ハードな10日間その結末

5月25日(木)はれ
今日から2泊で奈良から修学旅行のバスドライバーとガイド14名が宿泊
夕食20時30分。ドライバーさんなかなか休まず、明日の用意もあり、26時30分就寝。
5月26日(金)はれ
朝食7時のため、6時起床。 AEガイドのため、8時トレパーク集合。9 時~11時30分AEガイド。昼休みゆっくりと思いきや、1部屋にどうしたことかアリ発生、別の部屋をベットメイク。休む暇なし。午後2時~4時30分  AEガイド。
夕食17時のため、かた付けもせず戻り食事用意。ドライバー、ガイド夜の異動の為一旦仕事、最終帰宅21時30分。明日の準備をし25時30分就寝。
5月27日(土)はれ
朝食6時30分のため、5時30分起床。8時、各体験アイテムへ誘導の為ホ  テル前に集合。体験見送り
とりあえず終了。
今日は、おかあちゃんの誕生日のため、寿司パーティー。おらっち体力回復を  願って250gのステーキも一緒に。ビールとワインも・・・・
ちょっと食いすぎ、飲みすぎ・・・早々にダウン。
5月28日(日)はれ一時雨
アクティブ4、ラフティングのお手伝い。7時30分出発の為6寺30分起床。午前サポート、午後ラフトガイド、全体に時間押せ押せ終了5寺20分。6時からソフトボール大会の祝勝会のパーティーがJAZZYにて・・・はたして準備間に合うか・・?
6時10分無事帰宅、同時にパーティー開始。そして終了24時30分、かた付けし、25時30分就寝ちょっとノドの調子が変。

5月29日(月)はれ
9時からテニスコートの整備、昼過ぎまでかかり、急いで昼ごはんをかっ込み妙高市の支所へ、2時からのエコトレッキングの反省会議に出席。実行委員長としてご挨拶。なんだか疲れ取れないんでまたまたステーキ食べ寝ようかな~・・っとその時、「なにしてるの!、早く来なさい。」の・・・・なんだ~?7時からアクティブ4の中間慰労のお食事会・・・だった。
またまた飲みすぎ・・・・結局就寝24時。体・・・だるい!。
5月30日(火)はれ
9時からトレッキングトレイルの整備。数人に「あんた!、声変だよ」・・・「恋わずらいかな~」「バカいってら」・・・でも、体の筋肉・・変。関節・・痛い。 久しぶりにラフト漕いだから・・筋肉痛だ!  相方も「そうだな!」
整備終了 16時30分。  今日こそ早く寝よっと。
5月31日(水)はれ
AEガイドの為、8時AEパーク集合。午前中AEガイド、まだまだ筋肉痛に体の皮膚がやけにピリピリ敏感、昼ごはんに戻り体温計をわきの下に38度4分もあるじゃね~か~。28日の夜の体冷えたのから、おらっちの体に変化が起きてたか~。午後のAE休んじゃォ・・・・だめだ、代わりがいない。ガイドの人数ぎりぎりだ!。解熱剤飲んで、何とか4時30分でお勤め・・ごくろうさん。
夕ご飯いっぱい食べて、薬飲ん早よう寝よ。 幸い食欲はあるぞ!。でもビールは味もしねえし、まずくて飲めね~。・・・いつもこうだと酒やめられるのに・・  夜中気分悪り~。何時だ?いっぱい寝たような気がしたけど、まだ10時30分か、熱はかろっ・・ゲッ気分悪いわけだ39度2分、飲み薬だけじゃ駄目だ!座薬と併用だ。
6月1日(木)はれ
トレッキングトレイル整備の2日目。熱38度2分、だめだ!事務局、担当に  一日中37度5~8分での攻防。横になると直ぐに熟睡、けっこう体まいってるぞ~。こんな時に限って、夜、す~さん・ケンちゃん・タマちゃんから「JAZZYやってるッ?」の  すんません
6月2日(金)はれ
37度2~5分の攻防。13時30分からどうしても出席が必要な会議が飯山市役所で・・・「北陸新幹線北信広域建設推進協議会 総会」 北信の市町村長に県会議員・国会議員・関係機関の長が出席してました。おらっちも背広にネクタイです。シャンシャンの総会1時間30分くらいで終了・・たすかった~。
6月3日(土)はれ
観光協会主催のミックスダブルステニストーナメントが今日と明日の2日間あります。10時から開会のご挨拶に、37度2分から落ちません。他の人にお願いをしようと思いましたが、いかなきゃまた、あいつ熱出して寝てるらしいぞ・・なんて噂されそうで・・・なんたって病気と怪我のデパート・・なんでね!
3時からは、アメアスポーツの広報部長が来斑され打ち合わせがあり・・・・
ハードな10日間が、今終わろうとしてます。
現在、36度8分まで来ました。普段36度2~4分なんで・・・つらかったです。

