を受け盛り上がり成長していったと考えられています。
硬い岩であるために岩の屏風のような山並みになり、崩れやすい部分は洞くつのようになり修験者の修行の場となっていったのでしょう。

斑尾山の山頂から直線距離、約21kmです。

北信五岳ー飯綱山

飯綱山(1917m)は穏やかな山容で見た目には独立峰に見えるんですが、
霊仙寺山(レイセンジヤマ1875m)瑪瑙山(メノウヤマ1748m)などからなってるんです。
奈良時代から山岳宗教の零場、飯綱修験道として知られ飯綱権現や飯綱忍法の発祥の地でもあり、山頂近くには飯綱神社があります。
登山道には多くの祠もあります。

修験道の地は戸隠のほうが知られていますが、飯綱や黒姫の方が先という見方もあります。山の近くの往来が激しくなったころに、修行の場を求め奥の戸隠山の方に移って行ったようです。

二重式火山で、現在の山頂になっている部分は外輪山にあたり、約25万年まえから噴火を始めたと思われています。
何回かの噴火を繰り返し、溶岩や火砕流が積み重なって富士山型の成層火山に成長し、もっとも高くなったときは標高2500mくらいと推定され、その後約20万年前水蒸気爆発により山の西半分が崩れ、約15万年前ころから新しい噴火が始まり、怪無山、高デッキ、天狗山などの小さな火山が溶岩ドームを造りながら噴火したと考えられています。
飯綱山の最後の噴火は、約5万年前とされていて、火山の噴火は黒姫山、妙高山の方に移動していったと推定されているんです。

斑尾山山頂から飯綱山山頂まで直線距離にして約16.5kmです。

飯綱山は正式には 飯縄山 であります。
飯縄は「飯砂」であり、「天狗の麦飯」(学名・テングノムギメシ)と呼ばれる土中の菌類が多く産出していて、それが山名になったとも言われています。
明治中期に絶えてしまったんですが、天保年間(1830~1843)に出された「善光寺道名所因会」というものの中に、「上面の砂を取り除き、岩の際を手にてすくい出せば麦飯のごとく、栗飯のごとく、採って服するに柔らかにして、何の香なく、風味とてなし・・・・」と飯砂のことを書いてあります。

黒姫山の由来

その1
信濃の国中野の城主、高梨民部大輔摂津守政頼に黒姫という大変美しい一人娘がいました。このお姫様に、沓野奥四十八池の総大将で志賀高原の大沼池主、黒竜(大蛇)が恋をして、黒姫が16歳の時「嫁入り願いたい」と政頼に申し入れたから城中は大騒ぎになりました。
「蛇身にして姫を申し受けようとは何事ぞ、黒竜を撃ち殺せ」となったが、黒竜は炎を吹き大軍を引き連れ大雷雨とともに高梨城に攻め寄せてきた。
高梨城では、弓矢、鉄砲で応戦し黒竜を撃ち殺したが、四十八池からの洪水と雷雨によって高梨城は滅亡しました。
このため黒姫は、亡くなった人々や悲恋に滅んだ黒竜の霊を慰めようと姫獄山に登り黒姫弁財天に諸願を祈り、蛇に恋された自分を恥じて山頂近くの池に身を投じてしまいました。7月17日のことであり、その山は以後黒姫山とよばれるようになりました。
中野市や黒姫山山麓では、黒姫の冥福を祈る黒姫祭を毎年7月17日に行なっています。

その2
大沼主の大竜(黒竜)が若武者に姿を変え、高梨城主に黒姫を「嫁入り願いたい」の申し入れに「馬の競走に勝ったら姫をやろう」と言ったが、城側の策略によって若武者は落馬してしまった。これをうらんだ黒竜は、洪水と大雷雨で城を押し流そうと企んだ。その結果惨憺たる状況の高梨城周辺を見た黒姫は、約束を守らなかった父親を責め護身の鏡を空に投げ上げ黒竜の心を静めようとしました。
黒雲と共に黒竜が現れ背に黒姫を乗せ、鏡に導かれるままに五つの山の中で一番美しい山の頂に飛んだ。
鏡の落ちたところが鏡池であるといわれています。
黒姫は、罪の無い人々を苦しめたことを責め、黒竜は涙を浮かべ許しを得て、以後黒姫と黒竜は誌や幸せに過ごしたといいます。

