野ネズミ今年は現れず

新聞に中に、「野ネズミ今年は現れず」なんて記事を見つけました。
木曽地方や大北地方(大町・白馬方面)では、昨年秋にヒメネズミと見られる野ネズミが大量に人家に出没して、役場などには殺鼠剤の注文が殺到したり、ホームセンターなどでもネズミ対策商品が大量に売れたとのこと。

しかし、今年はネズミがほとんど確認されず、各地方でも殺鼠剤の注文は例年並にとどまり、ホームセンターでも昨年同時期の15%にとどまっているらしい。

専門家の話として、今年は山のドングリが豊作で熊の出没も減っていることから、ヒメネズミも同様に餌が豊富な為山から下りてこないのでは・・・と推測。

という内容の記事なんです。
確かに、おらっち達山を歩く者たちの間でも、今年はドングリは豊作だったと感じてますが、その反面ブナの実は本当に不作だよね~・・・が実感。

ブナは同じ固体から雌花と雄花を一緒に咲かせる「雌雄同株」の木なんです。
りっぱな種子を付けるには、異なる個体から受粉する「他家受粉」が必要なんだって。
花を咲かせても、他家受粉できず自家受粉してしまったり、虫による害にあったりすれば立派な実が付かないことが多い。今年は、自家受粉で不作になったような気が、おらっちはします。

この様なことから、ブナは毎年決まって実をつけず、数年のサイクルで豊作と凶作を繰り返します。これを「マスティング現象」と言いますが、その仕組みは解明されていないそうです。

ブナの実は、タンパク質や脂質が豊富な栄養価の高い実です。
そのため、ネズミは豊作の年に大量の実を食べ冬を乗り越え春の繁殖期を向かえ、豊作の翌年にはネズミが大発生するわけです。

ブナは自分の子孫を増やし残す為に、実をつけずネズミを減らす為に「マスティング」を行なっているとも言われています。

ヒメネズミは、日本しか生息しない貴重な日本固有のネズミでしっぽが長く木登りが得意で半樹上生活をしている。
落ち葉が厚い森林を好んで、実や昆虫などを食べ年1~2回繁殖し1度に2~9匹の子供を産む・・・・だから大量発生するんですね。

それにしても、ブナがネズミとの関係でマスティングしているとしたら・・・・すごい!!。

おらっちガイドでブナの話をするときは・・こっちだな。

信濃の国・・その2

おらっち達、長野県人は海を見るとどうしてもはしゃいでしまいます。
海が無い県として、海への憧れや山ばっかし見ているせいで、あの広々とした大きさに心がうきうきして、あの山の向こうには何があるんだろう・・・より、あの海の向こうには何があるんだろう・・の方が想像したときわくわくするのかも・・・

「信濃の国」の1番にも、「海こそなけれ 物さわに」ってあるとうり海に遠い県で、海は憧れだっかもしれないのが、3番に出てくる「諏訪の湖には 魚多し」の湖を「うみ」って読ませています。
きっと、作詞の浅井 さんも松本の人なんで海には憧れがあったもかも・・・

12月5日の信濃毎日新聞に、「琵琶湖就航の歌」の記事が出てました。
作詞者と作曲者の不思議なつながりを長い間調べ、自費出版をした元NHKアナウンサーの飯田 忠義さんの記事です。

「琵琶湖就航の歌」・・・「我はうみの子・・・」ですが
「我は海の子 白波の~」ってのは文部省唱歌の「海」で
「我は湖の子 さすらいの~」ってのが、「琵琶湖就航の歌」

加藤 登紀子さんが歌って大ヒットしたんで、印象が強く「海」を歌うときうっかり「琵琶湖就航・・・」の調子で歌っちゃうこと・・・・ありません・・?

