斑尾山麓開発の成り立ち 11

問題点 及び その処理方法として
以下のようになっています。

スキー場計画について

斑尾山麓の開発は、スキー場の開設が絶対条件ともいえるものであり、これが強力な推進こそ開発の成否を左右するものである。

このような観点からスキー場計画は、中小規模でなく国際級の大規模な計画としたものであり、
従って菅平方式による還元施設では投資額の面からみて中途半端なものとなると判断し、民間資本の導入を企図したものである。

民間資本の導入は、いち企業による利益の吸収であるという論議もあろうと考えられるが、
これによってスキー場開設に要する還元投資額が他の方面に振り向けられるものであり、
基盤整備の進展とともに民宿の開設等による地域の利益は飛躍的に増大するものであって、県の計画に従っての秩序ある開発を進めることにより充分カバーできるものと考えている。

また、関係市町村の考え方は、スキー場開設に伴っての宿泊施設の充実を考えており、
周辺部落の民宿化と共同宿泊施設の開設に意欲をみせていて、スキー場用地の確保についても、
関係市町村有地を全面的に貸付する方向で固まっており、
保健休養地の価値を高めるという認識にたって全面的な協力態勢をとっている。

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スキー場開発計画

全体計画        スキー場用地  全体面積 232ha

内訳                         飯山市有地 36,7ha

妙高村有地 66,7ha

私有地  55,3ha

江野氏53,3ha

五千尺 2,0ha

信濃町関係40,0ha

センター地区用地33,3ha

スキーリフト         1号リフト    400m

2号リフト    580m

3号リフト    330m

4号リフト    580m

5号リフト    670m(ダブル)

6号リフト    620m

7号リフト    600m

8号リフト    300m

9号リフト    300m

10号リフト    350m

11号リフト    630m

計      5360m

ロッジ

延 1408㎡(426坪) 250人収容(当面一期計画分)

宿泊施設

全体計画の完成した時点でのスキー客の動向を近接の黒姫スキー場等の実績をもとにスキー場の規模、地場等から、シーズン総入込数20万人、1日最高入込数8000人、1日最高宿泊人数2400人として、スキー場周辺に宿泊施設(ロッジ団地)地区を設定すると共に地元の民宿等を主体とした宿泊施設の整備、拡充を進める計画である。

ロッジ団地       (飯山地区)46300㎡    400人

(信濃町地区)99200㎡    800人

スキー場センター地区 66100㎡    560人

民宿等を主体としたその他の宿泊施設    640人

計        2400人

当面1期計画においては、シーズン総入込数5万人1日最高入込数2000人、1日最高宿泊人数600人として、スキー場センター地区周辺に250人収容のロッジを建設するとともに、更に2~3のロッジを誘致する。

という計画でありました。

 

おばけミズバショウ

斑尾高原観光協会のホームページに、「山の家 スタッフブログ」があります。

梅雨入り直前の「沼の原湿原」からのリポートに、「おばけミズバショウ」の写真が載っていました。

春を告げるミズバショウも、現在は葉っぱのみで大きなものは一メートル近くにもなっていて芭蕉の木の葉にそっくりです。

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バショウに関しての一言知識

ミズバショウとシーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 1796~1866)の関係。

シーボルトは1796年ドイツに生まれ、医師である両親の影響を受け医学を学ぶかたわら動物学、植物学、民俗学に興味をもち大学で学んでいます。

1822年オランダ大使館の医師としてバタビア(現ジャカルタ)に務め、1823年に日本の長崎出島にオランダ商館の医師として来日、日本人に医学、植物学を教え、当時はオランダ人でなければ来日が無理の為オランダ人に成りすましていたらしい。

江戸への4年に一度の旅の中で、植物採集や地理を調べ、1828には富士山の高さを測っており、その時は3794メートルと記されています。

この年、日本地図等の持ち出しが発覚し1830年日本追放となっていす。

1858年オランダとの間で通商条約が結ばれ、1859年に再来日、1862年に帰国しています。長崎滞在時は、「おたき」(瀧1806~1859)という妻と「いね」(イネ1827~1903)という娘がいて、「いね」は日本最初の女医であり「オランダおイネ」として知られています。

シーボルトが出島に来る前に、出島にはケンベルやシュンベルクが来ていて植物の種を盛んに収集、東洋の珍しい香辛料を探していたらしい。

ケンベル(1690年来日)は植物学に詳しくシーボルトも影響を受けていて、ケンベルやシーボルトは日本の植物をオランダをはじめヨーロッパに紹介していて数々の植物に名前をつけています。