寺瀬のルーツ

昭和45年(1970)に発行された「信濃の街道」という本があります。
須坂市出身、吉原澄悦(よしはら すみよし)という人の著書で長野県を通る街道を1年間かけ自ら歩きながら、街道が持つ歴史を振りかえりながら、その風景を切り絵にしまとめた本であります。
切り絵の数は、54にもおよびます。
街道は、中仙道・甲州街道・北国街道・善光寺西街道・三州街道となっており
中仙道は、碓氷峠から塩尻峠を越え木曽路まで
甲州街道は、蔦木宿(富士見町)から佐久街道の野辺山原
北国街道は、海野宿から松代、須坂、善光寺(長野市)、柏原(信濃町)      谷街道(飯山)から越後へ
などが描かれています。

その中の、谷街道・飯山の文章の中に飯山のことを、お寺さんの多い町・仏壇屋さんの町・綱切橋のヨシズ・雪国特有の雁木などが紹介され、

昔、戦国の世に、寺瀬某なる男が武田軍の従って飯山に来たが、戦争の悲惨さにいや気がさして、明昌寺裏の栗畑に隠れ、のち愛宕町に住みつき、彫刻や絵をものしていた。その子孫が正受老人(近世臨済禅の中興の祖といわれる白隠を導いた人)のすすめによって、京都からひな形を取り寄せ、仏壇を作り始めたという話を私は聞いた。これが飯山の仏壇作り発祥の一説であるが・・・

という文章があります。

この寺瀬なにがしが、おらっちの家の先祖であります。
甲斐の国、寺瀬の里の出身といわれ、寺瀬の屋号は「甲府屋」です。
歴史をたどると、寺瀬なにがしは、寺瀬重高とあります。飯山に来た年はハッキリしませんが、1684年の正月に没となっています。
正受老人(1642~1722)の勧めを受け、仏壇を始めたのは3代目の吉太郎と思われます。
戦国の世に正受庵は荒廃しましたが、それを再興したのが山岡鉄舟(1836~1888)です。年代は解りませんが正受庵との関わりから、山岡鉄舟が寺瀬の家に宿泊し、その礼として残したという書が残っています。

江戸終期から明治・大正にかけては、祖は彫刻にて名を馳せていたようで、栄村箕作(さかえむらみつくり)にある常慶院という寺の山門前の仁王像は、祖の作で荷車にて2日かけ運んだと伝えられています。
この寺の山門は見事なもので、北陸の陽明門とまでいわれるほどで、NHKの「行く年来る年」の中継にも使われたほどです。

次の大河ドラマの主人公「山本勘助」も武田の間者としてこの寺に宿泊したという話もあります。弘治3年(1558)6月の末のことです。

寺瀬の家は、おらっちの息子で19代目になり、380年ほどの家系になります。
寺瀬の姓は少なく、全国でも75前後の世帯数のようです。

寺瀬という姓の人、何かでこのグログ読んだら連絡ください。
どこかでツナガリあるかも・・・・・

とっても「え~・列車」

ビッグ・マウス・ジャズオーケストラ
おらっち仲間 の幻のバンドだ。

テーマ曲は「Take The “A”Train」 A列車で行こう でいこうぜ! で決まりそう。・・・・・・とりあえず。

どんなスタイルがいいのかいろんな”Aトレイン” 聞いた中で
汽車が動き出す音を模写したユニークなアレンジのハードバップ演奏 クリフォード・ブラウンの「スタディー・イン・ブラウン」の中の”Aトレイン”みたいのがビッグ・マウスにはいいな。