ここに出てくる「湖 (みずうみ)」はもちろん琵琶湖のことだけど
これを作詞したのは、諏訪湖のほとり岡谷市出身の「小口 太郎(1897~1924)」って人。
小口 太郎が、旧制三高(今の京都大学)のボート部で部員とボートで琵琶湖を巡っているとき書かれたそうです。きっと生まれ育った諏訪湖の情景を思い出しながらとも想像できます。1917年(大正6年)のことです。

それと、明治33年に発表された「信濃の国」の歌詞に湖が「うみ」となってることも影響し、湖を「うみ」としたもかも・・・。

ちなみに、作曲者は新潟市出身の「吉田 千秋(1895~1919)」って人。
独学で作曲を学び、1915年に発表された曲で、当時三高で「ひつじぐさ」という歌で流行ってたこの曲に、この詞をあてて新入生の歓迎会で歌ったところ評判になり広がった・・と書かれています。

また、この二人は一度も会うことなくこの歌が誕生し、二人とも二十歳代でこの世を去っており、好奇心旺盛で穏やかな性格など、「二人はいろいろな面で似ていた」と長年取材をしてきた飯田さんはコメントしています。

岡谷市の釜口水門に近い諏訪湖畔には、小口 太郎の銅像が諏訪湖を見つめるように建ってます。

それと、加藤 登紀子と小椋 桂は共に東京大学のボート部に籍を置いたことがあるらしいですが、今でも歌い継がれている京都大学ボート部の「琵琶湖就航の歌」と加藤登紀子が歌うのとは、ちょっとメロディーが違うということを聞いたことがありますが、知ってる方・・・教えてください・

長野県歌・信濃の国

この間、「信濃の国」の経緯を聞きかじった中で、どうして北信地方が詞の中に出てこなかったんだろうと漠然と考えたら・・・
一つは作詞の浅井 列氏が松本(中信)の人だったことや
信州(長野県)が廃藩置県で統合されてきて経過、県庁が松本でなく長野に置かれたことなど様々な経緯からが推測されておもしろい・・・・

いずれにしても、多くの郡が再編され、一つの県になった事により、長野県を「信州合衆国」と呼ぶ人もいるくらいですから・・・。

ところで、「信濃の国」の5番に・・(長野県出身の著名人)の歌詞
旭将軍 義仲も  仁科の五郎 信盛も    とある
信盛ですが、
いろんな記事に出てくる仁科五郎盛信とどう違うの・・・?    ってことで・・・・

仁科五郎盛信って誰。
盛信は、今や話題の武田信玄の五男で、長野県の大町地方(白馬方面)の豪族「仁科」の姓を引き継いだ人なんだよね~。
「風林火山」でも仁科の姫が出てくるけど・・・
後に、高遠城主だった1582年に織田の軍勢に攻められ戦死しています。

どうも、同一人物のようです。

作詞家の浅井さんは・・ちょっとなれナレらしくてすんません。
江戸時代の書物の研究家でもあったらしく、江戸時代に出来た書物「甲乱記」という書物などには「信盛」と書かれていることから、そのように詞にしたものと言われています。

大町市やこの地域に残る古文書に残る自筆のサインには「盛信」とあるらしい。
他にも多くの文書にもあることから
現在では、「盛信」が一般的ということです。

でも、長野県の武将といえば、真田幸村って人もいるのに・・・。

この5番の、義仲ってのは平家を最初に破った「木曽義仲」のことで、
木曽義仲だって本当は、出生地は埼玉県なんですけど~。
武蔵の国大蔵館って所、現在の埼玉県嵐山町で、幼年期に木曽に逃れて来たんです。
最初に、越後の平氏の討伐時には、斑尾の西(妙高高原駅の東山)熊坂山に陣を張ったんですよ。(1183年平安時代終期)