ケンベルはウメ、ヤマブキ、シュウカイドウ、サザンカをヨーロッパに紹介。イロバモミジ、フジ、テッセン、ウツギ、アジサイはシーボルトが命名者で、特にアジサイには、「おたきさん」学名ヒドランゲア・オタクサとなっています。

バショウ=学名「ムサ・バショウ」中国原産の多年草であり、草といっても大型で幹の部分だけで2,5メートルにもなり全体では4メートルにもなりバナナの木に似ており小さなバナナができます。大きく目印にもなり木陰も提供する為に「旅人の木」とも呼ばれ、このバショウの学名もシーボルトが命名者であます。成長した葉がバショウに良く似ており、水辺に咲くことからミズバショウ(水芭蕉)と呼ばれ、バショウは水芭蕉の名づけ親であると言えます。

シーボルトは多くの江戸時代の生活用品や生物の標本をオランダに持ち帰っており、トキ(朱鷺)や1905年に絶滅したニホンオオカミの剥製も含まれていて、シーボルトがオランダに送ったトキの標本に1871年学名が「ニッポニア・ニッポン」になり、ニホンオオカミは、1905年(明治38)が日本で最後の捕獲の記録であり、ニホンオオカミの剥製は現在、日本に3体、イギリスに1体、オランダに1体あるのみであるそうです。

ついでに、松尾芭蕉

松尾芭蕉は1644年伊賀上野赤坂村(三重県上野市赤坂町)に生まれ、幼名は金作、のちに宗房と名乗り、俳句発表初期の頃(1675)の号は「桃青」であった。1681年春、38歳の時、門下の「李下」よりバショウを一株譲り受け庵に植え、その葉がみごとなことから評判になり「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、「ばせを植ゑてまづ憎む萩の二葉かな」と詠んでいます。

1682年 39歳のとき初めて公に「芭蕉」号を使用しています。1688年8月11日 45歳の時、美濃の国から信濃の国更科に、仲秋の名月を見るために訪れ、長野善光寺に立ち寄り浅間山の麓を抜け、江戸に戻っています。このときの旅を「更科紀行」として残しています。

更科の姨捨山にかかる月は平安時代から多くのものに詠まれており、芭蕉が訪れた後もその評判は各方面に知れ渡り、この月を見るのが風流とされ多くの旅人が訪れるようになったそうです。

 

斑尾山麓開発の成り立ち 9

開発の方式

開発の主体は、飯山市、妙高村、信濃町を対象とした、約337へクタールを菅平方式により実施する計画であるが、
スキー場計画については国際的な大規模スキー場とする構想でもあり、効率的は投資をする観点から一部民間資本を導入する計画である。

民間資本の導入に当っては、あくまで全体計画の一環として県の方針にもとづいて実施することとし、
このため県をはじめとして、関係市町村、民間会社の開発担当者それぞれ2~3名により、開発計画検討のチームを編成し、
計画面、事業執行計画等について定期的な研究会をもつようにする計画である。

また、開発の根幹でもある飯山市~野尻湖の基幹道路、妙高村上樽との同路線を結ぶ取り付け道路の一部等については、
開発面積比により建設費用配分を行う計画である。

とされています。

チガヤの花穂

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チガヤの花穂から、風に吹かれて綿毛が飛び始めました。

茅萱(チガヤ)は白萱とも書きます。昔はこの葉で餅を包んだそうで、これを

「茅巻き」と呼ぶようになったと言われています。

春先の葉が出る前に咲く褐色の花穂(かすい)をツバナといって、なめると甘い味がします。

江戸時代には、チガヤのこの褐色の甘い味のする花穂(かすい)を売り歩いたといい
「つばな売りよくよく見れば女の子」という川柳があるらしい。

こんなのも見つけました、
古典の「万葉集」巻八の紀郎女(きのいらつめ)が大伴家持(おおとものやかもち)に
「戯奴(わけ)がため 我が手もすまに春の野に 抜ける茅花(つばな)そ 召して肥えませ」
春の野で採ったツバナを食べて太ってくださいという意味になる。

チガヤの名前の由来は、和名のチガヤのチは千(1,000)の意味で、多数をあらわしてチガヤが、群生することからチガヤが名付けられたということです。

繁殖力が強いために、亜熱帯地方では「世界最強の雑草」とまで言われているそうですが
斑尾高原では、数か所に小さな群れを見る程度で、そのようなイメージはありません。