メンバーがユニークなんでユニークがいい!。

来月6月26日は、クリフォード・ブラウンが交通事故によって25歳の若さでこの世から去ってしまった日なんだ。1956年のことだけど。
もう、50年も経ってしまった。
もし、事故に遇わなかったら今年で75歳。
おらっちたちは、彼のジャズをいっぱい、いっぱい聞くことができたし、今どんなトランペットを聴かしてくれるんだろう。

ディジー・ガレスピーのオーケストラで、この日の夜ハーレムのアポロ劇場に出演してたベニー・ゴルソンは1957年に「アイ・リメンバー・クリフォード」を発表している。これは、そのときメンバーとして一緒居たリー・モーガンにクリフォードの後継者として演奏させようと曲を書いたのだ。

「リー・モーガンVOL3」の中の「アイ・リメンバー・クリフォード」は19歳のモーガンにブラウンの魂が乗り移ったかのようなレコーディングだったといいます。

訃報を聞いたときショックでオーケストラはステージを続行できなかったらしい、まだ18歳のリー・モーガンは舞台の上で泣き崩れたと伝えられてます。

「Aトレイン」はマンハッタンの南北を結ぶ8番街線の通称でニューヨークの地下鉄です。歌詞の内容からダウンタウンからハーレムにこの電車は向かっていて、ハーレムでもシュガー・ヒルというところは裕福な黒人が住む住宅街だったらしい。デューク・エリントンもここの155丁目に住んでいたくらいで「シュガー」という言葉に「おいしい」とか「お金持ち」という意味も含まれていて、彼らが住みたいと思う住宅地であったんだろう。

だからそこに行こう、Aトレインで・・・・・ということだろう。

ハーレムのシュガー・ヒルへ行きたけりゃ、A列車に乗りな。それが一番の近道さ、揺られてるうちに、直ぐつくさ。っていう内容。

もう一つ
アメリカに奴隷制度がのこっていた頃、南部の脱走奴隷を北部に逃がす組織があったといいます。それを運んだ列車を「Aトレイン」と暗号名のように呼んでいて、A列車にのって黒人の憧れの地に行こうというメッセージが込められているというのも間違いではないらしい。

オープニングには「A・トレイン」をやりて~。
憧れの舞台に「え~・トライ」して 立つぞォ!
それには先ず、カスタネットからトランペット、トライアングルからサックスにきり変えるのと、楽器の出来るメンバー探さなくちゃ・・・・・

憧れに近づく「え~・列車」どこかに走ってませんか~。
それも、新幹線並に早く目的地に着くやつ・・・・を。

斑尾でテニス

やっと気温も上がり目で雪解けも大分進んだよね。

ぽかぽかしてくると楽しみの虫が動き出すらしく、2m近くもある雪を早くなんとかしたい人や、あれだけこき使ったピーター君を雪も降らないのに
細長い四角の地べたで、あっちとこっちで毛の生えたようなタマを硬い団扇に糸張ったようなもので打ち合うために
まだ、こき使う人がいたり・・・・。

でも、冬の仕事とちがった体の筋肉使ったり、頭脳使ったり、同じ話題で罵り合いながら、講釈こきながら酒飲むのも・・・楽しくていいよね。

健康に良いからってテニスやって、終わったあと酒飲む機会が楽しみになると
なんのためのテニスか・・・わかんね~よな。

健康のために、ふんじゃッてテニス始めようと、とりあえず勇んでカベ打ちして家に戻ると、女房が「今日、どうだった・・・?」  って聞くんで

「ばっちしさ!。スポーツ万能なおらっちじゃん、反射神経良いんで、ボールが来ると頭脳がさッ、おらっちの体に命令するんだよ。
「左にはしれッ! とか後ろにさがれッ! 前に出ろッ! ってさ。