他には飯田出身の江戸時代の経済学者「太宰春台」、松代出身の思想家「佐久間象山」が詠われています。

信濃生まれ長野県育ち

おらっちは、長野県生まれの長野県育ちで人生60年のほとんどが長野県。
学生時代に4年間東京暮らしをしたくらいです。

いろんな県出身者と友達付き合いをさせてもらってるけど、ほとんどの県には県の歌、いわゆる県歌ってのは無くて知ってることさえ聞いた事がありません。

おらっちの長野県には、ちゃ~んとした県歌があるんです。
ご存知の「信濃の国」です。
ほとんどの長野県人は、これが唄えるんですね。6番までもあるなが~ィ歌なんですが・・・・。
歌詞の内容なんですが、
1番には、長野県の地理に関することが詠われ
2番には、長野県内の山や川
3番には、長野県の産業
4番には、名所旧跡
5番には、長野県出身の著名人
6番には、なぜか碓氷峠と信越本線で結ばれています。
今の時代にはそぐわない部分もありますが、作詞された時代の長野県全域の地理や歴史、文化、長野県に関係する人物が平均的に詠われていて、北信・東信・中信・南信とよばれる4つの地域の一体性を持たせるための歌とも思えます。

しかし、北信地方でもこの地方、長野市から北の地方は1度も歌詞には出てきません。
そのため、下高井郡(当時は飯山・野沢温泉・木島平・中野・山之内地方)は独自に群歌をつくったらしい。

「信濃の国」が県歌に制定されたのは昭和43年(1968年)5月20日のことで、もともとは小学校唱歌として明治32年(1899)に発表されています。

明治33年の秋には、師範学校の運動会で女子生徒の、いわゆる全体ダンス?として発表され、師範学校を卒業し教師となって県内に就任し、この曲を小学校で運動会では必ず演奏されたり、地域のお祭りなどでも紹介され歌われたことから全県民に知れ渡ったといいます。

作詞は長野師範学校(今の信州大学教育学部)の舎監長を務めていて、松本市出身 坪井 列(1849~1938)って人。
作曲は、最初は依田 弁之助って人が曲をつけたんですがあまり歌われず、依田の後任として師範学校に来た北村 季晴(すえはる)(1872~1930)という人、銀座生まれの江戸っ子とのこと。

江戸っ子が長野県の県歌を作曲してたとは・・・・

東京都いえば・・・もっとも親しまれてるのが東京音頭・・都歌ではないけど。
この東京音頭を作曲したのは、長野県人(おらっちが住んでる直ぐ近くの中野市出身)の中山 晋平 なんです。

長野県と東京都はいろんなところで縁があります。
信州で生まれた「そば」を全国的に有名にしたのは江戸っ子で
桜で有名な高遠藩の内藤家下屋敷跡は新宿御苑になってるし、信濃町の名の元にもなったとのことであります。

信濃の国は~ 十州に 境連ぬる 国にして~・・・てか。

やっぱり!!降った・降った!

昨日からの雪が、今朝までに約60cmくらいになりました。
初雪としては久しぶりの積雪です。

家の前の道路で、おらっちの太ももくらいまでありました。
あいつの太ももだったら・・普通の人は膝くらいだな・・・・って言ってる奴の声がきこえるようです・・・・が。

飯山の町もすっかり白くなり、20cmくらいの積雪でした。

斑尾高原への道路わきの唐松やミズナラなどの木は、まだまだ葉っぱがついてるのに、そこに湿った雪が付きその重さにほとんどが弓なりになってました。
重さに耐え切れず折れてしまった木も何本か・・・・

斑尾高原に36年、これで37回目の冬を迎えたおらっちの記憶の中では
初雪として一番は、10月28日の80cmくらいが記憶にあります。昭和54年くらいだったと思いますが、日にちは忘れません。というのは
10月28日と言えば・・・・おらっちの誕生日・・・・だからです。

予報では、あさってくらいには雪マーク。
ひょっとしたらこのまま根雪に・・・・

でも、初雪が多いと12月が暖かになるのが今まで結構経験してるんで心配。

一昨年は大雪、昨年は少なくて3月下旬にはスキー場クローズ。今年はちょうどいいかも・・・・願いたい。・・・です。

ちなみに、昨年は12月17日の夜から約80cmの雪でした。
その後、暖かくクリスマスのお客さんのために
雪が充分でないため圧雪車でのゲレンデ整備が出来ず、スキー場、スキースクールのスタッフ、観光協会の会員など総勢80名くらいで第2クワッドリフト横ジャイアントバーンを、スキーをつけて踏みながら整備したんです。