中野の高梨氏は戦国時代の永正ころになると、平安時代末期以来中野に繁栄してきた中野氏を滅ぼし、現在の小布施・中野・山之内・木島平を支配圏におさめる強大な勢力に発展し本拠地を移したとされています。
鎌倉時代の高梨氏は、諏訪神社上社関係の文書に山田郷・北高梨・林屋・上浅野・小島郷などが所領とされています。そして北高梨を本拠としていたようであります。
高梨氏は武士団として、鎌倉幕府の滅亡や北条氏の没落、南北朝の内乱では足利尊氏の属して、北信濃の押さえとして勢力を増し所領を拡大していったと思われます。
文明・応仁年間(1467~86)になると中央の戦乱が地方まで波及し信濃でも守護小笠原政秀が討たれるなど北信濃も戦国的様相が深まりました。
高梨氏は、越後と近いことから戦国時代の当主高梨政盛は越後の長尾能景に娘を嫁がして、その子為景は能景のあとをうけ越後守護代になっています。
為景は守護の上杉房能の政策を公然と批判、政策をめぐり対立、永正4年(1507)房能を殺害、高梨政盛もこれに加担しています。

ちょっといつもの癖が出てしまいましたが
高梨のその後は、我が郷土飯山にも関係しますが・・・・次の機会に
そでないと、延々つづいてしまうのです。

この高梨氏館跡は土中に10棟余の建物跡があり保存状態も良く
空堀と土塁に囲まれた東西約130m、南北約100mの12400平方メートルが国史跡の指定を文化審議会が答申したばかりです。

このように、高梨氏は善光寺周辺から15世紀半ばから上杉家と共に16世紀末に会津に移るまで北信濃に大きな影響を与えていたのです。

長くてすみません。・・・・・・
第2ダン・・・おたのしみに!!。

史料では永禄2年(1559)3月に高梨の居城が落城となっていますが・・・この時代の・・黒竜は、信玄の北信制圧の将・・春日弾正なのか・・・?

その2 からは長尾為景なのか・・・?

北信五岳ー黒姫山

黒姫山(2053m)は斑尾山から直線距離にして13kmです。
斑尾山の頂上からは、また大明神岳からは目の前に見えます。
典型的なコニーデ火山(現在はこういう呼び方はしないそうですが)で見事な円錐形の山です。
ですから、その山容から「信濃富士」ともよばれ、頂上には半円形の外輪山があるんです。
なだらかに見えるんですが、約4万年前に起きた水蒸気爆発によって出来た外壁の一部であり、このときの爆発で山頂は大きく崩れ、北西方向に岩塊を押し出しています。現在も北麓には、数十メートルもある岩が多くあります。
黒姫山の東側山腹にやや小さい丸い小山「御鹿山」がありますが、この山の溶岩の上には約7万年の火山灰が堆積していて、この様な古い火山が山麓を取り巻いていて、約10万年前くらいには標高の低い所で火山が活動していとと推定されています。
これらの古い火山を、「前黒姫火山」って呼んでるんです。

黒姫山の由来は・・・・・
黒姫山にはいくつかの伝説があります。
黒姫というお姫様にからむ伝説から呼ぶようになったと地元の人たちは話しますし、寛仁4年(1020)恵信という僧侶が、万民豊薬・仏法興隆を祈願して、黒姫弁財天の像を刻んで奉納したことから黒姫山というようになったとも言われています。

その他の伝説は、次回に・・・・・