「ふ~ん・・・・ それで・・?」

「するとさ! こんどおらっちの体が頭脳に向かって答えるんだよ」

「えッ、だれのこと、おらっちのこと・・?」ッてな。

おらっちだってやりゃ~うまいんだよ。
体と頭脳が、ちょっとバラバラだけど・・・。
ラケットもってるだけじゃ・・・・頭脳も体も鍛えられね~し。

テニスに関する小話をひとつ・・・・?・・・ふたつ。

その 1
昔よその国では、上流階級やそれにあやかりたいと思ってる親を持つ女の子達はテニスをうまくなるように、しつこく言われてたらしい。
テニスという球技によって、タマというものの大切さ、捕らえ方の難しさを味わされ、股の間からタマを後ろにそらすようなドジは絶対に許されず、経験豊かなレディー達がタマを右に左に巧みにさばく様をしっかりと見せられてたと言います。

その 2
テニス熱心なおやじが、娘がどうしてもテニスをやりたいと言うんで、一から教え始めた。

「そんなにやってみたいんなら」
「いいか!まず違いから言うよ。タマには毛の生えたのと、すべっとしたのとあるが、本当は毛の生えたほうがいいがちょっと難しいし、いきなりは無理かもしんねえ。」
「わかったわ。じゃプレーの仕方教えてよ」
「いいよ。 最初のポイントはラブだ、ラブって言ってみな」
それをたち聞きしてたお母さん。
「おとうさん! なんてこと教えてるの! 性教育だったら私がするわよッ」

「バカ、娘になんてこと想像させるんだッ!  テニスの話だぞ」

ジャン、ジャン  ッてな。  

今年はテニスでもやるか!・・・・小回りがきく足ももってることだし。

酒ものまね~で、昼からこんなこと書いてんじゃね~よ.。   ッてか。

おすすめBGMは、JJazz NetのPLAY LISTから THE MARKET

音楽講座

今日、RAY・CHARLESのgenius・loves・company(ジー二アス・ラブ~永遠の愛)のCDが手元に届きました。

2004年6月10日 73歳で偉大な生涯を閉じたレイ・チャールス
彼の生涯は、映画「Ray」で忠実に描かれています。

彼のヒット曲は数え切れないほどあるが、「Ray」の映画では曲に関する逸話の真相が受け取れておもしろい。
おらっちの年代では、やはり印象があるのは「WHAT’D・I・SAY」や「GEORGIA・ON・MY・MIND」だよね。

「我が心のジョージア」はスタンダードナンバーを彼独特のスタイルでカバーして大ヒットしたんだ。
この曲は、1930年に発表されたんだけど作詞・作曲はなんと
前にブログ「スター・ダスト」のなかで紹介した
ララミー牧場の爺やでもあり、スターダストの作曲者でもある
ホーギー・カーマイケルなんですよ。

曲のイメージは、土と草の臭いがする望郷の歌 って感じだし
アメリカ南部の香りが高いジョージアを歌ったものとして、ジョージア州の正式に州の歌として定めたというのは、映画「Ray」を見ると経緯が良くわかる。

しかし、この歌はカーマイケルの妹「ジョージア」のことを歌ったとも言われているし、架空の土地のことを歌ったとも言われていておもしろい。

いずれにしても「我が心のジョージア」と言う響きはこれらの全てを感じさせてくれるようなきがします。

初めて発表されたのは、1930年9月でヴォーカルもカーマイケルだったんです。

ビッグ・マウス・オーケストラのメンバーの為の音楽講座でした。
その内、映写会と飲み会を合わせた音楽講座を開きたいと思います。

メンバーの中には、ネットでサックスを狙ってる奴がいるらしい。
それぞれ、着々と準備に入ってるのかな・・・?

おらっちも、カスタネットで手の平の返し・・確認と練習。

ちょこっとJAZZは
JJazz Net のPLAY LISTから THE STATION を選択。